第15話忘却の彼方で大惨事




 事件が起きたのは、午前の授業が始まって半刻ほど経った頃でした。私は一心不乱に、コン先生が発する単語をひたすら書き綴る作業に没頭している最中でありました。


 バンッ、と前触れもなく大きな音を立てて扉が開いたのです。

 この家ではほとんどの場合、室内に入る時はノックをします。従者を伴っている私が自ら叩くことはほぼございませんが、食堂の間に行く時も、勉強の部屋に入る時も、私がどこかの部屋に入る時はケリーが扉をノックします。流石に自室に入る時はしませんが、来客の方が各部屋に入る時も、家族の誰かが入る時も、扉を潜る前にノックは必須なのです。

 え? フランの部屋に入った時はノックしていなかったじゃないかって?

 あの時は急いでいた上に非常事態だったので特例です! 早く忘れましょう! けして私がマナー知らずだったわけでも、授業で学んだことをスッポリ忘れていたわけでもございません。特殊事案だっただけでございます、はい。とにかく話を戻します。


 ノックも無く入って来た教養の無い人物は、久方ぶりの登場、エクエスもといエグでした。

 すっかり忘れて先送りにしていた問題その2が、満を持して登場です。

 しかもなんと、その手には切れ味が大変良さそうな剣まで握られていたのです!

 静まり返る室内で、場違いにキラキラと輝きを見せ付ける刃物。

 はっきり言いましょう。怖い! 屈強な男が凶器を持って近づいて来るなんて、命の危機しか感じません! 助けてください!


「…………プエラ」

「……はい」

「……なんでお前が返事するんだよ」

「へ?」

「お前はプエラじゃないだろ! プエラはお前じゃない! プエラを返せ!」


 発狂した男が剣を振り回して喚いています。


 分かったから! 分かったからとりあえず刃物を、刃物から一旦手を離して! 剣術大会の優勝者の剣なんて、当たったら怪我じゃ済まないですよ! 死人が出ちゃいますよ!


「早くその体から出てけニセモノ!」

「ええ?」

「それはプエラの体だ! お前のものじゃない! 返せ!」


 さて、どうしたものでしょう。

 ケリーはお茶を入れに行っています。コン先生は事件が起きるといつの間にかいなくなっているので今回も当てになりません。

 あの剣に一太刀でも喰らえば、手足なら切断、首なら絶命、胴なら出血多量は免れないでしょう。

 しかしエグ曰く、この体はプエラフロイスのもので、私はそのプエラフロイスの体を乗っ取っている何かだと言うのなら、もしかしたらプエラフロイスである体を傷付けはしないかもしれません。


「あの……」

「黙れ! さっさと出て行け!」

「どうやって体を差し出せばよろしいのでしょうか?」


 仮に、私がプエラフロイスの体を支配しているのであれば、返す手段があるのであれば、体を返すのも吝かではありません。勝手に人様の体を強奪したと言うのなら、その罪を認めて償いましょう。

 本当にそうだとしたら、ですけれど。


「……そ、そんなの知るか! お前が知ってるんだろ!」

「え? 知りません。誓って知りません。知っているのなら教えて欲しいくらいです」

「嘘つくな! お前がプエラから体を奪った時と同じことでもすればいいだろ!」


 ですから、それはいつの、どのことですか?


「……申し訳ありません……私、記憶が無いのです」

「それこそ嘘だろ! そうやって俺やみんなを騙して笑ってんだろ! 全部分かってんだからな!」


 一体どこからその発想が出て来るのでしょう? 誰か黒幕がいて、裏で糸を引いてエグを錯乱でもさせているのでしょうか?


 ……ありえませんね。何の理もありません。そんなことをしても、誰一人として得しません。

 ですから残念なことに、エグは一人で勝手に錯乱しているのでしょう。想像力が豊かで羨ましい限りであります。

 長い間一人で部屋に籠っていると、こうなってしまうものなのでしょうか? 謹慎も考えものです。


「お前が体を返さないなら、俺が奪い返してみせる! その体は、プエラは、俺のものだッ!!」


 雄叫びのような声を上げながら剣を振り上げ迫り来るエグ。

 反射的に身構えるしかできない無力な私。

 煌めく刃。迫る殺意。諦めの境地。


 ああ、来世があるのなら、どうか人様に殺されるような人生でないことを祈ります。

 私は心の中で、そんな辞世の句を詠んだのでありました。



 しかし次の瞬間、エグの体は勢い良く後ろへ吹き飛ばされたのです!

 見えたのは、凄まじい速さでエグの腹部に当たって弾けた、透明な丸い何か。


 謎の物体の出所を目で探ると、そこには…


「……コン先生……!?」


 騒動が起こると毎回一目散に姿を消しているはずのその人が、片手の掌をエグに向けて立っていました。


「なんですかお猿さん?」

「……い、今のは、何ですか……?」


 先生の掌から「シュウウウ」と小さな音が聞こえます。ついでに言えば、先生の足元には何箇所か水滴が零れています。コップも樽も桶も、この部屋には無いはずなのに。


「見て分からなかったのですか? だから貴女は猿なのです。どこをどう見ても魔法でしょう?」

「は?」


 まほう? あの不思議な力をもって、不思議な事象や現象を起こすものですか?


「その男が着用している鎧は、特殊な素材で製造されています。貴女も知っているでしょう? 契約書や誓書などに用いられる紙、あれと同質です。あれは専用のインク以外の何物も傷付けられません。なので、そのインクを利用したまでです」


 つまり、何もない空間から専用インクを出して球体にして勢い良くぶつけて攻撃した、ということですか?


「ついでに二度と貴女に危害を加えられないようにしておきました」


 ……え? 先生、いつから魔法使いに転職したのでしょうか……?


「そんな猿みたいな顔で見ないでくれますか」

「……顔は多分生まれつきです」

「そうでしたね、可哀想に」


 この嫌味は間違いなくコン先生その人なのに、私には見知らぬ人のように思えました。

 だって魔法ですよ? 魔法ですよ? 魔法ですよ?

 いきなり知り合いが不思議な力とか使い出したら、誰だってビックリして我が目を疑いますでしょう? それと同時に、その知り合いを疑いの目で見ますでしょう? え? 私だけですか?


「……先生はただの家庭教師だと思っていました……」

「ただの教師ですよ。貴女にとっては、ですが」

「魔法使いだったんですね」

「その言い方はおやめなさい。猿ではなく幼子のようですよ」


 どういう意味でしょうか?


「でも魔法使いには変わりないじゃないですか」

「たまたま魔法を使えるだけです」

「たまたまで魔法が使えるのなら、人類みな魔法使いです」

「以前のプエラフロイスも魔法を行使できましたよ」

「え?」

「今の貴女じゃ百年経っても不可能でしょうがね」


 手の平同士を叩いて払いながら、我が師は鼻で笑ってみせました。

 これは紛うこと無きコン先生です。魔法が使えようと、実は大魔王だったとしても、大悪党だったとしても、いつも通りのコン先生その人でした。

 嫌味で人を判断するものではありませんが、コン先生に関してだけはそれで判断することにします。


「……百年以上の時間を有すれば、私も魔法使いの仲間入りということですか?」

「まあ、そうとも言います」

「では長生きするので、それまで根気強く教えてくださいねコン先生?」

「構いませんよ。百年など短いものです」

「え?」

「なんですか?」

「……つかぬ事をお聞きしますが、先生はおいくつでいらっしゃるんですか?」

「さあ……数えるのを諦めましたから定かではありませんが、ざっと数えて千くらいでしょうか」

「せん!?」


 今この人、千って言いましたか? 千って!

 千なんて、そんなに長く人間が生きられるのですか!? そんなこと『幼児向け一般常識』でも『この国のこと外国人向け』でも習っていませんけれど!?


「ということは先生、お爺さんということですか!? その髪も、だから白髪なんですか!?」


 人様の容姿についてあれこれ言うのは失礼かと思ってこれまで触れてきませんでしたが、コン先生は白髪だったのです。

 てっきりお若いのにさぞやご苦労をなさったのだろうと、そのせいで毛髪から色素が抜け落ちて若白髪になってしまったのだと勝手に予想おりましたが、どうやら加齢のせいだったようです。偏見はいけませんね、本当に。


「誰が白髪ですか。これは銀髪と言うのです。それからこれは、歳のせいではなく元からです」


 勘違いでした。そして心の中で「若白髪」と言っていたことまでバレてしまいました。あまりの衝撃的事実の目白押しで、少し興奮し過ぎて口が軽くなったようです。大いに反省します。


「それより、この男ですが……」

「あ、そうでした。どうしましょうか?」


 魔法の凄さと人類の神秘に浮かれてすっかり忘れていましたが、そういえばこの室内に傷害未遂犯がいました。

 どうしてくれましょうか、この危ない男。とりあえず縄で縛って拘束しておきたいです。


「殺しましょう」

「……は?」

「ですから、この男は殺します」


 先生の口から恐ろしい言葉が発せられたように聞こえましたが、私の耳が唐突におかしくなったのでしょうか?

 殺す? エグを? 殺す?

 確かに人前で刃物を振り回す危なさ一級品の人材ですが、命を獲るのはいささか判決が重過ぎではないでしょうか。あくまでも、未遂ですし。


「自覚が無いのかもしれませんが、貴女はこれでもこの国有数の名家の息女です。そして私の雇い主でもあります。そんな貴女を害しようとしたのですから、私に殺されて然るべきです」


 淡々と、常の授業で習う単語を告げるように、先生は言い切りました。


 そのことに、私は困りました。心底困りました。

 なぜなら、記憶を失くして今日まで、一般常識から国の内情や文化、学問や教養の全てを教えてきてくれたのがコン先生だからです。お辞儀の仕方からスプーンの持ち方、プエラフロイスという名の発音まで、私が生きる為に必要な知識の全てを教えてくれているのがコン先生なのです。


 その先生が下した判断を、どうして私が否定できましょう?


 勿論、私だって分かっています。コン先生とて人間なので、公平無私ではないのだと。立場が変われば価値観も変わります。

 実際、本人もそう言っています。私が主人だから、なのだと。正確には雇い主は私の父ですが、そこは重要ではないのでしょう。


 困りました。エグを殺すか、殺さないか。


「別れは済みましたか? では……」


 先生は再び掌をエグへ向けました。


「ちょ、ちょっと待ってください! まだ結論が出ていません!」

「何の結論ですか?」

「エグの処分です!」

「それはもう決まっています。処刑、です」


 また断言されました。こうも人様の生死について口に出されると、胃の裏の辺りがキリキリしてきます。

 けれど、ここで私が声を上げなければ、人一人が死んでしまいます。

 私は善人でも賢者でも良い人でも何でもありませんが、毎日使う勉強部屋で人死にがあるなんて耐えられない臆病者ではあります。

 だって、気持ちが悪いじゃないですか。自分の家の中で人が殺されたなんて、普通に気持ちが悪いじゃないですか。しかも殺したのも殺されたのも、どちらも知人だなんて、目覚めが悪いにもほどがあります。

 そう思う気持ちは、誰から教えられたものでもなく、私が思う心です。そう思うのです。


 だから私は、コン先生に楯突くことに致しました。


「……い、いえ! 決まっていません! 私は処刑に反対です!」

「反対? 理由を述べなさい」

「殺すところを見たくありません!」

「血が飛び散るなどという、はしたない真似はしませんよ。息の根を止めるだけです」

「殺人があった部屋での勉強は御免です!」

「この家にはまだ空き部屋がいくつもあると思いますが?」

「ち、知人が死ぬのが嫌です!」

「人はいつか死ぬものです。遅いか早いかの問題です」

「千年も生きている人間が言っても説得力は無いと思います」

「……確かに、一理ありますね」


 小さく溜め息を吐き、先生はようやく手を下ろしました。


「それで? 殺さない場合、彼をどうするつもりですか?」

「……えっと……」


 言葉に詰まります。案など、はなからございません。


「……まったく。本当に貴女は猿ですね。考えてから物を言いなさい」

「も……申し訳ありません……」


 先生は深い溜め息を吐くと、再び掌を倒れているエグへと向けました。


「待っ……!!」

「落ち着きなさいお猿さん。殺しはしません」


 そう言っている側から先生の掌が光り出すと、床に仰向けに横たわるエグの体に黒い影のような何かが纏わり付き、あっという間に彼の体は黒い縄でぐるぐる巻きにされていました。


 恐るべし、魔法。コン先生にはなるべく逆らわないようにしようと、ひっそり誓いました。


「これで目が覚めても暴れることは無いでしょう」

「そうですね……」

「それに先程も言いましたが、彼が貴女を害することはないので安心なさい」

「私を、ですか?」


 掌を払いながら、先生はさも当然の如くおっしゃりました。


「プエラフロイスに関する記憶を消しておきました」

「……え……?」

「もう彼は貴女を襲うことは二度とないでしょう」


 本日一番の爆弾を投下させたのを知る由もなく、先生は教本を開くと、何と授業を再開したのです。

 私はそれに抗議する間も気力も無く、仕方なく単語を書き殴る作業を再開致しました。


 軽く斬られて小さな怪我を負い、療養を理由に勉強を休めば良かったと後悔したのは内緒です。







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