第17話忘却の彼方で人でありたい




 衝撃の事実の大盤振る舞いから数時間。昼食を経て、今は午後の授業開始5分前。


 あれから戻ってきたケリーの激昂を宥め、どうにかエグ処刑実行第二弾を阻止し、あれよあれよの間に時間は過ぎておりました。


 結局エグは、実家に帰らせることになったそうです。詳しい経緯は父とケリーとコン先生との密談によって取り決められたので存じませんが、元々エグの持っていた誓約書も例の不思議な紙ではなくただの普通の紙で書かれていた為、騎士云々自体を無効扱いにしたそうです。

 ちなみにその誓約書は焼いて灰にしたと、ケリーが満足気に言っていました。



 昼食を理由に一度勉強部屋から退室したコン先生の後ろ姿が見えなくなってから、私はケリーを呼び付けました。


「……ケリー」

「何でしょうかお嬢様」

「一つ確認したいのですが」

「はい。何なりと」

「コン先生が魔法使いなこと、皆さんご存知なんですか?」

「いいえ。知っている者は、父君と私くらいでございます」

「そう……」

「この国での魔法についてはもう習いましたでしょうか?」

「いえ、まだです」

「僭越ながら申し上げますと、魔法を操れる人物はとても稀有な存在です。数十年に一人現れるか現れないかの確率でしか会得できない秘法、それが魔法あります。一般庶民には存在自体知られていません。何故なら権力のある者達がこぞって魔法使いを囲い込み、魔法から得られる成果と利益を独占するからです」

「つまり、我が家もその権力ある家だと?」

「はい。コンシリアトル先生がもたらした奇跡の技術を、我が家が独占する為に囲っています」

「奇跡の技術?」

「例えば、我が国で契約書や誓約書に一般的に使われる紙ですが……」

「あの不思議な紙ですか?」

「はい。あちらとその専用インクはコンシリアトル先生が発明なさった物です」

「え? でもあれって……」

「はい。我が国の歴史が始まった頃から使われている由緒ある代物です」

「そういえば先生は千歳以上のお爺さんでしたね……」

「お爺さん?」

「いえ、こっちの話です」

「他にも数々の偉業を成し遂げていらっしゃいます」

「……そんな方がどうして我が家に……」

「父君がお尋ねした際には、『金が欲しい』とだけおっしゃったそうです」

「金?」

「はい。あくまで推測でございますが、彼の過去の偉業の利権全てを雇い主などに毟り取られたのではないかと」

「なるほど。だからお金が無いと」

「あるいは、巨万の富でも足りぬ何かを……いえ、何でもございません」

「そういえば前の私……記憶を失くす前の私も魔法が使えたとコン先生は言っていましたけれど」

「はい。お嬢様は才能溢れるお方でいらっしゃいましたので、魔法もすぐに使えるようになっていらっしゃいました」

「へ〜……そうですか」

「ご案じ召されずとも、父君はお嬢様の魔法についてご存知でらっしゃらないので囲い込まれることはございません」

「そうですか」


 以上が、ケリーから得た情報の全てです。




 始業開始の時間ぴったりに、勉強部屋の扉からコン先生が現れました。いつもと変わらぬ厳しい表情、分厚い教本、低い身長、くすみの無い白髪、見下ろす瞳。

 私は強張って上手く動かない唇に力を込めて言いました。


「先生……お話があります」

「それは勉強より優先すべきことですか?」

「はい。そうです」


 私の迷いの無い返事に、先生は教本を閉じて私へ真っ直ぐ向き直りました。


「なんですか、お猿さん?」


 私は極度の緊張で乾き切った口の中に無理くり滲ませた唾を飲み込みました。


「コン先生は……コン先生が、私の記憶を消したのですか?」


 約半月前、某時刻の自室で何だかの起因により頭を強打した私は、それまでの記憶が消え去りました。それにより、プエラフロイスという人間は、何の知識も教養もない私という人間に成り下がってしまいました。


 ずっと不思議だったのです。頭をぶつけたくらいで、人の記憶が消えるものなのかと。記憶がいとも簡単に消えてしまうものなら、そこら中に記憶喪失者が蔓延して自分の家も分からず徘徊しているのではないのかと。


 だからもしも、記憶を消す能力があったのならば、私の記憶は故意的に消されたのではないかと。


「……それを私に訊くということが、どういう意味か貴女は分かっているのですか? お猿さん」


 見下ろす先生の鋭い双眸が、私を蛇に睨まれた蛙へと成り下げます。

 相手は大の男も片手で倒す、この国の歴史に深く関わっている長寿の大魔法使い。剣術や体術など知らぬ、何より一般常識すら知らない何も無いただの小娘である私では、どう逆立ちしても到底太刀打ちできません。


 けれど、私は立ち向かわなければならないのです。いえ、立ち向かいたいのです。

 私は私のことを、もっと知りたいのです。


 コン先生を真っ直ぐ睨み返すと、先生は諦めたように小さく息を吐きました。


「……いいでしょう。話して差し上げます……私と、彼女のことを」


 そう言うと、先生は何も無いはずの宙の上に、居心地良さそうに優雅に座ってみせました。

 魔法は何でも出来るようです。さすが大魔法使い。


「それを話すには、まず私の話をしましょうか」


 何も無い空間から茶器を取り出し、芳しい紅茶の香りを室内に漂わせながらコン先生は語り始めました。

 人様の家で寛ぎすぎではないですか? などという文句は野暮なので黙っておきました。


「……私はもともと画家でした。好きなことと才能は別なのです。私には絵を描くよりも物を教える才能のほうがありました。もっとも、貴女に出会ってからというもの、自分の才能を何度も疑いましたが」


 意味深な視線を向けられたので、盛大に目を逸らしました。まるで私が物覚えの悪い出来の悪い生徒みたいな言い方はやめてください。例え事実だとしてもです。


「画家? 学者ではないのですか?」

「おや。誰から聞いたのですか?」

「いえ……勝手な推測です」

「貴女に差し上げた画集……あれは過去に私が描いたものです」


 なんと、情緒教育の為に毎晩欠かさず観ていた絵は、コン先生作だったそうです!

 つまりこの人、自分の絵を押し付けて来てたんですか? いえ、あの画集は私が選んだと言っても過言ではありませんが、最終的に渡したのは先生なので、やっぱり押し付けて来たと言っても差し支えないでしょう。


「あの頃は無我夢中に描いていたので意識していませんでしたが、今見ると疎外感と孤独感を描き殴っていて恥ずかしくなります」


 そんな恥ずかしい代物を良く教え子に提供できましたね。私だったら見つけた瞬間燃やしそうです。


「……私は猿が好きです。いえ、猿しか愛せません」


 え? 今なんと? 絵の話をしてましたよね? 猿? 猿がどうしたって言いました?


「記憶を失くす前のプエラフロイスは、私の好みではありませんでした」


 そんなことより、猿がどうだって言ったかもう一度言ってくれませんか?


「だから、記憶を消そうと思った」


 私の疑問を置いてけぼりにして、話はどんどん進んでいきます。怖いので話を遮って質問できません。絶賛武力に屈しております。


「……人間を人たらしめてるのは記憶。記憶が人をつくる」


 いつぞやかに聞いた言葉。たしか初めてコン先生に会った時に溜め息混じりにぼやいていらっしゃいました。


 人間というものは記憶を頼りに生きていて、記憶がないと知識も無ければマナーも無く、知能も無くなり動物と同等になるのだな。猿もいいところだ。


 そう、先生はおっしゃっていました。記憶の無い私は猿並みだと。

 失礼過ぎるこの言葉が忘れられず、悔しさと憎しみと共に心に刻んでおりました。この言葉を覚えている私、猿以上だと思いますけど?


「記憶さえ失くなれば、プエラフロイスは私の好みに、本物の猿になるのだろうと、そう思ったが……」

「え?」


 待ってください。先生は前に「記憶を失くす前のプエラフロイスは好ましかった」と言っていたはずではありませんでしたか?

 そう尋ねたいのに、私の口は怯んで動きません。やはり午前に見た豪腕のエグを圧倒する力が頭を掠めて怖れを呼びます。

 そんな私の様子を気にすることなく、先生は茶器を片手に自供を続けます。


「……けれど違った。記憶を失くしても、プエラフロイスは猿にならなかった」


 一瞬で、先生が摘んでいた茶器が消えました。

 空中に悠然と寛いでいたコン先生は、床を踏むことなくそのまま宙の上を歩いて私の眼前へ一歩一歩にじり寄って来ます。


「貴女は私をコン先生と呼ぶ。けれど、猿は主人を名付けることなどしない。貴女は……お前は、猿じゃない」


 無駄に高い天井のお陰で、先生は難無く宙の上を歩きます。私の周りをぐるぐると。

 それを仰ぎ見る私としては、首は痛むし頭はクラクラしてくるので、話が半分も入ってきません。嫌がらせかもしれません。


「失敗だ!!」


 いきなりの大声に、気を失いかけていた私の意識は先生へ改めて向きました。


「記憶さえ、記憶さえ失くなれば人間じゃなくなると、猿になると思ったのにっ……! なぜだ!俺はただ、猿をつくりたかっただけだ! 今度こそ、俺も人を愛せると思ったのに……」


 消え入りそうな儚い声で零された最後の言葉は、たしかに私の耳に残りました。

 ぐるぐると歩むのを止めた先生は、背を向けて窓辺へと足を向けました。


 あ、これは逃げる気ですねこの犯罪者。人様の記憶を奪っておいて、自供だけで済むと思っているのでしょうか? いえ、済ませません!


「ま、待ってください!」

「……なんだ?」

「に、逃げないでください!」

「これ以上話すことなどないが?」


 いっぱいあるでしょう?! 何を言っているんですかこの犯罪者は!

 まずは謝罪! 私へのごめんなさいがまだですよ!


「それに窓から逃げはしない。俺が本気を出せば、一瞬で好きな場所へ移動できる」

「……密室でも?」

「ああ、訳無いな」


 つまりこの男は、どんな泥棒も真っ青な破格の能力を持っているそうです。


 ……ダメです。勝てません。誰一人としてこの男に勝てそうにありません。謝罪を貰うという目標も達成できそうにありません。

 けれど諦めたらそこで終わりです。私は裸足で逃げ出したい気持ちを叱咤し、心の中で己を鼓舞しました。


「……私には話があります」

「…………」

「聞く義務はあると思いますが?」

「猿以外に興味は無い」

「貴方のせいで人一人の人生がめちゃくちゃになっているのですから、少しくらい時間をくれても罰は当たらないと思います。それに一瞬でどこにでも行けるのなら、馬車に乗って移動したと思えば時間も惜しく無いでしょう?」

「……言ってる意味が分からないが、まあ聞いてやろう」


 犯罪者のくせにどうして上から物を言うのでしょうか。圧倒的な力を持つ者は、こうも傲慢になるものなのでしょうか。


 私は窓辺の宙に立つ先生の元まで大股で歩み、椅子やら教本やらそこいらの物を乱暴に積み重ね、その頂上に立ち上がりました。無理やりにでも先生と目線を合わせたかったのです。

 不安定な足元にふらつきながらも、私は声を張って言いました。


「まず言わせていただきますが、強制的に無知な人間を作ってもそれは猿ではないと思います。少なくとも、私は人間を辞めてはいません」


 誰が猿ですか、誰が。

 いえ、猿ではなかった失敗だと後悔しているみたいですけれど、そういう問題ではないでしょう?


「それにご存知無いかもしれませんが、猿って頭が良いんです。きっと私より記憶力だって良いはずです」


 悲しいかな、己の記憶力の無さは自覚しております。猿のことなんて何一つ知らないけれど、先生がそこまで言うなら私よりも優秀で秀才で優良な生き物だということなんですよね、きっと。


「猿のことも人間のことも馬鹿にし過ぎてるから、そんな変態嗜好になっちゃうのではないですか? コン先生」


 鼻で笑ってやりました。

 人を馬鹿にし過ぎるのも大概にして欲しいものです。


「人様の嗜好にこれ以上とやかく言いたくないですが」


 私は高く積み上げた虚栄を高々と張り上げ、


「二度と私の記憶をどうにかしようなんて考えないでくださいませ」


 先生に向かってニッコリと淑女の如く微笑みました。


「……一つ訊くが」

「なんでしょう?」

「今日のこの会話をした記憶を消されるとは思ってないのか? 俺は一度お前の記憶を消している。罪悪感など無い」


 言ってやったと満足に浸る私へ、先生は冷たく事実を述べました。


「……消さないと思います」

「なぜ?」

「だって今消したら、これまで懇切丁寧に教えた勉強の全部が無に帰してしまいます。時間の無駄を自ら行いたいほど、先生は自虐趣味の変態ではないはずですから」


 重ねた本やら何やらが崩れ落ちぬように慎重に一つ一つ降りながら私は答えました。


「それに記憶喪失な私の知能も知識も幼児並みで、悲しいことにそれは両親の折り紙付きです。大魔法使いと幼児、他者からの信頼度など比べるまでもありません。コン先生に何かをされたところで、幼児な私がいくら被害者だと喚いても痛くも痒くもないでしょう。まあ、うるさいとは思うかもしれませんけれど」


 重ねた山から見事に降り終わり、改めて空中に浮かぶ男を仰ぎ見ると、男は小さく肩を震わせ口元に手で隠していました。


「……本当に、貴女は猿ではないようで残念だ」

「ご期待に添えず申し訳ありません」


 言葉の端々に滲む笑みに、軽く拗ねそうになりましたが、室内に漂っていた不穏な空気が一気に切り替わったのを肌で感じたので釣られて私もフフっと笑いました。


「ああ、一つ言って置きますが」

「なんですか?」

「記憶を奪ったあの日、頭を打ったのは私のせいではありません。貴女が勝手に転んでぶつけていましたよ」

「…………」

「お馬鹿なお猿さんですね」

「……猿じゃありません」

「そうでしたね。では、ただのお馬鹿さんですね」


 重さを感じさせぬ所作で窓辺から机の前に移動した彼は正しく大魔法使いでしたが、机の前に仁王立ち分厚い教本を片手で持って見下ろしてきたのは、いつもの情け容赦無いコン先生でありました。


「では授業を始めます。時間が押してますので、休憩は無しです」








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