第18話
夢か現か。
泥中に霧散した意識をかき集める最中、過去と現代の境界線が曖昧となり、一つの記憶が再生される。
一本の映画から特定のシーンをくり抜くように。
あるいは、誰かの過去を回想するように。
家族から憐憫と同情と、多少の失望を向けられた理由は何か。
簡単だ、忘れよう訳もない。
生まれ落ちた瞬間より抱いた疾患、生物的欠陥のせいだ。
「その……申し辛いのですのが……御息女様の身体は、その……激しい運動に対応できません」
初めて両の足で立ち上がり、歩き回ったあの日。
突然の運動についていかなかった内臓が、吐瀉物に朱を混ぜたあの日。
血相を変えた家族に運ばれ、病院を訪れたあの日に医者がそう言った。
そして、家族は私を見捨てた。
「女の上に病弱だと……いったい何のために産ませたと思っている」
「気に病むことはない。どうせ長男の
「そうそう、
密かに話したつもりだろうか。居間の一つを陣取り、大人連中が口を揃えて私を切り捨てる。
そう、切り捨てる。
罵るでも陰口を叩くでもなく、元より期待していないのだから何の問題も起きていないと。存在そのものに意味がないと断じて吐き捨てる。
……吐き気がする。
「大丈夫、桜子?」
事実上の勘当扱いを受ける中、声をかけるのは決まって兄。
心配と同情と哀れみ、そして微かな羨望を掻き混ぜた目線に鋭利な眼光で返せば、目の下に隈を刻む彼に返す言葉はない。
……同情するな、たかだか身体が丈夫で家族から一心の期待を注がれている程度で。
気持ち悪いんだよ、羨ましがるな。
それでも、自身が嫌われていることは実感しているだろうに。兄は私に構ってくるのを止めない。
「──」
沈鬱なる感情は積み重なり、蓄積し、沈殿したものが押し潰されて一滴の汚泥となる。
鼻腔をくすぐるアルコールの刺激臭が、少女の意識を深海の底から引き上げる。
曖昧な意識の中で目蓋を開こうにも、鉛の如き質量を持ったそれは彼女を再度深海へ沈めようと足掻きを強める。
一向に動かぬ目蓋を徐々に瞬かせ、やがて目を開くと天井の純白が姿を見せる。付近に点在する輝きは、電灯であろうか。
身体が暖かく柔らかい何かに包まれている感覚がした。心地よく、感覚に身を委ねれば容易く意識を刈り取られるという自信を抱く。
ベッドに寝かされている、と理解すると桜子は億劫がる肉体へ起きろと命じる。
「あ、れ……ここ、は……それにわたし、いったい……?」
上半身を起こして周囲を見渡してみても、見慣れた情景はただの一つもありはしない。
並ぶベッドは正面に二つ、左手に一つ。周囲は汚れなき純白の壁に、荷台の上には花瓶が少々。窓から見える光景には、どこか見覚えがあった。
「びょう、いん……?」
そう、かつて辻斬り事件が勃発した際、
当時とは異なり晴れ渡った中庭には、病院着を身に纏った患者が陽の光を存分に味わい、車椅子を押した看護師が陰気な少年へ話しかける。
「大正解だ」
桜子の呟きに答えるは、濡れ烏のスーツを身につけた男。病室へ足を運んだ直後なのか、背後では滑車に運ばれて扉がスライドしていく。
男は手に持つ紙袋へ手を突っ込むと、そこから一つ取り出して桜子へと投げ渡す。
寝起きで覚束ない手で怪しさを出しながらも、赤く瑞々しい果実──リンゴを掴むと、桜子は
「危な……」
「そんだけ動くなら充分だろ」
「動かなかったらどうする気だったの」
「泣く」
こっちは華の乙女だぞ、はっ倒すぞ。
仮にも乙女を名乗るなら口にすべきではない言葉にかぶりを振ると、冗談交じりの男への視線を一層鋭利に研ぎ澄ます。
親しい仲同士の軽口にしては桜の瞳に籠る敵意の高まりがおかしく感じたのか、俄かに肝を冷やした甘粕が肩を竦めつつ軽く会釈。当人なりの謝意を示す。
とはいえ、いつまでもジョークを交えた軽快な会話を繰り広げる訳にもいかない。
理由は単純。
骸銘館桜子の記憶にある空白──選抜戦本戦に於ける
切欠は、桜子の視線に昏い感情が混じり始めた頃だろうか。
「司馬君との試合……どうなった?」
「……わざわざ聞くか、普通?」
「アンタの言うことなら、最低限信じられる」
信頼の証にしては随分と酷な代物。
残酷なまでの静寂が一秒、二秒、三秒。
沈黙は金、が誰の言葉であったかは不明だが、今この瞬間に限っては雄弁こそが求められる。
「……司馬の勝ちだ。レフェリーストップだとよ」
「……」
審判判断によるレフェリーストップ。
裏ならばまだしも、表の祝刀祭は世界中に生放送される一大エンターテイメント。度を越した流血沙汰が許容されようはずもない。
最終盤に於ける吐血が口を切った、などという冗談で済む代物ではなく、内臓への損傷を疑われた結果であろうか。そして試合に水を刺され、緊張の糸が途切れた直後に意識を失えば、彼らの判断に説得力を与えるというもの。
桜子が視線を布団へと落とし、右手を硬く握り締める。
司馬打倒の悲願が第三者の横槍で妨げられたのだ。その憤慨はかつて選手として祝刀祭へ赴いた甘粕にも掴み切れない。
「ま、潰したい相手がいるってだけ恵まれてるもんだがな」
桜子の鼓膜にまで届かぬ声で、甘粕は小さく零す。
無意識に呟いた故か、病院で言うことではないと慌てて口を塞ぐも彼女が気づいた様子はない。
「はぁ……」
溜め息を一つ。
視線を持ち上げ、やがて天井へと昇り詰める。
純白の、汚れ一つない潔癖なまでの白。ある意味では、今の桜子とは対極に当たる壁を眺め、再度溜め息を吐く。
呟く言葉には、諦観とも取れる色味が混じる。
「これでアンタとの契約も終わりね……」
「……」
肯定も、否定も口にすることなく。
甘粕はただ無言で桜子の言葉を促す。
「持病、それも内臓系で不治ってオマケつき。
先生に聞いたでしょ。現在の技術でも完治は不可能に近い難病だって」
先天性血管不全。
生まれつき血管の一部が凝固した血液で形成される奇病で、発症率は何万分の一とも言われている。日常生活程度であらば支障はないものの、激しい運動で体温が上昇してしまえば血液の凝固が溶け、全身に耐え難い激痛や吐血などの症状を引き起こす。
桜子の治療を担当した医師から受けた説明の内、甘粕の頭に残った部分は大体この程度であろうか。
「定期的なお薬があれば日常生活には支障はないけど、それを怠るか激しく動けばパンッ」
冗談とも、投げやりとも取れる口調で桜子は拳を開く。
「分かった? 私の身体はとんでもない爆弾を抱えてたってこと。
しかもそれが表面化しても黙ってた。専属契約を破棄する口実が出来て良かったわね」
想起するのは選抜戦予選、
あの日、桜子は不自然に制服を濡らし、あわや予選落ちにも関わらず理由を頑なに黙秘した。甘粕も不満を覚えた出来事であったが、もしもそこに持病の悪化が関連しているとしたら。
制服に付着した血を水道水で誤魔化し、理由を語ることで病院へ送られる事態を回避すべく黙秘したとすれば。
一応の辻褄は整う。
白髪が得心を得たと微かに揺れる中、黒髪は饒舌かつ投げやりに言葉を紡ぐ。
「身体はボロボロで、勝てる試合を落としかねない欠陥品。練習だ何だとスケジュールを調整するのも馬鹿馬鹿しいでしょ?
いつ破裂するかも分からないんだからさ」
「爆弾を抱えてた癖にやたら裏・祝刀祭へ参加してたと?」
「そ。いつ破裂するかも分からないなら、いっそのこと壊れるよりも早く結果を出してやろうと思ってね」
それも定期的なお薬のお陰だけどね、と自虐の色を多分に含んだ語りは、唐突に落とされた視線と共に吐露した本心を最後に途絶える。
「だから、どうせアンタも私のことを捨てるでしょ……」
沈鬱な、重苦しい空気が部屋を支配する。
端的に述べれば、彼女の不安は杞憂である。
正しい観点では、そもそもの大前提として甘粕は桜子との契約条件である『司馬国近の打倒』を履行出来ていない。原因が彼女自身に起因するとしても、気づけずに戦術を組んだ時点で専属トレーナーである甘粕の責任でもある。
故に、桜子が契約を拒むのならば甘粕は結論に準ずる他にない。
……感情論を抜きにすれば。
「あぁ、うん……いや、契約を破棄するつもりは……」
ない。
濁すことなき単純な答えであるが、大前提の問題に躓いた状態の甘粕は結論を紡ぐことが叶わない。
純粋に桜子の可能性を信頼しているのもあるが、六月も後半に差し掛かる時期に新人トレーナーが契約破棄など学園側から何を言われるか分かったものではない。
彼女自身に思考を割く余裕がない以上、安易な契約続行は自らの
如何にして本来の問題を解決した上で桜子の意志を続行へ舵切らせるか。腕組みして頭を捻る中、唐突にテレビの電源が入る。
「ん、どうし……あぁ」
突然の出来事に視線を向けた甘粕だが、映像よりも一手早く送られてくる歓声を受けて疑問への解を得た。
国統領に於ける公共施設は、祝刀祭に関連する大規模な催しの結末に際してテレビを一斉にジャックし、インタビューを筆頭とした内容を強制的に放送するのだ。
そして、二人が把握している現在行われている最大規模の催しとは──
『いぃまここに、選抜戦最後のたたかぁいが決着ぅッ。決勝にまでコマをすっすめた勇者ぁ、ネザ・ア・ライトを下したのは……司馬重工がぁ御曹司、司馬ぁ国近ぁッ!!!』
レオンハルトと名乗っていたか、癖の強い声音が告げた優勝者の名に甘粕は表情を引きつらせる。
桜子が敗北──それも実力とは別の要素が決定打の相手とあっては、何を言い出すか検討もつかない。
「ケッ、優勝したのかよ。ご苦労なことで……」
それらしいことを口にしながらテレビへ足を進める甘粕だが。
「いい、つけてて」
「あぁ? いいのかよ」
「いいから」
強く、部屋主に主張されてしまってはお見舞いに訪れた男は追従せずを得ない。
最新型の液晶が鮮明に映し出すのは、割れんばかりの大喝采に揺れるスタジアムと己が得物を構えたまま静止した少年。
古代ローマの
やがて派手な金髪を獅子の鬣よろしく揺らし、レオンハルトと思われる少女がただ一人の勝者のみが立つ戦場へと赴く。
『ゆぅ勝おめでとうごっざいまぁすッ。今のお気持ちを簡単にどおぞッ』
突き出されたマイクに一瞬苦い顔を浮かべた司馬であったが、適切な距離を取ると改めて質問への答えを口に出す。
『そう、ですね……月並みな言葉ではありますが、未だ疲労ばかりで実感が湧かないというのが正直な所です。本当に優勝したのか、実は夢なのではないか、と』
「よくも心にもないことがペラペラと」
『それに、素直に勝利したと言い難い試合があったのも事実です』
「──」
一瞬、瞬き一つで見逃してしまう程の極々僅かな時間。
確かに桜子は動揺を隠せずに放心する。
『骸銘館選手との試合でぇすか?
レフェリーストップ。なぁんて締まらない結末になってしまいましたがぁ、何か心残りでもあぁりましたくぁ?』
『当然です』
食い気味な、力強い宣言は決勝戦直後で疲弊していたとは思えぬ程で、ともすれば心残りとやらの再戦が叶うのならば今すぐにでも挑みかねないまでに。
『司馬重工の御曹司という立場に甘んじていたつもりはありません。
生まれ持った地位に報いるため、不断の努力を重ねたつもりでした。ですが、それに気づかぬ内の慢心が宿っていたと判断するしかありません。
骸銘館桜子を、その首に重斬刀の一閃を突きつけることが叶わなかった以上は』
自主的な不登校という、最悪な形で初動に出遅れた少女。
世間的にも注目され、特集の対面記事すらも制作された対戦カードの結末は、スタジアムに集った観客であらば周知の事実。
司馬が培ってきた研鑽の日々を考慮すれば苦戦すらあり得ぬ相手に、致命の一撃を加えることすら果たせぬ決着は、彼の心に大きな楔を打ち込んでいた。
路傍の石と切り捨てられぬ、確かな敵手として。
『つぅまぁりぃ。彼女が復帰さえすれば、いつでも再戦に応じる覚悟がオアリで?』
『……わざわざ否定の可能性を考慮する必要すらありません。
確かな勝利を、この手に掴むまで』
収音声が著しく発展したマイクは、未だ鳴り止まぬ歓声の中で握られた拳が立てる音をすら正確に捉え、桜子達の病室にまで届ける。
彼の瞳に宿る、確かな闘志の炎すらも。
「……」
ここまで煽られ、公共の電波に乗せて宣戦布告までされては、答えぬ訳にはいかない。
震える唇が数度、上下に触れた後に桜子は口を開く。
病室に広がった声音は、なおも震える。
「私は、私は……
お前との時間を、無駄にするかもしれない……また、今回みたいに」
「こっちはロスタイムみたいなもんだ。学生が大人を気遣うなよ」
甘粕もまた怪我で人生を棒に振ったにも等しい境遇。むしろ桜子のトレーナーになる前は時間を無為に解かしていたにも等しい。
彼からすれば、今更無駄にした時間が増えようが気にすることでもない。
「今回だって、司馬打倒は二人で決めた約束だったのに……」
「それはこっちの責任みたいなもんだろ。お前の持病を考慮した作戦なり何なりを組み立てればいいだけの話だ」
「そんな簡単に……」
「ま、新人故の理想論ってのはあるかもな」
肩を竦め、甘粕はおどけた調子で続ける。
「けど、現実的なのは経験積んでからでもいいだろ。うん」
「そんな投げやりな……」
「それにここで自分の責任ってことにすれば、お前も心置きなく専属契約を続行しやすいだろ。
駄目なトレーナーを見捨てられない優しい生徒、みたいな名目……的なアレで、うん」
つい口から出た本心か、にやけた表情は単なる冗談だと言い切りにくい雰囲気を帯びていた。
情けないと断ずる他にない態度に、桜子は沈鬱とした表情を幾らか明るくし、微かに頬を引きつらせた。
「何それ、バッカみたい……!」
「お、笑った笑った。あんまり暗い表情だと弱った所につけ込んだ、みたいで感じ悪いからな」
「ハハハッ……!」
堪え切れず、腹を抱えて桜子が大笑を浮かべる。
それは病院で出すにはこれ以上なく不釣り合いな、しかして二人の間ではこれ以上相応しい意味を含んで。
「……」
国統領、選抜戦本戦決勝の裏。
総合通信商社本社ビルをも一望可能な高層ビルの屋上にて。
黒衣を風に乗せ、眼下で繰り広げられる人の営みを睥睨する影が一つ。
初音記念スタジアムでは決勝戦が行われているとはいえ、あくまで選抜戦は祝刀祭の前夜祭。本番前の予行演習にも等しい。
必然として、領内の少なくない人々は普段と何ら変わることなく、自らの日常を謳歌している。
それを覗く眼光は鋭く、獲物を探す猛禽類を彷彿とさせた。
「
呟く言葉は風に乗り、漆黒を一層大きくはためかせる。
そして黒の先より姿を現した二の腕は、人ならざる硬質と人の規格を逸脱した長大を備えていた。
骸銘館桜子は止まれない 幼縁会 @yo_en_kai
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