第3話忘却の彼方で忘れます
「どうやらお猿さんには、復習という言葉から教えないといけなかったようですね」
「すみません……」
お金持ちの贅を尽くしたお昼を食べ終わって一息吐いていたら、目くじらを立てた小さな巨人が戻っていらっしゃいました。
怒ってます。カンカンのようです。心なしか額に青筋が見えるような気もします。
けれど言い訳をするならば、全てはあの無礼千万な婚約者様が悪いのです。
口にするのも悍ましいあんなことをされたら、誰だって数時間は放心状態になって然るべきなのです。勉強どころではないのです。そうです、けしてそれを理由に怠けていたわけではございません。ええ、けして違います。けっして。
「では復習から先にしましょう。昨日習ったことは何かくらいは覚えていますか?」
「幼児向け挨拶初級その1。食事のマナー初級編。幼児向け一般常識初級その1。この国のこと外国人向け初級編……」
「それだけですか?」
「…………」
「まったく……本当に貴女はお猿さんですね」
面目次第もございません。
ですがこれまた言い訳をさせていただくと、昨日もいろいろあったのです。勉強どころではなかったのです。頭の容量が追い付かなかったのです。
では、その一部始終をご覧ください。
「おはようございますプエ……姉様。今日も変わらず麗しいですね」
怒涛の初日から一夜明けると、激昂少年がその本質に反した爽やかな笑顔を振りまいて近寄ってきました。
ああ逃げたい。今すぐ回れ右をして早足で自室に避難したいです。
けれど記憶が無くてもお腹は空くもので、空腹に勝てぬ私はこうして義弟と遭遇する可能性しかない朝食の席へまんまとやって参りました。
そんな私の心境など知る努力をする気もないのか、義弟フランはわざわざ椅子を引いて席を勧めてきました。フランの真向かいの席を。
とってもお断りしたかったのですが、断る理由を見つけられず、やむを得ず勧められた席に腰を下ろします。
「プエ……姉様、体調はいかがですか? 昨日は無理をさせてしまったみたいで…その……」
なんだかフランがぼそぼそと小さな声で言っていましたが、その時の私はそれどころではありませんでした。
なぜならば、目の前のテーブルには、大量のフォークとスプーンとナイフが並んでいたのです!
いえ、大量と言っても3本ずつでしたが、私には無数の数に見えたのです。だって多過ぎじゃないですか。一本ずつで事足りるじゃないですか。
「あの時は……思わず声を荒げてしまいましたが、それもこれも全てあの変態ストーカーのせいです。あいつからプエ……姉様を守る為に致し方なくああなってしまっただけで、僕は本来はプエ……姉様の為に日夜……」
とか何とかを、うんたらかんたら言っているフランをよそに、私は滝のように流れそうな冷や汗を必至に抑えてフォーク達を見つめていました。
どうしましょう……記憶が無いから多少の粗相をしても許されるでしょうか。
幸いにしてこの朝食の席にはフランしか居ません。両親は別室で食べるそうなのです。なので、粗相をしたとしても目撃者はフランのみ。この際フランにどう思われようと何の痛みにもならないので、適当に使うことにしましょうか。
あ。ケリーさんもいました。後ろに控えてます。激動の初日から今まで、就寝と勉強の時間以外は常に後ろに控えてます。多少の煩わしさは、美味しいお茶を出してくれることで、プラマイゼロの帳消しです。
ケリーさんに軽蔑されるのは少し気が引けます。美味しいお茶を入れてくれなくなったら困るのです。
この時の私はケリーの犯行を知らないので悩みました。美味しいお茶を取るか、恥を取るか。
けれど、こちらには記憶喪失という揺るがない確固たる大義名分がございます。よって、マナーなんておととい来やがれにしましょう! そうしましょう!
「──プエ……姉様。それは手で食べて良いんですよ」
パンをナイフとフォークでおじおじと切り刻む私へ、義弟は優しく教えてくれました。一応姉である私は、幾ばくかの羞恥を覚えます。
けれど我慢です。私は記憶喪失! 知らないのだから仕方ないのです!
「プエ……姉様、そのスプーンはスイーツ用です」
「…………」
「そのフォークはメイン料理用。そっちはサラダ用。違う、そっちじゃない。そっちはスイーツのフォークだって。だからそれはメイン用! 人の話聞いてる!? なんでこんなことも解らないんだよ! プエラの、姉様のくせに……!」
ガシャン、と握り拳で叩かれたテーブル。震動で零れたグラスの水が、白いクロスに染みをつくって広げていきます。
叩いた勢いのままに椅子まで倒して立ち上がっていたフランは、すぐにバツが悪そうな顔で俯きました。すかさず給仕の女性が椅子を元に戻しています。
「……すみません……熱を持ち過ぎたみたいで、その、姉様に怒ってるわけではなくて、僕自身に怒ったというか……。プエラは……姉様は悪くないから、気にしないで欲しいと言うか……」
「あの……」
「え? なに? プエ……姉様」
「呼びやすいように呼んでいただいて良いですよ」
いい加減、「プエ……姉様」と呼ばれるのに辟易してきたのでこう言ったのですが、フランは複雑な表情つくりました。
あれ? 貴方も言い辛そうにしていたじゃないですか。もっと喜んでもいいんですよ?
「──プエラは、僕と血が繋がって無いんだ」
「はい。存じております」
記憶喪失になってからすぐに、家族構成はケリーさんが教えてくれました。
「この家を継ぐ為に男児が必要だったみたいで、遠い親戚から貰われてきたんだけど、なかなか家に馴染めなくて……。そんな時、プエラが声を掛けてくれて、ご飯も一緒に食べてくれて……僕はプエラを慕うようになったんだ……」
どうやら仲がよろしい姉弟だったようですね。
「一人の女性として、慕っていたんだ」
間違いました。姉と弟以上だったようです。
姉と弟……禁断の愛とやらですか。血は繋がってないから問題はないかもしれませんけれど。
「けど……プエラには婚約者がいて……でも諦められなくて……そんな中、プエラは事故にあっちゃって……」
なるほど。微妙な関係だったのに、更に微妙になってしまったのですね。罪深いです、記憶喪失。
「だから……だから、あんたはプエラじゃない! 義姉であっても、僕が好きだったプエラじゃないからな!」
そう叫ぶとフランは椅子を張っ倒し、走って部屋を出て行きました。
呆然とする私。
「お嬢様。朝食の続きはいかが致しますか」
「……もうお腹いっぱいです……」
胃は空腹を訴えて鳴いていましたが、胸が詰まって食べられる気がしませんでした。
騒がしい朝食を終えると、来客対応の時間が待っていました。
一言で言えば、地獄でした。
ええ、あれはもう地獄と言って差し支えはありません。
夥しい数の来客に次ぐ来客。途切れることの無いお見舞いの品々。終わりの見えない労りの言葉達。右から左へと続く来訪者へ、微笑みを返さなければならない苦行。
正に地獄でありました。
都合の良いことに、私の引き攣った笑みは、病み上がりのか弱さを演出してくれたらしく、皆々様一様に温かいお言葉を贈ってくださりました。それだけが救いです。
「やあ、プエラ。会いたかったよ」
最後に婚約者らしい、昨日チラッと見た男性がいらっしゃいました。
ケリーに言われた心算というものが頭を掠めましたが、その頃には疲労困憊、瀕死寸前、笑みをつくれていたかも自信がないほど意識が朦朧としておりました。
その為、婚約者様が紡ぐどうでもいいオチも山もない話に、うつらうつらと舟を漕ぐように適当に相槌を打って時を過ごしました。
そう、私はまだ知りませんでした。
本当の地獄はここからだったのです。
午後になり、担当教師がやって来ました。
「初めまして……ではないが、記憶が無いらしいから初めましてでいいだろう。これからお前を……いや貴女を、猿から真人間に指導するよう任された、貴女の教師です。堅苦しいのは苦手ですが、学問の他に行儀作法も教え込めと命じられていますので、そのつもりで言葉遣いから所作まで色々うるさく指示しますので従うように。出来ない場合は、出来るまで付き合いますので安心なさい」
そうしてやってきた先生は、夜が更けるまでご指導ご鞭撻くださいました。
「とりあえずこの紙に知っている文字を書きなさい」
「それは文字ですか? 独創的な絵を描き出しているのかと」
「知っている単語を何でもいいから50個書いて、その意味を説明なさい」
「それが説明ですか? 幼児でももう少し上手く話せますよ」
「貴女のことは猿だと思うことにしました。そのほうが互いの精神の為でしょう」
他にもいろいろ言われましたが、前述の通り猿とか猿とか猿とか猿とか言われまくりました。
それでも私は泣きべそだけはかくまいと、歯を食いしばって紙に憶えてることと習ったことを只管綴っていきました。
ですが厳しい勉強はとどまるところを知りません。
そして極め付けがこれです。
「人間というものは記憶を頼りに生きていて、記憶がないと知識も無ければマナーも無く、知能も無くなり動物と同等になるのだな。猿もいいところだ。これでは知らぬことを調べるよりも、知っていることを洗った方が早そうだ」
これは私へ向けてというよりは、思わず零れてしまった言葉らしく、言い終えた後の先生は深い深い溜め息を吐かれました。
そうです。私はこれに傷付いたのです。だから思い出したくなくて、復習ができなかったのです。
以上。冒頭に戻ります。
「ではお猿さん復習です。食事で気をつけることは何ですか?」
「未婚の男性と同席しない」
「なぜそれを一番に挙げるのか、頭が痛くなりますが……。その答えは少し違います。正しくは、最も親しい者とのみ食事を共にする、です」
この国の習わしでは、どんなに親しい友人であれ、それが家族であっても、最も親しい者としか食事を摂らないそうなのです。
この風習のせいなのか、両親とすらに食卓を囲んだことがないのです。
そしてお気付きかもしれませんが、私にとってこの風習は由々しき問題なのであります。
なぜならば、私は義弟フランと朝食を共に摂ってしまったのです!
これは謂わば、この国では同衾したも同義なのです!
なんということでしょう。パンを切り刻んだだけで、フォークとナイフとスプーンの使い方をあれこれ言われただけで、私はもう清らかな乙女ではないそうなのです。
この事実を、怖くてコン先生にも未だに確認できませんでした。知らなかったから帳消しにならないかと、聞きたくても聞けません。だってもしも話して公にされ、責任を取れとなり、あれよあれよと結婚という話にまで転がってしまったら目も当てられないのです。
運が良いのか悪いのか、あの「お前は僕のプエラじゃない」事件以来、フランとは顔を合わせていません。が、次に会ったらどんな顔をすれば良いのでしょう。
げに恐ろしきは、無知なり。
「まあ最近では多少緩和されて、親友と呼べる間柄の者と食事をする者もいるようですが」
「本当ですか!?」
思わずと、身を乗り出して先生の言葉に食らい付きました。
「貴女、さては誰かと食事をしましたね?」
「…………」
「本当に、どこまでも貴女はお猿さんなのですね」
返す言葉もございません。
そしてこれまた猿と断定されました。
ここまでくると、もはや猿と言いたいだけなのでは? と勘繰ってしまいます。
「……コン先生」
「なんですかお猿さん」
「もしかして、猿好きですか?」
話を逸らすべく口にした質問でしたが、これが思いの外効果がありました。
コン先生が、私に背を向けたのです。
昨日から今日まで、椅子に座って相対的に高さが低くなった私を愉しげに見下ろしていたコン先生が、ケリーがお茶を入れに来る時以外は片時も離れず上から悠々と見下ろし見下すコン先生が、私に背を向けたのです。
これはファインプレーではないでしょうか私。一矢報いたのではないでしょうか私。
「……猿は好きですよ。けれど、猿よりも何よりも、記憶を失くす前のプエラフロイスのほうが好ましかった」
振り向いたその眼差しが、今まで見たどのそれよりも柔らかで、愛しげで。
私の口の端は反射的に引き攣りました。
「なんて顔してるんです。まるで猿のようですよ」
「……こ……コン先生がいきなり爆弾を投下するのが悪いのです」
「悪いかどうかはともかく、冗談ですから聞き流すように」
「……冗談?」
「ええ。猿は好きでも嫌いでもありません」
そう言い捨てて、この話題は終わりました。
続く容赦のない勉強の嵐に、私はこの問答をすっかり忘れてしまいました。あの時の先生の顔の記憶も、常の氷河よりも冷たい目付きにより薄らいでいきました。
悲しいかな。覚えた先から忘れるのが、私の現在の唯一無二の特技なのであります。
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