第14話忘却の彼方で花は散る
それは麗らかな昼下がりでありました。
例の如く勉強に明け暮れていた私の元へ、麗しの美貌の婚約者は両手いっぱいの薔薇の花束を抱えて訪ねていらっしゃったのです。
赤やピンクや黄色や白など、色取り取りのバラを差し出されて、私は例の如く思いました。
邪魔だな、と。
正直、気不味さで胸がいっぱいです。顔を合わせたくない気持ちで胸が張り裂けそうでございます。
先送りにしてきた問題その1である婚約者様は、あの「どっちか選べ」強制事変以来、今日まで訪ねていらっしゃいませんでした。私はこれ幸いと、なるべく考えぬようにと顔を合わせるその瞬間まで努めていたのです。
ですが問題とは逃げても逃げてもあちらからやって来るもので、問題その1なデュクス様と、とうとう対峙する日がやってきたのでした。
ああ平和な日常よ、さようなら。邪魔の入らぬ日の勉強は、なんと充実したことだったでしょう。あの日はもう帰って来ないのです、あんなに勉強が捗る日は二度と来ないのです。
……はい、嘘です。白状いたします。捗ってなどいませんでした。邪魔があろうが無かろうが、私の勉学は遅々として進んでいませんでした。
記憶を失くしてから半月ほど経ちますが、悲しいことに私の勉強は一向に捗る気配がございません。いつになれば調子に乗ってホイホイと課された問題の山を楽に解くことが出来るようになるのでしょう? そして、この世で受けるべき苦しみの全てを味わったような辛さを勉強後に毎度味わう私は、何か罪でも犯したのでしょうか?
いえ、自覚はしております。記憶を失くしたことが、全ての罪であり咎なのでしょう。恨みます、私。
そう思いを馳せている間に、薔薇の匂いがプンプン香る婚約者に導かれてやって来たのは、当家の庭でした。
庭師が毎日丹精込めて手入れをしているらしい庭には色とりどりの花々が咲き誇り、緑の葉が茂る木々は丁寧に丸く四角く様々な形に刈り取られ、それらが芸術品のように絶妙に配置されています。
単純に、綺麗でした。一瞬目を奪われるほどには、庭はとても美しかったのです。
ですが、私は一刻も早くこの場を立ち去りたい気持ちでいっぱいでした。
なぜならば、ここは庭。
庭には何がいる?
そう、虫です! あの羽があって小さくてそこら中を不規則に動き回る、あの害虫共が生息しているのです!
記憶を失くして今日まで、私が外に出た回数は数えるほど。けれども、虫に遭遇したのは一度や二度ではありません。あやつらは窓からドアから扉から、昼夜問わず許可なく侵入して来るのです。しかも、複数で徒党を組んでいる場合もあります。どっかの気障な泥棒よりもタチが悪いのです。
そんな虫共がうじゃうじゃいるだろう庭に、何故好き好んで来なければならないのでしょう?
正直、いくら注文が多い上に怒らせたら怖いし面倒な婚約者の誘いでも、全力でお断りさせて頂きたかったです!
……はい、そうです、結局は願望です。どう足掻こうが、こうして庭に来ることになりました。
何故なら「拒否権など無い」という諦めが、何よりも先に私の思考を埋めるからです。駄々を捏ねられるならとっくに捏ねています。出来ないから、こうして悪魔のような生物のいる巣窟に来なければならないのです。
「いつ来ても、プエラの家の庭は素敵だね」
上機嫌の婚約者が微笑みながら何か言っています。
それに対して、私は努めて朗らかに笑ってみせました。
そうです、笑顔でございます。あの鏡の前の惨劇から数日間、私は折に触れて鏡と相対し、これでもかと言うほど笑顔の練習をしてきたのです。人間やれば大抵のことはこなせるようになるのか、3日目にはそこそこ良い笑顔が出来るようになっていました。これで私も一人前の立派な作り笑い師でございます。
「君に贈った花は、我が家の庭で咲いたものなんだ。前に君が好きだと言った花を包んで来たんだけど、気に入ってくれたかい?」
「……はい。とても良い香りですね」
「どれが一番気に入った?」
「……どの花も甲乙つけがたいもので、わたくしには判断し兼ねます」
害虫に怯えて右へ左へ目を配らせながら上の空で答える私に、デュクス様の詰問は続きます。
「どの色の花が良かった?」
「……白でしょうか」
特に意図せず適当に申し上げました。たまたま目に付いた庭の花が白かったからです。
「そう……白、ね……。白い花は蕾のものしか入れてなかったけど、気に入ってくれたんだ?」
「…………」
どうやら答えを間違えたようです。デュクス様の声色が一気に沈みました。怒気すら孕んでいるようでした。
反応に困った私は、これ以上墓穴を掘るわけにもいかず口を閉ざしました。沈黙は金なり、などという遠い異国の言葉もあるそうです。
落とされた沈黙、に続く沈黙。
その時、私の耳は世にもおぞましい音を拾ったのです。
ブ〜〜〜ン。
そう、げに悍ましき虫の羽音でございます。
ぎゃー!!
「……実は、私と君との婚約を白紙にしたんだ」
「えっ?」
すみません、虫に怯えて聞き取れませんでした。もう一度お願いします。
「婚約を取り消したんだ。君の父親とは話終えている」
婚約を、取り消し? 白紙?
なんということでしょう! 知らぬ間に婚約者が、ただの知人に変化しておりました!
そしてお父様、我が家の家庭内連絡が滞り過ぎではありませんか? 初耳ばかりなのですけれど。
「……不服かい?」
「いえ……その……」
「正直だね。少しは名残惜しくしてくれてもいいんだよ」
だからどうして貴方はいつもそう反応に困ることばかり言うのですか。
「……どうして、とお訊きしても……?」
「どうして? それは君が一番良く分かっているんじゃないのかい?」
聞き返されて、胸の辺りがチクリと痛みました。
デュクス様の婚約者であったプエラフロイスは、ある日突然記憶を失くしてしまいました。
代わりに現れたのは、知識も表情も乏しい女。
その女である私には、何も言うべきことは無いのでしょう。
婚約者であったプエラフロイスは、私ではないのですから。
「……ああ、ごめん。君にはどうしても意地悪になってしまうんだ。もう婚約してないから、意地悪はやめようと思ってたんだけれど、もう癖になってるみたいでね」
「意地悪?」
「うん、そう。君は私からプエラを奪ったからね。その腹いせ」
元婚約者は、見たこともない晴れ晴れとした顔で遠く彼方を見ながら言いました。
「私が好きだったのも、婚約していたのも、君ではなく私のプエラだからね。君に優しくしたら、彼女への裏切りになってしまう。だから意地悪するよう努めてたんだ」
「……そう……ですか…」
遠く彼方から私へと視線を戻したデュクス様は、こちらを真っ直ぐ見つめて微笑みました。
私は今出来る最大級の作り笑いを返します。
「君は最後までプエラではなかったね」
「申し訳ありません……」
「いや。これで気も晴れた。私が愛したプエラは、やっぱり君の中にいないようだからね。プエラはもっと笑い方が上手かったよ」
「左様ですか……」
「さよならだね。君の幸せを心より祈るよ」
そう優しい声音で紡がれた音は、私の胸の痛みや心の中のわだかまりをすっかり消し去っていました。
「わたくしも、デュクス様の幸せを心よりお祈りいたします」
そう、嘘偽りなく、私も述べました。
彼がくれた声に、なるべく近い響きになるように。
「……困ったな……そんな顔をされたら未練になりそうだ……」
「え?」
「いや、こっちの話だよ。どうか元気で」
「はい。デュクス様も」
元婚約者様は、麗しい顔で笑いながら庭を去って行きました。
残った私は、虫のことなどどこへやら、去り行く背中をいつまでも眺めておりました。
「お嬢様」
感慨に浸る私を現実に戻したのは、勤勉な従者でした。
「何でしょうかケリー?」
「そろそろ限界が近付いているかと存じます」
「限界?」
「どうぞ、お心算を」
それはどれのことを指しているのでしょう?
もう勉強の時間だというのに、いつまでも庭でサボっているのがバレるまでの時間ですか?
などと問答しているところを鬼教師に見られたら大事になるので、私は素早い動きで席を立ちました。
勉強部屋へ向かう道中、ケリーの言葉に引っ掛かりを覚えたので、つい私は口に出していました。
「そういえば、最近エグと遭遇しませんが、まさかまだ納屋に閉じ込めているわけではありませんよね?」
例の「どっちか選べ」強制事変から、自称騎士の暴力鎧男の顔も見ていません。幸いなことなので、今の今まで話題に上げてもいませんでした。
「そうしたいのは山々ですが、現在は自室で謹慎させております」
てっきり実家に送り返したと思っていましたが、まだ我が家にいたそうです。実に残念です。
そのまま心を入れ替えて、騎士などというよく分からない仕事ではなく、国や社会に役立つ仕事に就いて欲しいものです。
けれど私は考えが甘かったのです。
後回しにしたツケが、すぐそこまで迫っていることに、この時の私は気付きも致しませんでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます