第5話忘却の彼方で眠りたい
空に月も星も無く、代わりに土砂降りの雨が空から降り注ぐ夜更け。
連日の厳しい勉強に弱音を吐くことも許されず、お嬢様のはずなのに優雅の欠片もなく這い蹲るようにコン先生の授業を受けていた私は、疲れ果てて泥のように寝ていました。
そんな私の部屋の窓ガラスが、奇妙なことに規則正しく3度鳴ったのです。
コンコンコン、と一定のリズムで鳴るそれに、一度目は眠っていて気付きませんでした。二度目は面倒臭くて無視しました。三度目には腹が立ってきて、四度目に重い体を起こして渋々と窓辺へ参ったのです。
外は相変わらずの土砂降り。窓の向こうには明らかなる人影。
眠気と気怠さで思考がままならない私は、一つの結論を出しました。
見なかったことにしよう。
私は何も見ていないし聞いていない。ただ夢遊病の気があり部屋をフラフラ歩いていただけで、別に音に導かれて窓に近寄った訳ではない。
そういうことにしましょう。
では寝直そうと、ベッドへ足を向けたその時、私の耳は恐ろしい音を拾いました。
「──やあ、こんばんは。美しいお嬢さん」
恐る恐る振り返ると、真っ暗な視界の中に、私ではない誰かの気配がありました。
鍵の掛かっていたはずの窓から、招いた覚えのない客が部屋へと滑り込んで来たようです。
「待たせちゃったかな? ごめんね、なかなか時間が取れなくってさ」
暗闇の中に響く声。
不法侵入者の目的など高が知れています。窃盗、強盗、強姦……とっても危機的な状況。
「どうしたの? びっくりしちゃった?」
おーい、と私の目の前で手らしきものを振ってみせる不審者の全体像が、闇の中でぼんやりと見えます。背丈はデュクス様と同じくらい。声も同じく若くて男。そして話し方はとても軽薄。
…どうしましょう。強姦の線が濃厚になってきました。
「あれ? 反応なし? まさか噂はほんとだったとか?」
果たして我が家の警備はどうなっているのでしょうか。易々と若造に侵入されるようじゃ、本職の方が来訪した日には金目の物を根こそぎ持って行かれちゃうかもしれません。
「あ、やっぱり覚えてない感じ? あちゃー、しくったなあ。初対面ならもっとカッコつければ良かったぜ」
警戒という名の沈黙を貫く私をどう勝手に解釈したのか、男は一度恭しく頭を下げてから、盛大に胡散臭いロマンティックな言葉を贈ってくださいました。
「改めまして、こんばんは美しいお嬢さん。今宵は月明かりに導かれ貴女の元へ舞い降りました。夜が目覚めてしまうまでの間、どうか私めと同じ時を過ごしていただけますか?」
「間に合ってます」
丁寧な仕草で片手を差し出してきた侵入者を、不信感全開に睨んだのは不可抗力です。
だってそうでしょう?
この大雨の中やってきて本人も濡れまくっているくせに、月明かりなんてある訳がない。水滴が床に垂れているのくらい、暗闇に慣れてきた目でも分かります。法螺を吹くのも大概にして欲しいです。
「ねえ、聞いてる?」
「……言いたいことはいくつもありますが、お仕事前に少しお話でもいかがでしょうか? けして逃げない、騒がない、抵抗しない、と約束いたしますので」
「話? いいね! 何を話そっか。あ、この前の続きにする? って、記憶が無いんだよね。まさか君に忘れられる日が来るなんて夢にも思ってなかったな〜」
はて? この前とはどの前でしょう?
こんな犯罪者の知り合いはいないはずですけれど。それとも、プエラはこんな危ない輩とも交流を持っていたのでしょうか。
危険な遊びが過ぎるんじゃないですか、記憶喪失前の私。付き合う相手はちゃんと選んだほうがいいですよ。とりあえず不法侵入なんかする友人はつくっちゃダメです。もっと危ない犯罪に巻き込まれてしまうのがオチです。危険です。
「我が家を狙ってくださったのは大変光栄ですが、金目の物は美術品くらいしか無い我が家ですし、捧げられるほど大層な体も持ち合わせておりませんので、隣のお宅にお邪魔したほうが建設的かと思いますよ」
隣の家ってどんな家でしたでしょうか。記憶を失くしてから今日まで部屋で勉強漬けの為、外に出ていない私はご近所の経済状況を把握しておりませんが、我が家と同等かそれ以上なことを切に願います。ごめんなさいお隣さん。
「う〜ん隣かあ〜。悪くはないけど、今夜は君がいいんだよね〜」
詰みました。ジ・エンドです。
さようなら純潔。あるいは命。
ああ、私に不思議な力の一つもあれば、こんな男一人やっつけられるというのに。
ああ、無念。ああ、無情。
「おーい。聞いてないよねー? ちょっとは俺の話聞こうよー」
「聞こえません。見てません。言いません。殺さないでください」
「だから何もしないって」
「見てません。聞こえません。言いません。犯さないでください」
「だから、しないってば!」
ああ、なんだか犯罪者が声を荒げてます。この声に応じてケリーあたりが駆け付けてくれないでしょうか。こんなことなら盗聴を許して受け入れてあげればよかったです。そうすれば泥棒なんか即刻お縄だったのに。ああ残念無念。
「いい加減聞いてくんない? 時間にも限りがあるし」
「こうして無駄に時間を食えば、物音と話し声で誰かが来てくれるかもしれないという淡い期待の表れです」
「あ、言っちゃうんだ。なるほどね〜」
おっと大変。命の危機の切羽詰まった緊張の余り、口がズルッと滑ってしまいました。
「でもその企みを口にしたってことは、少しは俺のこと信用してくれた?」
「いえ、全然です。信用とは対価を伴います。心の対価です。安心して欲しいのでしたら、それ相応の態度や条件が必要かと」
「ふ〜ん。例えば?」
「信用して欲しいのでしたら、貴方を一度拘束しないと無理ですね」
「あはは、いいよ。どーぞどーぞ」
そう笑うと、男は自ら手錠を押し付けてきたのです。
差し出される両手首。反射的に受け取ってしまった、私の手の中の冷たい金属の手錠。固まる思考回路。
……コン先生、なぜ泥棒が自らお縄に掛けられようとする場合の対処法を教えてくれていないのですか。恨みます。
「君がやらないなら、俺がやるけど?」
そう言うや否や、ガシャン、と、あっと言う間に私の両手には手錠が掛けられてしまいました。
ぎゃー!!
「あはは。ごめんごめん、うそうそ。捕まえたりなんかしないよ。どっちかって言うと、追い掛けられたい派だしね」
心の中で力一杯叫ぶ私を愉しんでるのか、男は悪びれのない笑い声を上げながら、鍵も使わずにいとも簡単に呆気なく手錠を解きました。
これって私がこの人に手錠を掛けたところで、易々と解除したということでは?
全くもって信用できない人物決定です。
「ねぇ確認なんだけど、本当に何も憶えてないんだよね?」
「……それが何か?」
「そっかあ〜そうなのかあ〜参ったなあ〜」
「ですから、何がですか?」
なぜでしょうか。この方の話し方が無性に腹が立ちます。コン先生の超絶上から目線口調のほうがまだマシです。慣れの問題かもしれませんけれど。
「うん。君をお姫様にしようと思ってたんだけど、何も憶えてないなら難しいかなって思ってさ」
「お姫様?」
「そっ。俺だけのお姫様」
見えなくても分かります。きっと世の中の夢見る少女達なら泣いて喜ぶような笑みを浮かべているのでしょう。
私はと言えば、男の語尾の弾み具合にぞわっと、背筋が凍り付きました。
「なーんってね。うそうそ。一度言ってみたかったんだよね〜このセリフ」
「……大声出しますよ」
「ああごめんごめん、怒らないでってば」
私が本気で叫べば、地獄耳のケリーくらい呼び寄せられるんですからね!
罪悪感というものを標準し忘れている男を鼻息荒く一睨みしましたが、暗闇のせいなのか効果のほどが今一つ伝わってきません。
とりあえず命は奪われないと安心した私の体は溜まった疲労を一気に思い出すと、相手から距離を取る為もあり、ふらふらと拙い足取りでベッドの上に腰を下ろしました。
疲れました。とても疲れました。この人と話すと異常な疲労を感じます。
「……お嬢さん」
「なんでしょうか?」
「男と部屋で二人きりの時にベッドに座ってはいけませんって、先生に習わなかった?」
「生憎、一般常識の勉強は初級その2で止まっています」
「ふ〜ん? じゃあ覚えていたほうがいいよ」
「何をですか?」
「男の前でベッドに座ると、こうなっちゃうってさ」
次の瞬間、私の視界は闇に覆われました。
両手首に湿っぽい、生温かい感触。
顔に掛かる誰かの吐息。
押し倒されております。ベッドの上に、体を押し付けられています。
これはまさかの強姦ですか?!
清い身体を汚されてしまうというのですか!?
「……ねぇ……ほんとに見覚えない……この顔……?」
暗闇に大分慣れた瞳に映ったのは、至近距離の見知らぬ美しい青年。
その顔が、悲しげに歪んでいるのくらいは、闇の中でもはっきりと浮かんで見えました。
「……その反応、ほんとに憶えてないんだね」
「……はい……すみません……」
あまりにも痛々しい表情をつくるので、襲われているという事実を忘れて私は自然と謝っていました。悪いなんて微塵も思っていないのに、口だけの謝罪を述べていたのです。
これでは、この犯罪者と同類ですね。犯している罪の重さを感じられないのですから。
「そっか……じゃあまっ、しょーがないか」
笑っているような泣いているような、どちらにも取れる表情をつくると、男は掴んでいた手首を離して私の上から身を起こしました。
その際、あり得ない場所に、あり得ない触感がありました。
鼻先に、覚えのある感触が当たったのです。
鼻の天辺に、キスされたのです。
「なっ……なっ……」
「男の前でベッドに座るとそうなるんだよ。勉強になったでしょ?」
何してくれさってるんですかこの不届き者は!?
頬にされた忌まわしい記憶も蘇って、頭の中はもうぐちゃぐちゃでした。
そんな私を置き去りにして、闖入者はとっくに窓辺に逃げ果せていました。
「また来るね、眠りの森のお姫様。次の目覚めはどうか我が口付けで……なーんってね!」
男は先程までのしおらしい態度など台風で吹っ飛ばしたように明るい声音でふざけたことを吐いて去って行きました。
なすすべのない私は、当初の結論を思い出しました。
見なかったことにしよう。
私はベッドに入って眠りに就きました。
「お嬢様、おはようございます」
カーテンの隙間から目映い太陽の光が差し込める朝。
重い瞼を上げると、視界一杯にケリーの顔がありました。
ぎゃー!!
毎朝のことながらこれには慣れません。起こしに来てくれるのは大変有り難いですけれど、毎回顔を近付けなくて良いと思うのです。悪夢を思い出しちゃうじゃないですか。婚約者からされたあの忌まわしい悪夢を。
その時、私は最新の悪夢をも思い出したのです。昨夜の不法侵入。あれは夢か現実か。
一縷の望み持ってベッドから出て、窓辺をチラリと確認しました。
窓辺の床も絨毯も濡れていなければ染み一つ見当たりません。
あれはもしや悪い夢だったのでしょうか。
「……ケリー」
「はい。お嬢様」
「今朝私が起きる前に掃除などしましたか?」
「はい。汚れていたので改めました」
現実でした。淡い夢は儚く散ったのです。
「……もしかして、昨晩のことをご存知ですか?」
「はい。お嬢様のことで知らぬことはございません」
「…………」
また聞きたくもない恐ろしい言葉まで聞いてしまいました。
「ということは、ケリーはあの人と知り合いですか?」
「いえ。存じません」
「自分で言うのも何ですが、女性の部屋に知らない男性が窓から来るのは遠慮したいのですが」
遠慮どころか即刻お縄を頂戴したいです。
無論、共犯者も同罪です。ケリー、貴方もです。
「以前お嬢様から、あの者は通せとの命がありましたので、家の者は全て承知しております。あの者以外はお嬢様のお目に触れる前に排除致しますのでご安心ください」
私はそんな命令を出した覚えはありません。
つまり、記憶を無くす前のプエラフロイスがあの男を黙認しろと命じたということ。
だから付き合う相手は選んでくださいプエラさん!
そしてケリーは白でした。疑ってましたすみません。
「お命じくだされば、次回からあの者も排除対象に致しますが」
「……いえ。このままで構いません」
仕返しをするのなら自らの手で。知らぬ内にやっつけられては私の気が済みません。
覚えていなさい不届き男。いえ、忘れないでくださいよ私。受けた屈辱を。奪われた睡眠時間を。
そうは言ってもやっぱり忘れっぽい私は、午前のコン先生の地獄の授業を受けた後にはすっかり怒りも屈辱とやらも忘れ去っていたのでした。
欲しいです、記憶力。切実に。
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