3.5 24〜30ページ目 動物園2


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 アイスティーを飲み終わる前に、私と直はオランウータンのエリアに向かって歩き出した。ところどころ、アライグマやライオンなどのエリアにも立ち寄る。


 土曜の午後二時過ぎ、園内は結構人が多くて、私は人波に酔ってしまい、まっすぐ歩けなくなった。少しパニックのようになって、息がしづらい。こんなところ誰にも見せたくないのに……。結局、その場でうずくまってしまった。


 私が発作を起こしたり具合が悪くなると、大抵の人は怖がるか尻込みしてしまうけれど、君は私が「いつものことだから」と言うと、木陰にあるベンチまで私を連れていって、落ち着くまで何も言わずに隣にいてくれた。


 このとき、私は背後から強い視線を感じたけれど、怖くはなかったので、振り向かずそのままにしておいた。しばらくして落ち着くと、残っていたアイスティーをゆっくり飲み干した。


「ありがとう」

「気分……ましになった?」

「うん」


 君がではなくという言葉を選んでくれたことがわかる。


「ねえ、直はよくここに来るの?」

「まあ、小さい頃ほどじゃないけど、近くに美術館があるから、今年になってからも二、三回来たよ」

「そっか、結構多いね。私は幼稚園以来かな。今日ここに来なかったら、もう一生チャンスなかったかも」

「一生って、ちょっと大袈裟おおげさじゃない?」

「かもね。でも、そう思うの」

「そっか」


 ゆっくりと話しながら歩いて、オランウータンのエリアに着いた。園内の一番奥にあるからか、閉館まで一時間を切ったからか理由はわからないけれど、思いのほか空いていて、小さな女の子を連れた家族連れが少し離れたところに一組いるだけだった。理由はわからないけれど、小さな女の子が少し泣いていた。その子はお母さんに抱き上げられると、あっという間に機嫌が良くなって、今度はお父さんに肩車してもらっていた。その光景はとても微笑ましかった。


「オランウータンって、今までちゃんと見たことなかった」


 オランウータンのエリアは広く開放的で、アジアゾウのエリアと同じように、生まれたばかりの子どもを連れたオランウータンがいた。

 

 母親のオランウータンにムーンと、子どもにスターという名前をつけて、私はアイスティーを片手にじっと見つめていた。

 ムーンはスターをしっかりと抱えて、どこにでも連れて行く。世界で何よりも大切な存在が何かわかっているのだ。


「ねえ、教えて欲しいことがあるの」

「何?」


 私の問いに、直がオランウータンから視線を外して、目線を合わせてきた。


「三ヶ月前、公園で、どうして私に話しかけたの?」

「俺が君に話しかけた理由わけ?」


 直が少し困ったような表情をしている。ちょっと、突っ込み過ぎたかな。直はオランウータンの親子に視線を戻す。


「——数学でわからないことがあって先生に質問しに学校に行ったときに、廊下を歩いてたら聞こえてきたんだ。先生と沙樹のお母さんとお父さんの声が。話してたんだ……沙樹の病気のこと」


 そっか、病気のこと知ってたのか……。もしかして、同情されてたのかな。そう思うと、ありきたりな表現だけど、なんだか胸が痛くなった。


「だからあの日……あの日公園で、私に話しかけたの?

 かわいそうだと思った?

 孤独だと思った?」


 もう、直に会わない方がいいかもしれない。私は今まで、無理に大切にされて、傷ついたことが何度もある。それくらいなら、一人でいるほうがいい。


「いいや、違うよ。何年も前から、俺は君を知っていた。

 どこに住んでるとか、なんの病気とか、そんな詳しいことは知らなかったけど……。行き場がなくて、公園のベンチに何時間も座ってると、君に出くわすようになった。君は、いつも病院から出てくるのに、どこか幸せそうで。電話で誰かと話してたり、家族や友達が君を公園で待っている日もあった。

 沙樹の描いたあの象の親子の絵も、とてもあたたかな色合いで、ずっと冷たかった俺の世界とは対極に思えた」


 対極?


「羨ましかったんだ。

 俺はただ、君の生きている世界を生きてみたいと思った」


 温かい色合いの絵……私の生きている世界? 君の瞳には、私の世界がどういうふうに映っていたんだろう……。何年も、何年もの間……。君の世界はずっと冷たかったの?


「冷たかった……?」

「……」

「あっ。ごめん」


 不躾な質問だ……。聞き返すようなことじゃなかった。


「いいんだ。俺の育った家は、もともと温かかったんだ。でも、俺が気がついていなかっただけで、少しずつ壊れていってた。お父さんとお母さんは俺が思っていたほどうまくいってなかったんだ。二人が離婚して、いろいろあってお父さんが日本に住めなくなってからは、お母さんは子育てできる状況じゃなくなってしまった。とても弱い人だから。

 親戚がいない俺と兄は、それなりに頑張ってたんだけど、お母さんに限界が来て、俺は児童養護施設に預けられることになった。兄は六歳年上でね、一人で生活し始めた。今年の春になって、兄が迎えにきてくれたんだ。拓にい、頑張り屋なんだ。五年かけて、迎えに来る準備をしてくれた。兄と二人で暮らし始めてからは、俺もバイトと学校で忙しいけど、結構気楽に楽しんでるよ。お母さんは病院にいるけど、それでもなんとかなってる」


 直はまっすぐに家族連れの方を見ている。


「……そっか。でも、どうしてそんなこと、出会ったばかりの私に言うの?」

「俺だけが沙樹のことを知ってるのはフェアじゃないでしょ? それに……」

「それに?」

「ずっと……誰かに、いや、公園ですれ違う君に、聞いて欲しかったんだと、思う」


 知りもしない人間にそんなこと話したいって思ってたなんて、他に気持ちを話せる相手はいなかったのだろうか——いや、もしかしたら、知らない人にだからこそ聞いて欲しかったのかもしれない。大切だから、近くにいるからこそ言えないこともあるのだから。


「そっか……話してくれて、ありがとう」

「えっと、聞いてくれて、ありがとう」


 君は照れ隠しなのか、首の後ろを指で掻いた。私は話題を変えたくて、質問をした。


「そういえば、どうしてに誘ったの?」


 私の問いに、直はキョトンとした顔で、まるで知っていて当然かと言うかのような調子で答えてきた。


「動物が、アヒルが好きなのかと思って」

「アヒル? 象の絵を見たのに、象じゃなくってアヒル?」

「それ、バッグにいつもキーホルダーが付いてるから」

「あぁ、これか」


 私は確かにいつも、アヒルのキーホルダーの付いたバッグを肩から掛けていた。そんなことまで気がついていなたんて——私たちはお互いを気にしていて、どうして五年間も視線すら合わなかったんだろう。


「うん。それ。前使ってたバッグにも付けてたでしょ?」

「付けてたけど、よく知ってるね。もしかして、本当にストーカーなの?」


 私はちょっとふざけて言った。でも君は必死で否定した。


「違うよ。ストーカーなんて——後をつけてったことなんて、一度もないよ。いつも、沙樹が公園を横切るとき、ちょうど俺の目線の高さでカチャカチャ音を立てて揺れていたら、誰だって気がつくよ」


 直、結構ナイーブなんだね。確かに、キーホルダーをいくつか一緒に付けているので、私が歩くと音は鳴る。


「わかったから。そんなに必死にならなくてもいいでしょ? ねえ、それより、親友を呼んでいい?」


 私は他の誰にも聞かれないように直の耳元でささやいた。


「今、ここに?」

「うん。今すぐ、ここに」

「い、いいけど……」


 直はかなり戸惑っている。私の親友に噛み付かれるとでも思っているのだろうか。


「ハル! 出てこい!」

 

 私たちから数メートル離れた木陰から、申し訳なさそうにハルが顔を出した。やっぱり、ベンチで休んでいたときに感じた視線は、ハルだったのか。


「ごめん」

「どこからつけてきてたの? なんで、こそこそ、一日中私たちのそばにいたの?」

「私はただ、心配で…… 駅で二人を見かけて、それで……。ごめんなさい、ずっとつけてきた」


 私の目を見るのも怖いのか、ハルが目を細める。


「朝からずっと?」

「うん。ほんとにごめんなさい」

「はぁ、もういいよ。一緒に回ろう」


 ハルはかなりしょげた様子だ。悪気はなかったんだろう。ハルの気持ちも分からなくはない。私だって、ハルが知らない男と歩いていたら、気になって尾行してしまうと思う。


「いいの? でも、あの、邪魔じゃない? 私、帰ったほうが……」

「邪魔じゃないから呼んだんだよ!」


 それから私は、直にハルカを紹介して、三人で閉園まで園内を回った。ギフトショップでオランウータンのキーホルダーを三つ買って、二人に渡すと、私は自分の分をバッグにつけた。アヒルのキーホルダーに新しい仲間がぶつかって、今まで以上にカチャカチャと大きな音をたてた。


 動物園から出ると、いつの間に呼んだのだろう、直のお兄さんの拓さんが迎えにきてくれていた。駐車場までゆっくりと歩く。視線の先で夕日が沈む。


 ハルと私は後部座席に乗り込んだ。拓さんはとても気さくな明るい雰囲気の人で、本当ならちゃんとお礼を言って、話もしたかったけれど、私はのせいで『薬』吐き気がひどくなり、車酔いにまでなって、何も話せなかった。


 ハルが二人に私のことをうまく伝えてくれているのが、頭がぐわんぐわん揺れて、耳の遠くなった私に少しだけ届いていた。


 家に着くと、お姉ちゃんとお母さんが——こっちにもハルがうまく伝えておいてくれたおかげで——驚かずに迎えてくれた。


 その夜私は夢を見た。その夢の中で私は大人になっていて、オランウータンのエリアで見た家族連れのように、動物園で過ごしていた。私の想像力は存在しない人を作り出せるほど豊かではないようで、相手は直で、子どもは去年亡くなってしまった仲の良かった病院友達の小学生の男の子だった。


 あれが現実なら、夢から醒めなくてもいいのにと思ってしまった。


 私は未来を望んでいる。今も完全には諦めてはいない。もっと遊びたいし、大学に行ってもっとこの世界について勉強したい。家族もいつか作れるといいな。それから、しっかり歳をとる。私は今まで、それらをどこまで現実にできるかずっと考えていた。


 だけど、もっと大切なことがある。私なりの時間の使い方を考えないといけない。この日、私はそう思った。




 Will and testament:

 このノートは一番初めに直に読んで欲しい(だから、直宛に郵送するつもり)。その次にハル、そして、お姉ちゃん、お母さん、お父さん、空。この順番は絶対に守ってください。

 そして、もしも、私が書いた内容を他の人に読ませたくなかったら、次の人には渡さず、ノートを手元に残してください。このノートには何もかも書きすぎたかもしれないから……。

 誰に読まれてもいいと思う場合だけ、ノートを次の人に渡してください。

 空にまでノートが届いたら——空、本当にこのノート、好きにしていいからね。


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