第16話いつかの彼女で




 絵を描くことと、本を読むこと。

 その二つだけが俺の心を癒した。

 家族への渇望。それだけが俺の願い。



 遥か遠くの蒸し暑い森。そこが俺の故郷。

 農園を営んでいた家族がいたことと、そこで3歳の誕生日を祝ったこと。その二つは憶えている。けれど、実家での思い出はその二つしかない。

 何故なら俺は、四つになる前に、何者かの手によって森の中に置き去りにされたからだ。

 子捨てか、人攫いか、今となっては分からない。

 ただはっきりしていたのは、幼子が森に一人でいれば死ぬということだけだった。


 蒸し暑い森の中、見たこともない虫がうじゃうじゃいた。人も家も何もない。頼れるものは自分一人だけ。

 幸いにも歩いた道無き道の先に小川を見つけられたため、飲み物には困らなかった。

 けれど食べ物が無い。虫を食べる気になどなれず、けれど草花も口にできず、俺は空腹と寂しさと悲しさと心細さから、耐え切れずに泣いた。

 この泣き声が家族に、誰かに、人間に、届いてくれないかと心の底から祈った。

 けれど、いくら泣いて涙を流しても、誰一人として森に居はしなかった。


 声が枯れて、泣く体力も無くなって、疲れ果てて眠った頃。頭上の木が大きく揺れた。

 それを確認する気力も無く黙って寝ていると、今度は頭上から何かが降ってきた。

 それは一本の、小さな果実だった。

 長く黄色いそれが顔の前に落ちて来て、ようやく俺は目を開けた。視界に飛び込んできた食べ物に、皮を剥くのも忘れて無我夢中で噛り付いた。

 食べ終わってからようやく疑問に思って頭上を仰ぐと、そこには小さな影が一つあった。


 よくよく目を凝らして見ると、それは一匹の小さな猿だった。

 猿が俺に、食べ物を分けてくれたのだ。


 その日から毎日、猿は俺に食べ物を落とした。果物だけではなく木の実の時もあれば、中に甘い水分が多く含まれる枝の時もあった。俺はそれらを夢中で食べた。食べないと死ぬことだけは分かっていたから、食べ物を恵んでくれる猿に感謝もした。

 猿は一匹ではなく群で生活していた。俺のことも群の一員として扱っているのか、いろんな猿が俺に食べ物をくれた。


 そんな生活を何日何ヶ月何年続けたか分からない頃、転機が訪れた。

 森に人間が現れたのだ。


 その頃には猿達との仲は深まり、俺は猿語のような鳴き声をあげて会話のようなこともしていた。通じていたかは分からないが、鳴き声を真似ると猿も喜んだように鳴いてくれて、それが嬉しかったのを覚えている。

 そんな猿達とのひと時を過ごしていた俺の前に、人間が現れた。

 俺は怖かった。その時の俺にとって、家族だった人間と過ごした時間よりも、猿達と過ごした時間のほうが鮮明に色付いていた。猿達は俺にとって、第二の家族になっていた。

 だからその家族との生活を奪われるのではないかと、怖くなって逃げた。猿達も知らない人間が縄張りに入ってきたことに怒るよりも、危機を覚えたようで一緒に逃げた。

 けれど、所詮はただの子供。

 俺は人間が仕掛けた罠に掛かって捕らえられて、森から連れて行かれた。猿達は高い木の上からその様を見下ろしていた。

 あの森は、今もどこかにあるのだろうか。



 そうして、そのまま俺はとある国の見世物小屋に売られた。

 品名は『猿人間』。何の捻りもないそれが、俺の名前となった。

 猿人間だった時の生活は、苦でしかなかった。食べる物も飲む物も必要最低限与えられ、雨風をしのげる檻の中での人間らしい暮らしは、森の中よりも俺を苦しめた。苦しみの源は空腹でもなく暑さでも寒さでもなく、孤独だった。

 檻の中でひたすら見世物にされる日々。檻の向こうには人間は掃いて捨てるほどいたが、俺を好奇の目で見る悪趣味な奴等しかいない。唾を吐きかける奴もいた。火の付いたままの煙草を檻の中へ捨てる奴もいた。食べかけのパンをお恵みだとばかりに置いて行く奴もいた。

 人間は腐るほどいたくせに、そこに家族はいなかった。そのことが、どれだけ俺を孤独にさせたろう。

 あの暑い森へ帰りたかった。農園へ帰りたかった。ただただ、俺は家族に会いたかった。

 その願いが叶うことは、結局一度も無かった。


 森で生きていただけの人間など、数年もすれば見飽きられて、俺はまた売られた。



 売られた先は、とある画家の下働きだった。

 そこにも俺の家族はいなかった。けれど、孤独を紛らわすものはできた。

 年老いた画家は発想力が低下したらしく、新たな作品を生み出せず長年停滞していた。それを打破する為に集められた物珍しい品々で屋敷は溢れかえっていた。

 遠い異国の動物の剥製や、どこかの王朝の宝、前衛的な置き物、そして俺。見世物小屋にいた猿人間は、さぞや画家の創作意欲を掻き立てるたものだろうと連れて来られたのだ。

 けれど、やはりただ猿に育てられただけの俺は3日で飽きられ、ただの下働きとして雑用をすることになった。


 画家は作品を生み出せぬ状況を誤魔化す為に、絵の下書きを弟子に書かせていた。少しでも前の作品と違う物を作ろうと画策したらしい。

 弟子達は5人ほどいて、どいつもこいつも自分のことしか考えていない勝手な奴等ばかりで、師匠に命じられた下書きよりも己の作品を作り上げることを優先していた。自ずと、下書きは下っ端の俺に押し付けられた。

「抵抗すれば有ること無いこと師匠に言って家から追い出すぞ」

 と言われてしまえば、行く当ても帰る家も無い俺は大人しく描くしかなかった。

 けれど、これまで一度も筆を握ったことの無い身。俺は指先に黒の染料をつけ、板に敷かれた布の上に指を滑らせ、見よう見まねで無作為に汚してみせた。そしてそれを兄弟子に渡した。兄弟子はさも自分達が描いたと言わんばかりの顔で画家に渡すのを、遠くに見えて鼻で笑ってやった。めちゃくちゃな、下書きと呼ぶのもおこがましいそれを見れば、画家が激怒すると思ったからだ。

 けれど、現実は違った。それのどこをどう気に入ったのか、画家は俺が描いた下書きを大層褒めた。そして、誰が描いたのか尋ねた。

 弟子達は褒美が貰えるとでも思ったのか、全員が「自分が描いた」と主張した。

 画家は「では、もう一枚描け」と命じ、その場で弟子達に下書きを描かせた。勿論誰一人として画家が満足する下書きは描けなかった。

 怒った画家が弟子全員を破門にし、残った使用人と下働きの者を集めて下書きを描けと命じた。俺も含めて全員が辿々しく板の上の布を汚していくと、画家は俺の前に来てこう言った。

「今日からお前が一番弟子だ。励め」

 その時に描いていた下書きも、勿論画家の作品の一つとなりの世に出た。

 それからは下働きの仕事は免除になり、代わりにひたすら下書きを描く日々が待っていた。来る日も来る日も絵とも言えぬ何かを描いては支障となった画家へ渡した。師匠は俺の描いたお粗末な下絵を元に色付けして世に出した。

 次第に、下絵作りは俺の楽しみとなった。どうやら俺には絵を描く才能があったようで、日に日に下書きとは呼べぬほどの絵を黒一色で描けるようになったのだ。自分自信でも上達していくのが感じることが出来、それが俺の快楽となっていた。

 すると師匠は、

「好きな色で最後まで描いてみろ」

と画材一式を与えてくれた。

 俺は寝食も忘れて絵を描くようになり、師匠は出来上がった絵を自分の名義としてそこそこお高い値段で売り捌いた。


 そんなある日。いつものように絵を描いていると、欲しい色の染料が手元に無いことに気付いた。予備の染料は棚の上。梯子を使わなければ届かない。梯子は庭の納屋の中。持ってくるのは面倒臭いが、空色の染料がどうしても要る。どうしようか。

 そう悩んでいた俺の、左手の掌の表面を伝って、何かが床へと零れた。

 それは水滴だった。よく見ると、その液体は空色の染料と同じ色をしていた。驚いた俺は慌てて雑巾で手を拭った。手からはじわじわと空色が滲み出てきて、雑巾をあっという間に空色に染め上げた。

 驚いたが、同時に助かったとも思った。これで染料を取りに行かなくて済む、と。

 試しに、その染料を筆にとった。塗られた空色は、頭で思い描いた通りの色をしていた。

 ふと、次は赤色が欲しいな、と思ってみれば、手からは真っ赤な染料が血のように滲み出てきた。その赤も、俺が思い描いた通りの赤だった。

 こうなると、普通の人間はこう考えるだろう。己に特殊な力が芽生えたのだと。

 けれど、極端に人間と関わらない人生を送っていた俺は、これが普通なのだと考えた。欲しいと願えば願った染料が手から滲んでくるのが、ごく当たり前の一般的なことだと思ったのだ。

 その日から毎日当然のように手から滲み出る染料で絵を描いた。すると、絵は飛ぶように売れ出した。師匠名義で世に出た絵を、国の内外から買い手が溢れ出た。師匠の名は瞬く間に国中に知れ渡り、国王に謁見までしたそうだ。

 俺はと言えば、世間などとは遠く離れた小さな部屋でひたすら絵を描いて過ごしていた。

 描いていると不思議と家族がいない孤独を忘れることができた。そうして10年ほど経ったある日、事件は起きた。

 手から染料を出すところを、師匠に見られてしまったのだ。

 それまで俺が部屋で絵を描いていようと何をしていようと、絵を完成させれば文句一つ言わなかった師匠が、急に部屋を訪ねて来た。

 曰く、絵を描く様を見世物としてお偉いさん方の前で披露しなければならなくなり、俺がどう絵を描いているのか見てみたいとのことだった。俺は何の躊躇いも無く、いつも通り手から色とりどりの染料を滲み出して絵を描いて見せた。すると師匠はみるみる顔色を青白く変え、俺に言い聞かせた。

「絶対に、このことは人に言うな」

と。どういうことなのか、その時の俺には分からなかったが、答えはあちらからやって来た。

 人の口に戸は立てられない、という言葉が異国にあるが、正に師匠はそれだった。己の進退に関係する絵画の作者については口を滑らせた事などないくせに、俺の特殊な能力について酒場で愚痴を零したらしい。あっという間に噂は広がり、そうして俺はまた家を変える事となった。



 多額の金と引き換えに売られた先は、大富豪の屋敷だった。

 その広く明るい一室に連れ込まれ、衣服も身綺麗に改められ、まるで貴族様のような格好をさせられた。そこでの待遇はこれまでに無いほど優良なもので、広い屋敷内を自由に動き回り、必要に応じて屋敷内の全ての物も使用人も自由に使うことを許された。

 代わりに俺は、学ぶことを強要された。学ぶのは勿論、魔法について。

 朝から晩まで本を読み更け、様々な知識を手に入れた。手にした知識で新たな技術を生み出しもした。

 新しい紙、新しい染料、新しい素材、新しい技術。

 その全ての成果を、雇い主は正当に評価してくれた。具体的には、成果から得られる利益の半分以上を俺に分配したのだ。俺を一人の人間として評価した訳じゃなく、あくまでもビジネスとして分け前をくれた。

 けれど、雇い主は百年もせずに亡くなった。家を引き継いだ孫は俺への態度を一新し、新しく生み出した物の利権を全て奪って俺を屋敷から追い出した。


 それからは、持てる魔術や知識を使って国中を旅して回った。ある時は絵を描いて売り、ある時は染料を売り、ある時は薬草を売り、ある時は教師の真似事をした。たまに王族に雇われて魔術の手解きをしたり、知識を与えたりもした。

 そうして気付けば何百年も経っていて、俺は国でそこそこ地位のある人間となっていた。なっていたが、空虚な日々を送っていた。

 理由は簡単だ。俺は孤独だった。どんなに長く生きても、家族と呼べる存在はあの猿達以降現れてくれなかった。待てばいつかまた家族ができるだろうと期待していた俺は、待つのを疲れ諦めかけていた。


 そんな時に出会ったのが、プエラフロイスだった。彼女は俺の前で、とても愚かな子供だった。

 プエラフロイスは、多くの男に愛されていた。父に、婚約者に、義理の弟に、従者に、騎士に、怪盗に、彼女は想いを寄せられているようだった。それを当たり前のように受け入れるプエラフロイスと、彼女に群がる男共に吐き気がした。

 愛だなんだと在りもしないものにしがみ付くなど気色悪い、と。

 だが同時にこうも思った。俺は、愛を知らない、と。

 知らない物を知りもしないで批判するのは愚かな事だと己を窘めた。そしてこう思った。俺も愛を知りたいと。愛を知れば家族になれるのではないか、と。

 けれど、それを求める相手がいない。では彼女は、プエラフロイスが相手では? 冗談じゃない。俺にあいつらのように羽虫の如く彼女に群がれと? 誰がするか。

 そもそも彼女に好意を持てない。世界中の人間が自分を愛してると疑って恥じない様が、正直嫌いだった。俺にまでそれを強要してくる態度に嫌気が差す。父親がこの国の権力者でなければ、早々に辞表を出していただろう。

 では誰なら俺は愛せる?

 そこそこ長く生きた人生の中に、その相手はいなかった。この先現れるかも分からない。

 だから作ることにした。家族を、俺が愛せそうな人間を。

 一から人間を作り上げるのは面倒なので、既に存在する物の中身を作り変えることにした。

 そう、プエラフロイスの中身を変えることにしたのだ。

 人格が変われば、俺の好みになれば、彼女を好きになれるかもしれない。なぜならあんなにも多くの男を虜にしている女だ。嫌いな中身が無くなれば、好きになれるかもしれない。猿のように何も知らない本能のまま生きるものになれば、プエラフロイスを好きになれるかもしれない。


 猿になって欲しいという願いを込めて、俺は彼女の記憶を奪い去った。家族になって欲しいという願いを叶えてくれるだろうと信じて、俺は彼女を猿にした。

 果たして俺は、彼女を愛せるだろうか。





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