2.3 4〜7ページ目 公園のベンチの君

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 LIFE:


 七月九日


 私が君に出会ったのは——と言うか、すれ違っていたのは、通院している病院の裏手にある公園だった。


 昼間は小さな子ども達が滑り台やブランコで遊んでいるような、小さな公園。その公園の入り口にある自動販売機の横に置かれたベンチに座っている君は、いつも少し眠そうで、どこかちょっと機嫌の悪い猫のようだと私はずっと思っていた。


 だから君は私にとって、よく知っている顔だけど、話どころか挨拶すらしたこともない、familiar strangerファミリア・ストレンジャー、つまり、おなじみの見知らぬ人だった。


 私が君を初めて見たのは、たぶん五年くらい前。

 痩せっぽっちで背も低かった君は、どう見ても私より小さかったのに、ここ数年ですっかり追い抜かれてしまった。

 まあ、見知らぬ私の背の高さなんて、君は気にもしていないのだろうけど。


 このおなじみの見知らぬ君が気にならないと言えば嘘になるけど、私は動物も人間も犬派だ。

 どう言う意味かというと、元気に向こうから寄ってくる方がいい。だから君とは一度だって、目を合わすことすらないままだった。


 それでも、私はどこか諦めた感じの君が心に引っかかっていた。君の服装が私服から制服に、そしてまた私服に変わったのが私と同じ時期だから、年はきっと私と同じ。


 ☆   ☆   ☆


 そんな君の雰囲気が少し柔らかくなったと、今年の春頃から私は感じていた。それから数ヶ月たった日の夕方、ベンチの前ですれ違いざまに、私は初めて君の声を聞いた。


「ねえ、動物園行こうよ!」

「へ?」


 私は何かの間違いか、人違いだと思った。『おなじみの見知らぬ君』が私に話しかけるはずがない。だって君は、言うならばパラレルワールドにいるような人、一生話すはずのない人なんだから。私は君が動物園に誘っている人を探して、周りを見渡した。でも公園には私の他に誰もいない……。


「ねえ、行こうよ……動物園」


 君は明らかに私に話しかけている。突然話しかけられる理由も、知り合いになった記憶も私にはまったくない。ましてや、動物園なんてワード、どこから出てきたんだ??

 それともこの人、突然壊れちゃったのかな?


「ね、君、動物好きなんでしょ!」


 確かに私は動物が好きだ。でも、特に好きなのはアヒル。アヒルって動物園にいるのか?


「君、河野沙樹こうのさきさんだよね」

「なんで私の名前……」


 もしかしてこの人、ストーカーなのか???


「君は僕の中では、結構有名だからね」


 そう言って、君は見覚えのある手帳をリュックの中から取り出した。


「あっ」


 その手帳には私が通っている通信制の学校の名前が書いてあった。生徒手帳だ。


「君、美術部に入って絵を描いてるでしょ?」

「そっか!」

「そう」


 そうだ、先月、私が部活で描いた象の親子の油絵が県の絵のコンクールに入選して、校内新聞の記事になったんだ。それもわざわさ絵と私の写真入りの一面記事で……。


 私は張り詰めていた緊張感が一瞬で解けて、不思議なほど君に気を許してしまった。


 実は、私の絵がコンクールに入選するなんて予想外だった。だって私はもともとスポーツが好きで、美術にあまり興味はなかった。けれど中学の頃にはもう、まともにスポーツなんてできなくなってしまったから、高校は心機一転美術部に入ったのだ。


 超マイペースなその部活は、今の私に向いていた。部員も五、六名しかいない。そして、みんな他の人に余計な質問もしない。高校に入ったばかりの頃は、人に自分のことを説明するのに疲れっ切っていた時期だったから、お互い誰も干渉しないこの部活は私にとってちょっとしたオアシスだった。


 美術室の片隅は、二週間に一度の登校日であるスクーリングの日に、ただ無心に絵を描くだけの場所だった。その部屋は雰囲気だけでなく、画材の匂いがとても心地よかった。


 君と私は気づくと公園の向かいの道を並んで歩いていた。


「あの絵、欲しい人いっぱいいるだろうな」


 君がポツッと小さな声で言った。


「なにそれ?」


 嬉しかったけど、少し恥ずかしくて、私はそっけなく聞き返した。


「えっと、俺、あの絵、実は欲しいなって思ったから……。絵、よく見に行くんだ。俺は絵を描く才能全然ないけど、見る目はあると思うから。いつか、画廊を開きたい」


 背が高くて、私服のせいか大学生と言っても不自然じゃない見た目と違って、声はまだ少し幼さが残っている気がする。声変わりの途中なのかな?


「素直に欲しいって言ったらあげたのに」

「欲しいです」


 別にいいよとか言うかと思ったら、君は思いのほか、直球で返してきた。


「ダメだよ。もう遅い!」


 私はそう言いながら、こんなに波長が合うのになんで何年も挨拶すらしなかったんだろうと少し残念に思っていた。

 


 数分後、君と私はT字路で別々の道に進んだ。


「俺、バイトなんだ」


 そう言って走り出した君に、私はさよならでもバイバイでもなく、

「いってらっしゃい」

 と返していた。なんだか、ハルにでもなった気がした。


「沙樹、いってきます!」


 走り去る君の背中を見送りながら、私は気がついた。


「あ、名前聞くの忘れてた」


 その日は結局、動物園の話はそれ以上しないままだった。何も約束もせずに見送ったけど、君にはまた病院の裏手の公園で会えるという妙な自信が私にはあった。


 君は気まぐれだな。突然話しかけてきて、名乗りもせずに、バイトだって去ってくなんて……。猫系なのにちょっと好きになってしまいそうだった。


 でもよく考えたら、ハルも猫系だな。


 ☆   ☆   ☆


 私はあの時、君が私の第二の親友になるのかもしれないと思った。だけど、それは間違いだった。君は親友にはならなかった。私は誰かを本気で好きになることを避けていたから、これが私の正真正銘の初恋になるなんて夢にも思っていなかった。


 私の描いた絵、本当はあの後、君にプレゼントしようと何度も思ったんだよ。だけど、君の家に私の絵があることは、なんだか耐えられなかった。だから、やっぱりプレゼントはできないな。君には、私のことを思い続けて立ち止まってほしくないから。




 Will and testament:

 私が描いた絵、君にプレゼントはできないけれど、販売権を譲渡します。よかったら、いつか君の開く画廊で売ってください。


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