余白

直:俺が彼女に話しかけた理由

 動物園。

 オランウータンのエリアに向かう途中。


 俺は、夢でも見ているんじゃないだろうか。


 このとき、俺は何ヶ月も前に誘った動物園に君といることがまだ信じられなかった。君はとても具合が悪そうなのに、不思議なほどに楽しそうな顔をする。


 それでも、人混みでめまいでも起きたのか、沙樹は座り込んでしまった。君は、苦しそうだけれど落ち着いた声で「いつものことだから」と言った。すぐ近くに奇跡的に空いているベンチを見つけたので、君の手を引いていく。俺にできることはベンチに座って、隣で待つことだけだった。


「ありがとう」

「気分……ましになった?」


 君の声を聞いて、反射的に具合がなったか聞こうとしている自分がいた。けれど沙樹の顔色は悪く、明らかに気分は良さそうじゃない。なんとか言葉をつなげたけど、ぎこちなく聞こえただろう。なのに、沙樹はとても嬉しそうに、

「うん」

 と返事をしてくれた。


「ねえ、直はよくここに来るの?」

「まあ、小さい頃ほどじゃないけど、近くに美術館があるから、今年になってからも二、三回来たよ」

「そっか、結構多いね。私は幼稚園以来かな。今日ここに来なかったら、もう一生チャンスなかったかも」

「一生って、ちょっと大袈裟おおげさじゃない?」

「かもね。でも、そう思うの」

「そっか」


 沙樹と話していると、あっという間にオランウータンのエリアに着いた。園内の一番奥にあるので、他のエリアよりも人が少ないことが多くてゆっくりできる。小さな女の子を連れた家族連れに見覚えがある。そうだ、あの女の子、半年前には、ベビーカーに乗っていたんだ。その時はとっても楽しそうだったのに、今日はオランウータンが怖くなったのかな? その後女の子はお母さんとお父さんにあやされて元気が出てきたのか、大きく手を上げて、わっわっと言っていた。


 オランウータンのエリアは、お母さんが好きだったエリアだ。確か今は、生まれたばかりの子どもを連れたオランウータンがいるはず。


「オランウータンって、今までちゃんと見たことなかった」


 沙樹は母親のオランウータンにムーンと、子どもにスターという名前をつけた。

 子どものスターはお母さんのムーンにしがみついている。どこにいくにも一緒にいてくれるのに、スターが少し不安そうに見えたのは俺だけだろうか。


「ねえ、教えて欲しいことがあるの」

「何?」


 沙樹の声が少し低いような気がする。俺はオランウータンから視線を外して、沙樹の目を見つめた。目を逸らしたら、嘘をついていると思われるんじゃないかと思って、少し構えていた。


「三ヶ月前、公園で、どうして私に話しかけたの?」

「俺が君に話しかけた理由わけ?」


 沙樹の質問は直球で、俺は尻込みしてしまいそうだった。


「——数学でわからないことがあって先生に質問しに学校に行ったときに、廊下を歩いてたら聞こえてきたんだ。先生と沙樹のお母さんとお父さんの声が。話してたんだ……沙樹の病気のこと」

「だからあの日……あの日公園で、私に話しかけたの?

 かわいそうだと思った?

 孤独だと思った?」


 沙樹さきは今日初めて悲しそうな目をした。沙樹を傷つけたくなんてない。俺はずっと何年も君を見ていた。公園で見かける君は、知らないうちに人生の一部になっていた。だからあの日、その場限りの興味本位で話しかけたわけじゃない。


「いいや、違うよ。何年も前から、俺は君を知っていた。

 どこに住んでるとか、なんの病気とか、そんな詳しいことは知らなかったけど……。行き場がなくて、公園のベンチに何時間も座ってると、君に出くわすようになった。君は、いつも病院から出てくるのに、どこか幸せそうで。電話で誰かと話してたり、家族や友達が君を公園で待っている日もあった。

 沙樹の描いたあの象の親子の絵も、とてもあたたかな色合いで、ずっと冷たかった俺の世界とは対極に思えた」


 沙樹は何も言わずに僕の話を聞いている。


「羨ましかったんだ。

 俺はただ、君の生きている世界を生きてみたいと思った」


 勢いに任せて、何もかも言葉にしてしまった。知り合ったばかりの人にそんなこと言われて、沙樹は引いてしまったかもしれない。


「冷たかった……?」

「……」


 冷たかった? あぁ、俺の世界のことか。


「あっ。ごめん」


 沙樹は謝ったけれど、俺の言ったことを少しでも気になって沙樹が聞き返してくれてたことで、緊張がほぐれていく。


「いいんだ。俺の育った家は、もともと温かかったんだ。でも、俺が気がついていなかっただけで、少しずつ壊れていってた。お父さんとお母さんは俺が思っていたほどうまくいってなかったんだ。二人が離婚して、いろいろあってお父さんが日本に住めなくなってからは、お母さんは子育てできる状況じゃなくなってしまった。とても弱い人だから。

 親戚がいない俺と兄は、それなりに頑張ってたんだけど、お母さんに限界が来て、俺は児童養護施設に預けられることになった。兄は六歳年上でね、一人で生活し始めた。今年の春になって、兄が迎えにきてくれたんだ。拓にい、頑張り屋なんだ。五年かけて、迎えに来る準備をしてくれた。兄と二人で暮らし始めてからは、俺もバイトと学校で忙しいけど、結構気楽に楽しんでるよ。お母さんは病院にいるけど、それでもなんとかなってる」


 さっきの家族連れが目に入ってくる。昔は俺の家族もあんなふうに過ごしていたのに……どうして何もかも変わってしまったんだろう。


「……そっか。でも、どうしてそんなこと、出会ったばかりの私に言うの?」

「俺だけが沙樹のことを知ってるのはフェアじゃないでしょ? それに……」

「それに?」

「ずっと……誰かに、いや、公園ですれ違う君に、聞いて欲しかったんだと、思う」


 どうして、聞いて欲しかったか、自分でもよく分からないけれど、彼女は人の痛みを誰よりも分かろうとしてくれる、そんな気がしていた。


「そっか……話してくれて、ありがとう」

「えっと、聞いてくれて、ありがとう」


 こんなに素直に自分の思ったことを話したことなんてなかったから、俺はなんだか恥ずかしくなって、目を合わせられなかった。


 俺は、君と話すたびに、君を好きになっていく自分に気がついていた。


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