10.5 君の生きていた世界を生きてみたいと思った

 美術館のエントランスホールでハルカさんが戻ってくるのを待つ僕の背後で、男性の声がした。

 

「こんにちは、河野空と言います。ハルカに聞いたんだけど、君がノートを見つけた一葉くん?」


 振り向くと、数時間前、ケヤキの木の下にいたハルカさんに絵の入った包みを持ってきた男性が僕の目の前に立っていて、僕の手元を——ノートを指差していた。


「はい」

「そのノート。もう見つかっちゃったんだね。びっくりしたよ」

「もう? もしかしてこのノート、中学校の図書室に置いたばかりだったんですか?」

「今年、学校に寄付をしに行ったときに、こっそり置いてきたんだ」


 僕は、ノートの前半に、『空にまでノートが届いたら——空、本当にこのノート、好きにしていいからね。』と書いてあるのを読んだ時に、もしかしたら、中学生の空くんがノートを図書室に置いていったのかと想像していた。でもよく考えたら、空くんがノートを受け取ったのは、早くても高校生になってからなんだ。


「ずっと、ノートを手元に置いてあったんですか?」

「うん、姉が目を覚ましたら、返したかったんだ。結局返せなかったけれど、姉が逝ってしまってからもなんだか手放しづらくてね」

「そう、ですよね。すみません、何も考えずに質問して」

「そんなこと気にしなくていいよ。もう、心の整理はついているんだ。一葉くん、もしかして、他にも聞きたいことがあるんじゃないの?」


 この人、ノートを読んでいる時に抱いた印象どおりで、結構鋭いな。


「えっと、あの。どうして沙樹さんの蘇生を止めようとしたんですか? 僕にはとてもじゃないけど、できそうにないです」

「そうだね。当時、ハルカとは違って、僕は最後まで反対してたんだ。とことん姉と話して、悩みも聞いて、病室にプレミアチケットまで持って行ったのに、蘇生措置拒否だけは賛成できなかった。

 母や父も同意できていなかったし、姉は結局正式な文書を作らなかった。主治医に申し出なかったから、もちろん蘇生処置拒否指示も出ていなかったし、あの状況では仕方なかったんだ。けど、だからこそ、あの瞬間だけでも、姉の味方でいたかったんだと思う。ただ、それだけだよ」

「病室にプレミアチケットまで持って行ったということは、最後の、二十歳の誕生日のところに書かれてる、協力者って、空さんだったんですか」

「まーね。意外かい?」


 空さんは、心の整理はついていると言っていただけあり、まったく隠す様子がなかった。僕にはまるで、今さっきまで沙樹さんがいているように思える。だけど確実に時は流れてるんだ。


「お待たせ! 二人とも、あっという間に打ち解けてるわね。空、突然ご飯食べたいって、打ち合わせ大丈夫なの?」


 ハルカさんが小走りで戻ってくる。


「うん。打ち合わせ早めに終わったから」

「そっか。よかった。じゃあ、みんなも誘って食べに行こうか」

「うん。そうしよう」


 美術館の外に出ると、日差しが少し傾き始めていた。

 閉館時間がきて、図書館からも多くの人が出てきている。


「僕もあんなふうに、現実でいろんな想いを感じて生きてみたい」


 言葉にするつもりのなかった気持ちが、こぼれ落ちていた。その思いをハルカさんがすくう。


「確かに、沙樹の世界は輝いてた。でも、一葉くんは今ここに居て、一生懸命生きてるじゃない」

「でも、ノートの中の沙樹さんは生き生きしていて、今の僕とはまったく違う」

「私はあの頃に戻るより、今ここで一葉くんと話している方が幸せだな。

 もうあの子は逝ってしまったから……。私にとっては、過去になってしまったの」


 ハルカさんは家まで送ると言ってくれたけど、僕は少し一人になりたくて、電車で帰ることにした。


 僕はノートを両手で持って、空さんに差し出した。けれど、受け取ってはもらえなかった。


「そのノートは、もう君のものだよ」


 ノートを握る手に力が入った。

 

 ◇   □   ◇


 駐車場手前の道路で、ハルカさんはいつものとおり、

「一葉くん、いってらっしゃい」

 と言った。


「いってきます、ハルカさん。今日はありがとうございました。また学校で」


 ハルカさんと空さんは駐車場へ、僕は駅へ向かう。


「空、今日外食じゃなくてBBQにしない?」

「うん、いいね。お父さんに炭とかあるか聞いてみるよ」


 二人の声が背後で小さくなっていった。僕は歩調を早めた。


 ◇   □   ◇


 駅のホームは閑散としている。


 僕はノートを膝に乗せて、ベンチに座って次の電車を待った。


 向かい側のホームには、沙樹さんが動物園で見かけたような小さな女の子を連れた家族連れがいるけれど、こっち側のホームには僕以外には誰もいない。


 快速の電車が目の前を走り抜けて行く。

 そういえば、こんなときに沙樹さんは大きな声で歌うんだっけ。


 耳を澄ますと、電車の音に紛れて彼女の歌声が聞こえる気がした。


 遠くの空を見上げて、僕は涙を堪えていた。


 ——どれだけの痛みを抱えたら、人は死ぬことを許されるのだろう。


 彼女の世界は眩しくて、儚くて、脆くて。

 雲間から地上に光が降り注ぐだけで、地上が天国に、すべてが奇跡に思える。


 あの日——沙樹さんと動物園に行った日の直さんの思いが、今なら分かる。


 僕はそう、たとえ痛みを伴っても、君の生きていた世界を生きてみたいと思った。





 どこからか、空に突き抜けるような風が吹き付けてきた。





 その瞬間、何も書かれていない深海色のノートの裏表紙から、空、ハル、直の声が/重なって/聞こえた気がした。


 ——そう、僕は、私は、俺は、僕/私/俺たちは、君の生きていた世界を生きてみたいと思った——



 Period.


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