第2話忘却の彼方で悔しがる

 



 改めまして、プエラフロイスでございます。


 記憶を無くしてから、早2日が経ちました。

 あっという間の2日でした。詳しく言えば、私が記憶をどの程度失くしていて、どの程度のことまで覚えていて、どの程度のことができるのか、ということを事細かに洗いざらい試して調べて書き連ねていたら一日経っていたのです。そして驚くべきことに、まだ調べ終えておりません。



「人間というものは記憶を頼りに生きていて、記憶がないと知識も無ければマナーも無く、知能も無くなり動物と同等になるのだな。猿もいいところだ。これでは知らぬことを調べるよりも、知っていることを洗った方が早そうだ」


 私を猿と同等だと言ったその人、私のことを調べてくれている私専属の教師、コンシリアトル先生の有難いお言葉です。

 無表情で淡々と、私のことを獣畜生だと宣った方です。

 ええ、根に持っています。記憶もなく所在もなく心細さ満載の少女に掛ける言葉がそれですか? 酷過ぎです。一生忘れません。

 お返しに私はコンシリアトル先生を、コン先生と呼んでいます。コンコンって響きが何だかどことなく動物の鳴き声みたいでしょう? 可愛いですよね。成人男性への呼び名にしては可愛すぎるくらいですよね。…子供染みた行いだとは重々承知です。


「──お猿さん。間違えました、プエラさん。聞いていますか?」

「すみません聞いていませんでした。コン先生」


 また私を猿とほざきやがりましたコン先生は、厚く重そうな本を片手にこちらを睨んでらっしゃいます。とっても冷たい絶対零度の眼差しですが、2日も見れば慣れるもので、最早怖くはありません。


「ではもう一度説明して差し上げましょう。次聞き逃したら、今後は猿と呼びますから」

「それは猿に失礼ではありませんか?」

「そう思うのなら何度も言わせないでください」


 謙遜したら、言外に猿以下だと言われました。悔しいです。

 けれどそれも仕方がないのです。私の頭は悲しいことに、どうやらあまり良くはないようで、時間を掛けてやっと覚えたことも、時間が経つとすっぽり忘れてしまうのです。

 私はこれを記憶喪失の後遺症だと断言しましたが、コン先生と我が両親は、元々の頭の出来の問題だと結論付けました。納得がいきません。不条理この上ありません。

 とは言え、物覚えが悪い私は、今日も朝からこうしてコン先生の個人授業を受けています。


「お猿さん、貴女聞いていませんでしたね?」

「はい……考えごとをしてました」

「記憶が無いのに考えることも何も無いでしょう? その耳が飾りでないと、いつになったら私に証明してくれるのですか?」

「すみません……」

「まったく、貴女は本当に猿ですね」


 先生は呆れながらも大いに愉しげに笑いました。悔しいです。


「お猿さん、よく聞きなさい。今後貴女もお茶会に呼ばれる機会があるでしょう。お茶会は分かりますか?」

「知りません」

「そうですか。お茶会とは社交の場です。社交は分かりますか?」

「しゃこう……遮光……車高……」

「社交とは人脈を広げる場です。人脈は分かりますか?」

「人と人とを繋げるもの……?」

「まあそうですね。詳しくは、主義主張や利害を同じくする者の繋がりです。分かりますか?」

「仕事や趣味や政治……?」

「そうです。解ってるじゃないですかお猿さん」

「猿じゃありません」

「お茶会はお茶を飲むだけでは済まないということです」

「………」


 どうあっても私を猿と呼びたいようです。これはもう戦争です。賽は投げられたのです。


「貴女の知識は曖昧のようですから、ここでしっかりマナーを覚えておかないと、お茶会で泣きを見るということです」

「泣かされるのですか?」

「ええ。特に女性は怖い生き物ですから、異端なものには敏感に反応します」

「異端……」

「お茶会に猿が混じっていたら総攻撃で袋叩きということです」


 何それ怖い。お茶を飲みながら血を見るということ?

 そして何気に猿は決定事項なのですね。


「先生、どうすれば猿だと見破られずにことを済ませられますか?」

「良い質問です。猿だと悟られない為には、人間になりきるのです。木を隠すなら森の中と言います。猿を隠すなら人間の中です」


 なるほど。元から木がいっぱいある場所に木を隠せば見つかりにくいから、人間がいっぱいいる場所に猿を隠せば……って、問題の解決になっていませんけど!?

 異端の私は血祭られろと?!


「その顔は察しましたね? どうやら本当のお猿さんではないようで安心しました」


 ……なぜ今、私の手に水が満杯に入った桶が無いのでしょう。あったならきっと偶然うっかりコン先生目掛けてズッコケる自信があるというのに。馬鹿にしすぎですよこの性悪教師。


 その時、ノックの音が4回鳴りました。

 これは来客を報せる合図。

 ちなみにノック3回が家族や親しい間柄の方がいらっしゃった時、ノック2回は従者のケリーさんが用事で入って来る時。と言っても、この回数はあくまでもケリーさんがノックをした場合の目安であって、他の人がノックをした時は回数がバラバラなのだそうです。


「やあ、プエラ。元気だったかい?」


 我が婚約者であるデュクス様が、笑顔を振りまいていらっしゃいました。

 記憶を喪失してから連日、デュクス様は飽きずに来訪なさいます。


 正直、邪魔です。私はそれどころではないのです。

 コン先生とこうして一つ一つのことを少しずつ覚えていくのに必死で、誰かと語らう余裕など無いのです。死活問題なのです。

 それなのに婚約者様はいらっしゃってはどうでも良いこと話してきます。実の無い話を、さも楽しげに語らっては笑うのです。邪魔です。


 今日も今日とて、きっとどうでも良い話を語らいにいらっしゃったのでしょうデュクス様に、仕方なく席を勧めます。


 その時、コン先生がデュクス様から距離を取ったのを私は見逃しませんでした。

 コン先生は男性の中ではかなり小柄の部類らしく、私とそんなに身長が変わりません。その為、他の男性と肩を並べるのを極力避けていることを私は知っています。ええ、知っていますとも。

 なぜなら、従者のケリーさんが休憩のお茶を持って来る度にわざと窓辺へ寄って天気を確認するフリをするのです。なんと小賢しい。いえ、なんと愛らしいのでしょうコン先生。私は水を得た時の魚のように悪どい笑みを浮かべました。


「コン先生もこちらへどうぞ。休憩してお茶を飲みましょう?」

「いえ。私は一度お暇します。また昼過ぎに来ますので、復習をしておきなさい」


 そう言うと、先生はさっさと帰ってしまいました。デュクス様の隣に座らせて、からかってやろうかと思ったのに失敗です。


「随分と親しそうだね」


 隣から、冷えた声が聞こえました。

 

「そして楽しそうだ」


 尚も寒々しい声音が降り掛かります。まるで氷の上に立たされながら、氷柱で全身を隈無く刺されている気分です。なんだか部屋の温度も急降下。あれ? 今って冬でしたっけ?


「君のあんな顔、見たことが無かったから、すごく驚いたよ」


 …これはどう解釈しても、責められています。なぜだが知りませんが、婚約者が笑顔のまま私を責め立てます。

 ここは弁明しなくては。というか、私は何か悪いことをしたのでしょうか?


「デュクス様、私は……」

「わたくし」

「え?」

「君は自分を“わたくし”って言っていたよ」


 それまで笑みを湛えていたはずの顔から一切の表情を消して、彼はもう一度言いました。


「プエラは、わたくしって言ってたんだ。だから君もそうしてくれないかい?」

「は……はい……」

「よかった。それから声だけど、もっと柔らかく出せないかな? ちょっとサバサバし過ぎてるんだ。優しさ……いや慈愛を込めて話して」


 じあい? 慈愛って込められるものなのですか?

 記憶のない私には難し過ぎて頭を抱えそうになりましたが、デュクス様は許してくださいません。


「ほら、こっちを見て。プエラはいつだって私を真っ直ぐ見つめて微笑んでくれたよ。君もほら、私を見て」


 注文の多い婚約者は、戸惑う私の顎を指先で捕まえ無理やり視線を合わせようとなさいました。

 強引なやり方に恐れと怯えと反感を抱いたまま、私は必死に目を泳がせます。今、至近距離でデュクス様の顔を見る度胸は持ち合わせていないのです。怖い!


「何でそんな目をするんだい? あいつか? あいつがいるから君は……」


 怒りの滲んだような声が、私の耳を攻め立てます。怖い。誰でもいいから、この重苦しい空気を打破してください。この際手汗が酷いフランでも文句は言わないですから!


 その時、ノックの音が2回部屋に響きました。


「失礼致します。お茶をお持ち致しました」


 救世主、ケリーさんのご登場です。

 やったー! と、両手を挙げて喜びを表現したい衝動に駆られましたが、顎を掴まれている手前、何もできずに事の成り行きを見守ることしかできません。

 助けてケリーさん。貴方のお嬢様の顎が、どこぞの馬の骨に捕らえられていますよ!


「私はこれで失礼するよ。また来るね」


 怯える私に情けを掛けてくれたのか、はたまたケリーさんが来た手前引く他無くなったのか、デュクス様はようやく顎から手を離してくださいました。

 と、私は油断したのです。


 彼は部屋を去る前に、席を立つと同時に屈み込み、あろうことか私の頬に柔らかい何かを押し付けていったのです。

 見えませんでしたが、流石に分かります。

 あれは、唇でした。頬へのキスでした。


 ぎゃー!!!!


「お嬢様、お怪我はございませんか」


 必死に平静を装う私へと差し出してくれたナプキンで、異常な感触の残る頬を抜きまくります。ゴシゴシです。痕が残る? 知ったこっちゃないです。それよりも未だ忘れられない感覚を早く上書きしたいのです。

 何が悲しくて知り合って数日の人からキスされなくてはならないのですか。婚約者? 知ったこっちゃないですよ。


「お嬢様、こちらもどうぞ」


 ケリーさんは温かい濡れタオルを渡してくれました。それを使って顔全体を拭って洗います。少しさっぱりしました。感覚も、無くなった気がします。ええ、無くなったということに致しましょう。そうしましょう。


 それにしても、とふと思いました。

 ケリーさん……タイミングというものが良過ぎじゃありませんか?

 フランの時も、デュクス様の時も、助けて欲しいと願ったら現れました。これはもしや昨日コン先生から習った、不思議な力というものでは? 世の中には摩訶不思議な力を持った人間がいるらしい、と反面教師が教えてくれたのです。


「ケリーさん……」

「はい。お嬢様」

「お訊きしたいことがあるのですが…」

「何なりとおっしゃってくださいませ。お答えできることならば全て教えて差し上げますし、どんな要望でも私の命に代えて果たしましょう」


 聞き捨てならない、いえ聞き捨てたい言葉が聞こえた気がしますが、今は置いておきます。


「ケリーさんは……」

「恐れ入りますお嬢様。私のことはどうか、ケリーとお呼びください」

「あ、すみません」

「謝らないでくださいませ。私はお嬢様の僕にございますから、如何なる礼も不要でございます」

「では、ケリーに聞きますが、貴方は特殊な力を持っているのですか?」

「それをお答えする前にお嬢様……」

「はい?」

「礼は不要にございますので、敬語も要りません。どうか砕けた言葉をお使いくださいませ。雑で構いません」


 そうは言われても、いきなり口調を変えるというのは逆に難しいのですけれど。


「それでケリーさ」

「ケリーです」

「……ケリー。力を持っているの?」


 なんでしょうか。男性というのは全員注文が多い生き物なのでしょうか。そう疑ってしまうほど、求められることが多い気がします。


「特別な力など私は持っておりません。持っているものはただ一つ! お嬢様への愛だけでございます!」

「あ、そういうのはいいです」


 思わず真顔で拒絶してしまいました。

 だって仕方ないのです。この数日フランのせいで大声を出す男性へ拒否反応が出てしまっているのです。いきなり大声を出したケリーさんが悪いのです。あ、ケリーでした。


 そうなると、いよいよ不思議になりました。ケリーはたまたまタイミング良く助けに来てくれただけなのでしょうか。怪しい。実に怪しいです。

 特殊な力が無いのだとすると…。


「ケリー」

「はい、お嬢様」

「盗聴しているのね?」

「はい、お嬢様」


 大変です! 目の前に犯罪者です。主人の会話を盗み聞きする大悪党がここにいます。しかも悪気ゼロのよう。懲らしめなくては再犯必至です。


「ケリー……助けてくれたことには感謝しますが、私の部屋の音を盗み聞かないでください。これは命令です」

「ですがお嬢様!」

「命令です」

「…………はい」


 結果的に助かったから今回は見逃してあげましょう。次は無い。そして口調の要望も却下。


「昼食の準備ができたら呼んでくださいな。それまでは誰も部屋に入れないでください」

「かしこまりました。しかしお嬢様……」

「主人に口答えする気ですか?」

「め、滅相もございません。失礼致しました」


 汚れたナプキンとタオルを持って、ケリーはそそくさと部屋から退がりました。

 その時に見えた横顔が、とても晴れやかなように私の目に映った気がしましたが、気のせいということにしておきましょう。ええ、気のせいですきっと。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る