第11話忘却の彼方で悪女はイヤです
鏡に映るのは、果たして真の像なのでしょうか。
目の前の鏡には、見たことの無い女が立っていました。
記憶を喪失してから半月ほど経ちました。その間、私は努めて鏡を見ないよう努めてきました。
何故なら、自分の姿を憶えていないからです。憶えていないから、一度でも鏡を見てしまったら、その映った姿が私の中の真実の姿となってしまいます。仮にとても状態の悪い姿を最初に見てしまったら、その姿が私の中で自身の真の姿となって記憶されてしまうのです。
正直、怖れていました。自分がどんな姿形なのか、確認するのが恐ろしかったのです。
しかしその全ては杞憂に終わりました。
鏡の中に映る私は、一言で言えば「殊の外綺麗」な部類だったのです。
左右が限りなく対称に配置された丸い目と小高い鼻。小さな口は何も塗らずとも艶を放っています。記憶の乏しい私は美醜の基準など知らないはずなのに、確かに脳の中の美意識は己を綺麗だと定めたのです。審美眼など無いはずなのに。
鏡の中の美人さんは、ニコリともせずこちらを見ていました。愛想の欠片もございません。この上なく可愛げがないのです。
自分の口の端と頬の筋肉に力を入れてみます。鏡の中の女が不器用に微笑みました。
その微笑んだ顔は、有り体に言えば、不細工でした。先程までの可憐さはどこへやら、鏡の中に立っているのは拙い化粧をした道化のような顔の女。表情一つでここまで変わるものなのでしょうか。
記憶を失くした日から今日までこんな顔を人様へ向けていたかと思い返すと、申し訳なさで胸が爆散しそうです。と同時に、恥ずかしさで顔を覆いたくなりました。
先日フランへ笑い掛けた時に変な反応をされましたが、変だったのは私の顔だったのだと痛烈に思い知らされました。
これは二度と人前で微笑んではいけませんね。表情筋がうっかり働かぬよう気を付けねばなりません。
改めてこうして自分自身を見ると、鏡に映る像は確かにくっきりと視ることができるのに、プエラフロイスという私の中身は、漠然としていて取り留めが無いように思えます。鏡の中の見知らぬ女をいくら見つめても、プエラフロイスという人となりは結局のところ分かりません。
「……貴女って、まるで月の影みたいですね……そこにいるのに…まぁ私自身なわけですが、さっぱり性質が掴めない……中身がぼんやりとしていて、何人もいるかのよう……本当に人間だったのでしょうか……?」
誰にとは無く、私は自然に鏡の前で呟いていました。
デュクス様の求める、微笑みの似合う少女。
フランと仲の良かった義姉。
コン先生のお気に入りだったらしい生徒。
ケリーのご主人様。
泥棒が定期的に訪れる部屋の主。
エグの主君。
これが全てプエラフロイスだったと言うのなら、彼女は人間関係に難有りだったと言えざるを得ません。コン先生のお気に入りという時点で人間性を疑いますが、それを棚の頂点に置いたとしても、犯罪者とは即刻縁を切り捨てるべきだと思います。それから、注文が多い男共とも縁は切り捨てるべきです。はい、今すぐ切って捨てたいです。全て真っさらなクリーンな状態から新たに人間関係を構築していけたなら、どれほど楽でしょうか。それが出来ないからこそ、今が苦行の日々になっております。
「ご自身を他人のようにおっしゃらないでくださいませ。貴女様もプエラフロイス様なのですから」
いつの間にか部屋の隅に控えていたケリーが、優しさを持ってそう言ってくれました。
壁に耳あり、という言葉が遠い国にあるとコン先生が言っていましたが、正にどこに聞いてる者がいるか分からないのが独り言というのでしょうか。もう二度と鏡に向かって一人でぶつぶつ言わないと心に誓いました。単純に、羞恥心で胃が潰れそうです。
「……そうは言っても、会う人会う人、求められる人物像が余りにも出来過ぎた女性で、自分自身とは思えません。彼女は本当に凄い方ですね、皆さんに好かれていたみたいで……」
異常なほど好かれているプエラフロイスに、時折恐怖すら覚えました。皆さんの度を越した執着のような執念のようなひたむきな好意に、思わず裸足で逃げ出したくなることが一度や二度ではありません。
具体例を挙げるなら、デュクス様のからの強制しつけ、フランの完全拒否、ケリーからの主人としての心得、コン先生の勉強地獄、泥棒の深夜の侵入……はあれ以来ありませんが、エグの四六時中護衛などなど。これらを笑顔でやり過ごしていたプエラフロイスは、超人ではないでしょうか。
もっとも、コン先生の勉強地獄は私の覚えの悪さのせいとも言いますが。
「……お嬢様は、大多数の方からは好かれていらっしゃいましたが、その本性は大多数の方が嫌うようなものでした」
え? 今なんて?
「お嬢様は相手によってご自分の印象を故意に変えていらっしゃいました。相手の好みに合わせて話題や服飾の種類、化粧や話し方、ときには部屋の装飾、果ては声色から仕草まで、変化自在でいらっしゃいました」
「えっ……スパイですか?」
ただ今勉強中の『外国人向けこの国のこと初級編』によると、スパイもとい諜報員とは、国に有益となる情報を入手する為にあらゆる手を尽くし、時には情報源の特定を防ぐ為に尽力する仕事、とのことらしいです。目下勉強中の為詳しくは知りませんが、色仕掛けという秘技も持ち合わせているとか。標的の好みに合わせて己を着飾り、相手の好み通りの人間を演じて情報を引き出す。
プエラフロイスが諜報員で、必要な情報を聞き出す為に様々な方々と付き合っていたと聞いても驚きません。
「スパイではございませんので、ご安心くださいませ」
「そうですか……」
スパイだった方が、まだ心の持ちようが有りました。仕事だったから致し方なかったと言われたほうが、どれほど心が救われたか。誠に残念です。
「……一つ聞きたいのですが」
「はい。何なりと」
「貴方はプエラフロイスのその性格を知っていたのに、なぜとても好意的なのですか? 普通、その本性は好きになれないと思いますけど……。現に貴方も“一般的には嫌われる”って言っていますし」
「失礼ながら申し上げますと、私はお嬢様が仮に最低最悪の悪女であろうとも、お嬢様への気持ちは変わりません」
相変わらずの忠義心に、私の価値観との温度差から寒気を感じます。と言っても、記憶の無い私に価値を推し量れるだけのものは持ち合わせていませんけれど。
「ちなみにプエラフロイスは、ケリーに対してはどんな方だったのですか? 貴方の好みの性格に振る舞っていたのでしょう? まさか最低最悪の悪女が好みなんて言いませんよね」
「はい。その通りでございます」
「……え?」
「私の好みの女性は、最低最悪の目も当てられない性悪でございます。ですので、プエラお嬢様は私の理想とします世紀の悪女であらせられました」
……ええ、まあ、知ってましたよ。まさか真っ向から肯定されるとは思わなくて驚きはしましたが、回答には微塵も驚きませんでした。
だって最初から、やれ盗聴するわ、やれ下品な言葉を使えやら、変な行動と要望ばかりで、ケリーが変態さんの仲間なのは解っていました。ええ、知ってましたとも。
「加えて申し上げれば、罵倒や体罰を日常的にして頂ければ、より私の希望の女性でございます」
「……なら、私が記憶を無くした日にフランから叫ばれてたアレは、わざとそうさせていたのですか?」
思い返しても、あの時のケリーはまるで挑発しているような慇懃無礼な態度でした。
「お嬢様……全然お分かりになっていらっしゃいません。好きでもない者から蔑まれても、嫌悪と憎悪しか抱けないのです。好きな方から蔑まれてこそ嬉しいのです! 幸せなのです! 喜びを感じられるのです!」
「はあ……」
「ですから、私が粗相をしてしまいました際は、どうぞご遠慮なくお叱りくださいませ」
「いえ、大いに遠慮はします」
今の状況で、ケリーの注文まで受け付ける余裕などありません。ただでさえ顔を合わせれば大量注文をする客がいるのですから、これ以上の需要に供給は追い付きませんし、追い付かせる気などございません。
「お話は変わりますが、恐らく今夜あたりまた例の不埒者……いえ、お嬢様のご友人がいらっしゃるかと」
「え? 何故分かるのですか?」
「比較的定期的にいらっしゃっておりましたので……男の勘と言いますか、何となく分かってしまうのです。……憎たらしいことに」
プエラフロイスの友達、泥棒が来るそうです。何だか前回はキザな言葉も言っていたので、キザな泥棒の代名詞を気取って予告状の一つでも寄越してるのかと思ったのですが、どうやら違ったようです。
「そうですか……では、うっかり寝ないように気を付けます」
「万が一のことがございましたら、すぐにお呼びくださいませ。廊下で控えておりますので」
「それは申し訳ありませんので、叫び声が聞こえた時だけ助けに来てください。プエラフロイスの友人なら殺そうとはして来ないと思いますから……多分」
「……お嬢様がお許しくださるなら、部屋の中に潜んでおきますが……」
「やめてください! 勝手に入ったら怒りますよ」
「お叱り頂く為にわざと侵入するのも一つの手ということですね」
「違います! 入ったら……ええっと、あ! もう口を利きませんからね!」
「はい、かしこまりましたお嬢様」
焦って声を張る私に反し、ケリーはにこやかな顔でそう言って頭を下げました。
この従者、どうやら本当に変態のようですね。ですが私は貴方の要望に応えられそうにありません。人様を罵倒など、とてもとても。私に出来ることなど、心の中で小馬鹿にするのが関の山でございます。コン先生やコン先生やコン先生などを。
なので、いつも私の身の回りの世話を嫌な顔せずしてくれるケリーに罵倒する機会など無いのです。仮に機会があったとしても、私に罵倒する権利など無いのです。
所詮私は、ケリーが仕えていたの真のお嬢様ではないのですから。
綺麗にお辞儀をする従者へ、心の中でお詫びを申し上げました。
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