第6話忘却の彼方で外出中
本日はなんと、私プエラフロイス、街に降り立っております。
お出掛けです。外出です。勉強地獄という名の軟禁からの解放です。
というのも昨日、誰よりも頼りになる我が師コン先生が、
「たまにはお猿さんにも息抜きが必要ですからね」
と、両親から外出許可書を捥ぎ取って来てくれたのです。私はそれを見た時、心の底から泣きそうになりました。
なぜならば私プエラフロイス、記憶喪失を負ってからというもの、両親からのお達しで「完璧な淑女になるまで遊ぶことは許さない。外出など以ての外」と言い付けられていたのです。つまるところ、向こう30年は外出禁止ということです。
え?なんで30年かって?
私の記憶の忘れやすさを舐めて貰っては困ります。勉強の過酷さに比べて進行具合は亀の歩み。未だ各科目は幼児編を終えていないのです。この進捗状況では、満了時にはお婆さんでしょう。30年でも早い方です。はい、短く見積もった自覚はございます。
それはともかく許可書です。今も大切に胸の下着に仕舞っております。
この国では一般的に、女性は胸に、男性は腹部に巻いた専用の布の中に大切な物を仕舞うそうです。大金を運ぶ時、先祖代々受け継がれる宝石や重要書類の保管などにも使われます。慣れるまで少し違和感がありますが、慣れると奇妙な安心感が胸を包んでくれる逸品なのです。
そしてこの許可書、なんと不思議な紙で出来ているのです!
一見するとどこにでもあるただの紙ですが、火でも炎でも焼くことは叶わず、水や油や硫酸とやらでも、紙へ一片の傷も付けられません。この紙に唯一刻めるのは専用のインクのみ。専用インクで書かれた文字は、何十年も何百年も色褪せることなく残るそうです。その為、当国の大事な書類は必ずこの紙が使われているとのこと。権利書や契約書、婚姻届や誓約書、歴史書など多岐に渡ります。勿論、汗にも滲まず臭いも付かないので、安心して下着に仕舞えます。
などと頭の中で昨日のコン先生の授業『幼児向け一般常識その3』をおさらいしていたら、馬車が目的の場所に到着いたしました。
本日の目的地、本屋です。
そうです。結局私は勉強から逃れられない運命なのであります。外出に浮かれていましたが、新たな教本を買いに来ただけです。あくまでも、ついでの息抜きなのです。地獄とは、終わりがないから地獄なのであります。私の勉強地獄は終わりなどないのです。
そうは言っても、せっかくの外出。可能な限り羽根を伸ばして置きたいところ。私は本屋に入るなり、うっかり本に目を奪われて、うっかりコン先生を見失い、うっかりはぐれてしまったのであります。ええ、うっかりです。わざとではございません。けして、自由を求めて逃げ出したわけではございません。けっして違いますからね、けっして。
訪れた本屋はこの国で一番大きな店とのことで、足下から天井まで、隅から隅まで本に埋め尽くされていました。色取り取りの背表紙がタイル細工のように壁一面に埋め尽くされ、読む者が来るのを静かに待っています。建物の中央から波紋のように並んだ本棚はまるで迷路のように張り巡り、迷い込んだ者を別の世界へ誘ってしまいそうです。
まんまと本の世界へ誘拐された私は、ぐるぐるとぶらぶらと当てもなく彷徨い歩きました。最初は本屋など勉強の延長戦だと嫌悪しておりましたが、こうして来てみると、ちょっとした冒険のようで少しわくわくしております。装丁が綺麗な本が多くあり、眺めているだけで飽きません。私は時間を忘れて本達を見て回りました。
ふと、とある本が目に留まったのです。それは一冊の画集でした。
深い紺の布地が敷かれた表面に、燻んだ金の縁取り。右上から中央まで大きく描かれた灰色の月と、それを両手で受け止めようとしてるかに見える小さく朧げな左下の人影。
その華やかさの無い表紙に、何故だか酷く心奪われた私は、食い入るように眺めました。
「それが気に入ったのですか?」
振り返ると、背後にコン先生が立っていました。
いつの間にいたのでしょうか。全然気付きませんでした。もしや先生は暗殺者という裏の職業をしているのでは? と疑わしいです。『この国のこと外国人向け初級編』によると、遥か昔から歴史の影に暗殺者と呼ばれる方々が動いているとのこと。今も尚、人知れず要人を暗殺しては国の行く末を左右させている職業だそうです。はい、まだ勉強中のため詳しくは知りません。
そんな感じに気配無く私の背後を取ったコン先生は、私の手から強引に本を奪って、勝手に中を読み始めました。
ちょっと先生、私もまだ見てないのに狡いですよ。
「……お猿さん。貴女、いくら勉学に嫌気が差したからと言って、わざわざ文字がない本を見つけなくても……」
「え? ち、違います! 誤解です! 表紙の絵が良いなってちょっと思ってただけです!」
「声が大きいですよ、お猿さん。本屋では静かになさい」
「申し訳ありません……」
恐らく今、私は苦虫を噛み潰したような顔をしているでしょう。鏡を見なくても分かります。
「それで、この表紙のどこが気に入ったのですか? 簡潔に説明してみなさい」
「……左下に描かれた人影が、落ちて来る月を受け止めようとしているところが幻想的で気に入りました」
「そうですか。……月から落ちたように見えるがな……」
「えっ?」
「何でもありません。行きますよ」
そう言い捨てるや、コン先生は踵を返してどんどんと進んで行くので、私も早足で追い掛けました。何だかぼそぼそと小さく言っていたように聞こえた気もしましたが、はぐれないように付いて行くのに必死で訊きそびれてしまいました。
付いて行った先はお会計でした。なんと、私が見入っていた画集をも買ってくださったのです。
どうしたのでしょうかコン先生。今日はやけに優しいです。こんなにも今日だけで私の中のコン先生への好感度が鰻登りになると、逆に怖くなって来ます。何か裏があるのでは、と怪しんでしまいます。もっとも、勉強時間になれば最高潮に高まった好感度も自然と急降下の急下落でマイナス5万点くらいになるので、どんなに平時に優しくされたところで私の中のコン先生への立ち位置は変わりないのですけれど。
綺麗な臙脂色の包装紙に包まれた本を差し出しながら、先生はこう指示なさいました。
「これを観て、少しは情緒を養いなさい」
「じょうちょ?」
「感情豊かになれ、という意味です」
「私、そんなに感情が希薄に見えますか?」
「少なくとも表情は乏しいですね。もっと差異を付けないと、これからの行儀作法の授業では苦労しますよお猿さん」
「笑えってことですか?」
「表情筋と心の機微を上手く使いこなせということです」
なるほど。私は笑顔も無ければ、空気も読めないと。……失礼過ぎませんか先生?
とは言え、記憶を喪失してから数日、一番身近にいる人間からの忠告ですので肝に命じて置きましょう。途轍もなく腹が立ちますが、忠言とは耳に痛いものだと『幼児向け一般常識その1』で習いましたので、いかに業腹でも受け入れて置きましょう。
「プエラ!」
本屋を出ると、見覚えの欠片もない男性が、手を振りながら走ってこちらへ向かって来ました。
図体は大きく、見るからに逞しい、それこそコン先生とは真逆の殿方です。
なんだか硬そうな服を纏っています。『この国のこと外国人向け初級編』の勉強で使用した教本の図説で見た鎧よりは軽そうですが、ナイフくらいでは傷付けられそうにない服です。一体何で出来ているのでしょうか? 記憶容量に余裕が出来たらコン先生に教えて貰いましょう。
「プエラ。会えなくて寂しかった。元気にしてた?」
現実から目を背けて思考の渦に身を投じて返答を放棄していた私へ、鎧の人はめげること無く、尚も話し掛けて来ます。
「ごめんね、寂しくさせて。でもこれからはずっと一緒だから。ずっと、永遠にね!」
「え、永遠?!」
「うん。だってずっと一緒にいるって誓ったじゃん」
永遠? ずっと一緒?
藪から棒に何を言い出しているんでしょうこの男!?
「ああ、そっか。プエラは記憶を失くしちゃったんだっけ? だから誓いも覚えてないのか。じゃあ仕方ないや」
私が何も言わなくても話が進んでいきます。
これを自己完結というのでしょうか? 後でコン先生に確認してみましょう。
「でも誓いは誓いだから! プエラの永遠は俺にちょーだい! ね! プエラ!」
ううぅ……何故こうも男の方の大声は攻撃力が高いのでしょう。私の心を一瞬で萎縮させてしまいます。
けれど、これ以上話をややこしくさせてはなりません。この鎧に似てるけれど鎧ではない何かを着た男の口を止めなければ!
「あの……一つお訊きしてもよろしいでしょうか?」
「なになに? なんでも訊いてよ!」
とても顔を近付けて来ます。この国の男性は、無駄に近付かないと話の一つも出来ないのでしょうか。いえ、コン先生はそんなに近くはないので、風習ではないのでしょう。
とにかく距離を、適正な適度な距離を取ってください!
「……私に婚約者がいるのはご存知ですか?」
「うん。もちろん知ってるよ。デュクス様だろ。それがどうかした?」
知っているのに「永遠」とか言っているようです。
「いえ……その……」
「プエラが誰と結婚しようと、永遠に離れることなく添い遂げるのは俺とだから、プエラが誰と結婚しようが気にしないよ!」
満面の笑みで言い切られました。
大いに気にしてほしいです。切実に。
「それよりさ、プエラの家に行きたい。ね、いいよね?」
良いわけがありません。私はこれから帰宅してからも、また勉強に次ぐ勉強があります。面識のない男性に構っている暇などないのです。
チラっとコン先生を見るも、どこ吹く風のようにまるで鎧の男に興味を示していません。視界にすら入れていません。そして何気に距離を取っていらっしゃいます。流石です。どんな時でも身長を気にしていらっしゃるのですね先生。
そもそもこの男の言う誓いとやらは何なのでしょう?
婚姻ではない永遠の誓いなど、果たして有効なのでしょうか? 勉強不足の私には分かり兼ねます。仮に合法だとしても、罷り間違って有効でないことを心より祈ります。
「……もしかして、疑ってる? 誓ったこと」
「え……」
バレてます。こちらの思考は筒抜けです。
コン先生曰く私は表情が乏しいはずなのに、何故に腹積もりを悟られてしまうのでしょうか? 修行でも足りないのでしょうか?
「ほら。これ見れば分かるよね!」
鎧男の腹部から出てきたのは、薄汚れた一枚の紙。
『永遠の誓いをここに記す。汝、エクエスはその生涯を騎士としてプエラフロイスに捧げるものとする』
そう、書かれておりました。
筆跡は、私のものではありません。ですがどことなく見覚えがあったのです。その特徴的な丸みを帯びた文字達は、確かにプエラフロイスその人の字に似ていました。記憶喪失初日に漁りまくったプエラの部屋にあった勉強用の紙や手紙の書き損じなどに書かれていた筆跡は、確かにこんな感じの、実に読みにくい丸文字でした。
「……あの……」
「これでも信じないの? 俺、プエラの為なら何だって出来るのに……」
「その……エクエスさん?」
「エグ! エグって呼んでよ! プエラは昔から俺をそう呼んでたから」
「では、エグさん」
「エグ! エグだってば!」
「……エグ」
「うん! なにプエラ?」
婚約者様といい、ケリーといい、この鎧男といい、やはり男性は注文が多いものなのですね。
それに加えて、元気が良すぎる声に、聞いてて疲労を感じます。
「エグはプエラフロイスの騎士だったのですか?」
「そうだよ! ずっと昔から俺はプエラの騎士!」
騎士。その単語は『この国のこと外国人向け初級編その1』で習った気がします。確か…
「プエラフロイス、騎士とは?」
我関せずを貫いていたくせに、耳聡くコン先生が遠くから出題して来ました。
「まさか、もう忘れた訳ではありませんよね?」
「……騎士とは……主人を守る者」
「間違いではありませんが、それだけでは正解とは言えません。正しくは、主君を絶対とし忠誠を誓い、その身に代えても護り抜くと誓った者、です。この国には古くから由緒正しい家系の者のみ持つことの許される、従僕とも言いますね」
「従僕……」
「復習が必要なようです。帰ったら量を増やしましょうか」
何と言うことでしょう。鎧男のせいで苦行がまた一つ増えてしまいました。恨みます。祟ります。地獄の底で合間見えましょう。
「……エグ」
「なに? プエラ?」
「私は貴方に憶えがありません。なのでいきなり騎士と言われても困ります。今のところ騎士に必要を感じていませんので、お引き取り願います」
自称騎士へ、恭しく深々と頭を下げました。
重苦しい沈黙が続きます。
「…………俺から離れるの……プエラ……」
弱々しい声に反応して頭を上げるや否や、エグの容赦のない手が私の右手首を捕まえ、尋常ではない力で握り込んできたのです。
痛いです! 痛すぎです! 手首から先がポロっと呆気なく千切れ落ちそうです!
エグの屈強そうな体格から推定される握力は80キロ強。りんごを握り潰すように、造作もなく私の手首を粉々に粉砕してくれそうです。
助けてください! 誰か!
「なんで……プエラは俺と一緒だって言ったのに……なんでいなくなろうとすんの……なんで……」
なんだか恐怖を煽る声まで聞こえてきますが、手首が引き千切れそうな私はそれどころではありません。
ここは仕方がありません。背に腹は変えられない、手首は何物にも変えられない。私は妥協をすることにしました。
「え、エグ、離してください。家に来ても良いので、まずは離してくださいお願いです!」
「ほんと!? やったー! ありがとープエラ! やっぱりプエラは俺のものだよね!」
手首への圧迫から解放されて一息吐く間も無く、今度はなんと、エグが私を抱き締めたのです!
身長差から、私は彼の胸板に顔を押し付けられています。胸板というか、鎧へと魚拓のように押し当てられています。金属製なのかとても冷たいです。そしてやはり痛いです。力が強過ぎです。加減というものを知らないのでしょうかこの男!?
「プエラフロイス。私は家で昼食を摂ってから戻りますので、復習の準備をしておくように」
薄情極まりない我が師は、適当な馬車を拾って早々に去って行きました。
さながら久方の再会を果たした恋人達のように公衆で抱き締め合う、馴染みもへったくれもない鎧男と愛弟子とも呼べる生徒の私を置き去りにして。
コン先生……貴方への好感度はマイナス5百億ですからね!
「さ、行こ! プエラ! どこまでも付いて行くからね!」
つい今し方まで私の手首を痛め付けていたとは思えぬほど、打って変わって奥床しく差し出された大きな手を、やむを得なく掴んだのは私は正に、力に屈した無力な腰抜けでした。
エグに導かれるままに憂鬱を隠すことなく重い足取りで我が家の馬車へ乗り込むと、私は勉強地獄への道程を戻って行ったのであります。
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