第10話いつかの彼女に ケリー

 



 悪女とは、何をもって悪女なのでしょう。


 私が思うに、己の欲望、願望、私利私欲の為ならば他者を容赦なく利用し切り捨てる女性を、悪女と呼ぶのではないでしょうか。


 そう。お嬢様は正に、天性の悪女でございました。


 お嬢様はある一つの願いの為に、他の全てを犠牲にして生きていらっしゃったのです。

 その願いは私の口からは申し上げられませんが、その生き様は私の心を安らげるには十分なものでございました。


 そうです、安らぎです。

 私はお嬢様の悪女らしさに安心と安堵を感じていたのです。


 お嬢様は他人を駒として扱っておりました。己の野望を叶える為の捨て駒。私もその一つでありました。

 けれど同時に、お嬢様は私の唯一の理解者でもあったのです。


 お嬢様に「この駄犬が」と「ダメな犬っころね」と言われると、心の底から安らぎを感じていたのです。

 私を犬畜生だと罵る声に、「お前は無理をしなくてもいい。頑張らなくてもいい」という言葉が重なって聞こえていたのであります。


 恥ずかしながら、私は物心つく頃には路地裏で残飯を主食とする生活を送っておりました。時には道端の草を、時には下水に住む小動物を狩って食べていたのです。

 その生活が当たり前で、極々自然なことでしたので、私は知らなかったのです。そうやって生きる者は、世間では人間以下であると。

 私は人間ではなく、かと言って野生動物でもなく、何者でも無い存在として生きていくしかありませんでした。それを苦痛だと思うことも無ければ、不満に思うこともありません。何故なら、他の生き方など知るすべも見た当たらなければ、すべを探す時間があるのなら今日の食事の為に食料を捜していたからです。常に空腹を感じていて、食べ物以外の考えなど全く起きもしませんでした。


 そんなある日のことでございます。お嬢様に出会ったのは。

 私はいつものように路地裏で残飯を漁っておりました。地べたに這い蹲って、四つん這いで残飯を食している時、声を掛けられたのです。


「貴方、わたしのものになりなさい。異論など認めないわ」


 この時の私は、言語を理解できませんでした。これまでの人生で会話をする相手もいなければ、必要もありませんでしたので。ですので、お嬢様がこの時私へ何とおっしゃったのか理解出来たのは数年後になります。


 路地裏からお嬢様の家へ連れ出され、身なりを整えさせられてからは、勉強の毎日でした。日常会話から文字の読み書き、一般常識から使用人としての仕事。覚えることが山のようにあり、気付けば十数年間の月日が経っていました。

 その頃には私は人並みの仕事を出来るようには成長しておりましたが、あくまでも人間の真似事をしている気分でした。

 所詮、私は人間以下。人の真似をしても、その本質は畜生に近く、けれど動物でも無い。何者でも無い存在だと、心の奥底で思っておりました。


 そんな折り、お嬢様は私におっしゃったのです。


「ケリー。貴方はまるで犬ね。言われたことしかできないくせに、それすら満足に出来ないなんて。犬のほうがまだ利口だわ。お前は犬以下ね」


 その言葉に、私はハッと得心したのです。

 お嬢様は私を寸分違わず理解してくださっていると。私を人間以下だと、犬以下であると、理解してくださっているのだと。その上で、お側に置いてくださってるという事実に、私の心は打ち震えました。


 それからは、お嬢様に罵倒される度に安堵いたしました。この世に自分を正確に理解してくれる存在がいるという安堵です。お嬢様の罵声は心の安寧を与えてくださりました。


 その平穏が崩れ去る日が来るなど、誰が予期できたでしょう。


 記憶を失くしたお嬢様は、もう私を罵倒してはくれなかったのです。

 それどころか、与えられた仕事を当たり前にこなす私を、当たり前に受け入れたのです。


 これに私は堪えました。

 前までのお嬢様ならば、私が仕事でミスをすれば「これだから駄犬は、人間の真似が下手で困るわ」とおっしゃりながら細いヒールで踏み付けてくださいましたが、今のお嬢様はどう反応するのか全く分かりません。

 もしかしたら、完璧にこなせない私に失望なさるかもしれない。そう考えるだけで、恐怖が足元からじわじわと広がっていきました。


 ですので、不敬は承知で試したのです。

 毎日午後の3時に入れるお茶は、日ごとに違う茶葉を使っていましたが、その日は前日と同じ茶葉でお茶を入れたのです。それを何食わぬ顔でお嬢様へ差し出しました。


 お嬢様は、それを常の無表情でお飲みになりました。


「申し訳ございませんお嬢様……」

「はい? 何がですか?」

「誤った茶葉を出してしまいました。申し訳ございません。どのようなお叱りも謹んでお受け致します」


 記憶を失くす前のお嬢様でしたら、「私の言い付けを守れないなんて、本当に犬以下ね! そこになおりなさい、私自ら踏んであげるわ!」とおっしゃってくださいました。

 けれど……


「え? そうですか。美味しいので気にしていませんでした」


 とおっしゃったきり、今のお嬢様はそのままお茶を飲み続けられたのです。


 その時の私の感情は、筆舌に記し難いものでした。

 無理に言葉に置き換えるなら、それは衝撃だったのです。

 そしてそれは、喪失をも意味しました。私へ茶葉の言い付けをしたお嬢様はもういないのだと。私の唯一の理解者は、永遠に失われてしまったのだと。美味しそうにお茶を飲むお嬢様を見て、ようやく実感が湧いてきたのです。


 これは悲しみと言うのでしょう。寂しさと言うのでしょう。

 けれど人間以下の、犬以下の私は、泣くすべなど知りませんので、ただ立ち尽くすしか出来ませんでした。


「ケリーにとって、プエラフロイスはどんな方だったのですか?」


 お嬢様の口からこんな言葉を聞く日が来るなど思ってもいなかった私は、思いたくなかった私は、彼女に悟られないように静かに狼狽する他ございませんでした。


「プエラお嬢様は……」


 私にとってお嬢様は、恩人であり主人であり理解者であり、それから……


「世紀の悪女であらせられました」







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