第4話いつかの彼女と フラン




 実の親に売られた僕は、世界で一番不幸なのだと信じていた。

 その不幸が揺らいだのは、あいつに関わってからだ。



 新しい家へと向かう馬車の中。窓から覗いた空はどこまでも青くて、澄んでいて。

 僕の心とは正反対のキレイさに、心の中で唾を吐いた。

 こんなにもキレイな世界で、なんで僕だけが惨めなんだと。


 3歳で畑に出て、4歳で隣村まで水を汲みに行き、5歳でこの身を売られた。表向きには養子に出されたらしいけど、対価が金なら売られたことに変わりない。

 親というのは子供を骨になるまでこき使うもので、子はそんな親に内心中指立てながらも従うしかないもので。そんな理不尽を舐めてながら生きるもんだと思っていたし、それ以外の生き方を知らなかった。

 だから、新しい家に来ても同じように生きるもんだと思ってた。


 新しい家に着くと、新しい服と部屋、それから名前を与えられた。

 フラン。

 という、まるで女みたいな名前で、早速僕は名付けた新たな父へと心の中で中指を立てた。どうせなら、呼ばれるのはもっと良い名がよかった。



「まあフラン。こんな所でどうしたの?」


 新しい家で新しくできた、姉という続柄の女がやって来た。

 前の家では女の子供はすぐに奉公という名の売りに出されていたから、女の家族は初めてで。ボロを出してまた売りに出されないようにと日々それなりに努力をしていた僕は、なるべくこの女に関わらないようにしていた。


 それに、できれば顔を見たくなかった。

 この女にこそ、僕は唾を吐きかけてやりたかったから。

 なぜって、この女は、あの日見た空のような奴だからだ。


「構うな。あっち行け」


 勉強時間を終えた夕方は、数少ない自由時間。僕が良い子を演じなくて済む時間だ。

 売られて来た僕は、将来的にこの家を継ぐ人間へと成長しなければならない。そう養父に指示されている。その命令通り、日夜良い子に振る舞い勉学に励んでいるし、体を鍛えてもいる。問題を起こさない限りは予定通り、成人と共にこの家を継げるだろう。

 そう、問題だ。それを起こしてはならないという重圧に、たまに頭が狂いそうになる。

 問題を起こしてはならない。間違いを犯してはならない。

 その言葉が、重さを持ってのし掛かってくるんだ。


 その見えない圧力から逃げるように、自由時間は一人で過ごしていた。屋根裏部屋、庭小屋、図書室の奥。

 そして、今日は家の裏の苗木と塀の合間。

 今まで一度も誰にも見つからなかったし、見られたとしても誰も声を掛けてなんか来なかったのに、今日はなぜだか見つかった上に声まで掛けられた。

 唾を吐きかけたいほど、キレイな奴なんかに。


「ねぇ、聞いているの?」

「…………」

「ねぇってば!」


 服の裾を掴まれて、反射的に手を払った。

 触られたくなかった。この女がキレイ過ぎて気味が悪かったから。


 雲一つない日の空と同じ色の眼。

 家の端々に置かれた美術品と同じ、彫刻のような肌。

 甘く瑞々しい果物と同じ色とツヤの唇。


 その全てがキレイ過ぎて、僕の心の内側は騒ついて仕方がない。


「ねぇ、フラ」

「僕はフランなんかじゃない! その名で呼ぶな!」


 その声を聞くだけ、名を呼ばれるだけで、どうしようもなくイラついて。自分でも驚くほど大きな声を出していた。

 こんなに大声を出したのは初めてだった。


「あら。貴方はフランだわ。お父様がそうお決めになったのだから」

「……こんな女みたいな名前……」


 関わりたくないのに、なぜだか僕の口は本音を漏らしていた。

 この女に弱音を聞かせたからって、何も変わらないのは分かってるはずなのに。


「女みたいだから嫌なの?」

「……大人達が、名乗る度に可愛い名前ねって言う……男なのに……」


 俯いた視界には地面と靴の茶色、それから落ちた緑の葉だけが映る。その端に、白い繊細なレースが縫い付けられた赤いドレスの裾が見えた。

 自然と、僕の喉は唾を飲み込んだ。


「まあ貴方、自分が可愛いと思っているの?」

「え?」

「ここに世界一可愛い美少女がいるのに、見た目も可愛ければ名前の響きも可愛いプエラフロイスがいるのに、自分のほうが可愛いと悩んでいるわけ? とんだ傲慢! とんだ勘違いだわ!」

「はあ?」


 いきなり何を言い出してんだこいつ!?


「あら、違うのかしら。わたしより可愛いと自惚れているんでしょう?」

「そんなわけあるか!」

「あらあら。わたしのほうが可愛いと認めるのね。当然だけど」


 確かに不覚にも初めて会った時は見惚れ…たかもしれない。

 生まれてから見たどの人間よりもキレイで、キレイ過ぎてまじまじと見過ぎたのは認める。認めるけど、だからどうした。


「こんなに可愛い少女が隣にいるのに、可愛さで悩むなんて時間の無駄よ。だってわたしのほうが可愛い訳だから」


 何を言っているんだこの女は?

 開いた口が塞がらなくなったのも生まれて初めてで、僕は生まれて初めて立ち尽くした。


「誰かに可愛いと言われたらわたしを思い出しなさい。わたしの可愛さを思い出せば、自分が真に可愛い訳ではないと思い出せるでしょう」


 そういう問題じゃない。

 そう言ってやりたいのに、何故だがその時の僕は、こう言っていた。


「……たしかに、あんたは僕より可愛い」

「そうでしょうとも」

「名前は僕のほうが可愛いけどね」

「なんですって! フランよりプエラのほうが可愛いわ! プ、よ。プ! 世界で一番可愛い音はプ!」


 プププーっ!!

 と、キレイな見た目のくせにバカみたいに鳴くこの女を見てたら、なんだか少しだけ気が楽になった。

 こんなキレイな奴でも中身がバカで残念なら、見た目がキレイじゃない僕の中身が優秀になったほうが、きっと最終的には勝てる。そう思ったら、背中にのし掛かっていた重みが軽くなったような気になった。

 キレイなバカより、キレイじゃない秀才のほうが良いだろ。


 初めてばかりを体験したその日、僕はそんなことを思ったんだ。





 なのに、こいつは誰だ?



 あの自信に満ち満ちた、ムカつくほど完璧なまでにキレイな女は、どこに行ったんだ?



 頭を打って倒れた日から、プエラは変わってしまった。変わり果ててしまった。


 僕の視界に入れると縮こまって逃げる。

 目線が合っても逸らされる。

 触ろうとすると避ける。

 掴まえたら離れようとする。

 笑いもしない。

 笑ってもぎこちない。

 怯えたような目でこっちを見る。

 話しかけても上の空。

 呼びかけると震え上がる。


 こんな奴じゃなかった。こんな、こんなに僕を全身で拒絶するような奴じゃなかった。


 あの思い出の日以来、毎日一緒にご飯を食べて、一緒に笑って、一緒に学んで、一緒の時を過ごしてきた。それなのに、プエラは変わってしまった。いきなり、突然に、何の合図も挨拶もなく、僕の義姉だったはずの女は、別の何かに変わってしまった。


 見た目はあの日と同じキレイなままで、中身がすっかり変わったこいつを、プエラだなんて認めない。


 認めてなんかやるもんか。




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