逆ハーエンドに王手をかけたら記憶喪失になったみたいです。
狼丘びび
第1話忘却の彼方からこんにちは
目が覚めると、見慣れぬ天井、見慣れぬ景色。
私はだれ? ここはどこ? いまなんじ?
そうです、私は、記憶喪失みたいです。
私の名はプエラフロイス、というらしい。らしい、と回りくどく言うのには訳があります。
私には、今日より前の記憶がないのです。
悲しいかな、自分がどんな人間で何を好きでどれほど善人でどれくらい悪人だったかを知るすべが、他者からの言葉くらいしかないのです。
まずは名前。
プエラフロイス、プエラフロイス、プエラフロイス……実感がまったく沸かない我が名を頭の中で繰り返してみる。
そうしなければ、この非常に言いにくい自分の名前を咄嗟に名乗れそうにないのです。
家名ももちろん思い出せず、目覚めてすぐに従者らしき男性に教えられたけれど、まったく憶えられませんでした。もっとも、家名を憶えたとしても私は使う場がないそうです。
この国では、家名はその家の当主のみが名乗ることを許されるのだそう。今のところ我が家では当主である私の父親のみが名乗れる長ったらしい家名など、覚える余裕なんか私にはありません。なぜなら憶えなければいけない事が山のようにあるのです。否、思い出さなければならない事が山のようにあって寝る間も無いのです。
私はこの国の偉い貴族の子供なのだと、病床で悠々と寝そべっている私の世話をしてくれた老婆が教えてくれました。
私の父親は国で上から三番目の位の高官とのことで、国の中枢の重要な仕事をしているそう。部屋の調度品を見てもわかるけれど、かなりの金持ちらしいです。布団もシーツも肌触りがなめらかで、表面には細かい刺繍やレースで飾られています。天井からは半透明の淡い紅の幕が垂れ下がり私が横たわるベッドを囲っています。
まるで、どこかの国のお姫様の部屋のよう。
とても他人事なのは、まだすべてにおいて実感がないからです。私という人間を、まったく何も覚えていないから。
「姉様、具合はどう?」
扉を開けて顔を覗かせたのは、とても顔立ちの整った少年。義弟のフラン、というらしい。
「ごめんなさい。やっぱり思い出せないみたいです」
「そう……」
私の返答に眉尻を下げてあからさまに落胆したフランは、淑女の部屋であるはずの私が眠るベッドのそばまでやって来て、あろう事かベッド横に置かれた背凭れのない小さい椅子に座ってニコリと笑い直しました。
「姉様、謝らないでください。姉様は悪くない。すべては事故だったのです。姉様は不運だっただけです」
「そうですね、一人で勝手に転んで頭をぶつけて記憶が飛んだだけの悲しい事故ですね」
言い捨てて改めて確認する、眼前に迫るほどの近さの整った顔。見知らぬ家族からの近距離攻撃に、小さな心の壁を建築しつつ目を逸らす。視界の端で、フランは貼り付けた笑みを崩してまた悲しげに目を伏せました。
どうやら我が義弟は、記憶喪失な私に思う事があるようです。
それもそうでしょう。家族の一人が記憶を無くして人格まで変わってしまったとしたら、きっと彼のように悲しむものなのでしょう。悲しませている加害者の私にはわからないけれど、遣る瀬ない思いというものに苛まれているのかもしれない。私には、わからないけれど。
私、プエラフロイスは昨日未明、自室にて何だかの衝撃により転倒し、何処かに頭部を強く打ちつけ、見事記憶をすっぽりきっぱりぽっきりまるっと抜け落としてしまったのであります。
それだけではなく、皆々様がおっしゃるに、事故後の私はまるで別人のような仕草、振る舞い、言動なので、同じ姿形の異なる人物ではないかとすら疑われているそうなのです。
そんな疑惑を抱かれたところで、記憶がさっぱり無い私は困り果てるしかないのですけれど。
「そういえばプエラの婚約者が…」
「え?」
「あ。いや、その……すみません」
訪れる沈黙。
弟よ、それは一体何に謝っているの?
急に名を、しかも略称を呼ばれ困惑する私の無防備な左手を、フランは掴んで両手で握り込んできました。
そして身を乗り出して距離を詰めてきたのです。一層迫り来る馴染みがない顔。それがいくら美形でも、反射的に心の距離を万歩ほど置きたくなりました。いきなり親密度を上げられても、弟という名の他人からの至近距離なんて普通に怖いのです。離れてください。今すぐに!
「あの……」
「……すみません。実を言えば、貴女に……いえ、貴女が記憶を無くす前まで、僕は貴女を」
「え?」
「──お話中のところ失礼致します。お嬢様にお客様がいらっしゃっておりますが、いかが致しますか?」
義弟の言葉を遮るかのように音もなくドアを開けて尋ねてきたのは、私の従者である長身の男、ケリーさん。
私が目覚めてすぐに目にした人物であり、記憶喪失である私を甲斐甲斐しく世話している方の一人です。
この無遠慮な弟との二人きりの空間を撃破してくれてありがとうケリーさん。まるで川を渡ろうとしたら時機よく船が通りかかってくれたように丁度よかったです。
義弟のほうから舌打ちしたような下品な音が聞こえた気がしたけれど、きっと気のせいでしょう。
「お客様とはどちらの方でしょうか? 説明されても私はわかりませんが……」
「お嬢様の婚約者であらせられる方でございます」
チッ、とまた隣から気のせいではなく聞こえたけれど無視を決め込みます。それよりも弟に拘束されたままの手をやんわりと解こうと試みる。が、なぜかより強く握られました。背中に這い寄る悪寒。
ちょっと待って、本気で怖いですこの義弟! 離して! 触らないで! 離れて!
けれど大声を出せない小心らしい私は、心の声とは裏腹に無言で左手を引こうとすることしかできません。だって抵抗して相手が逆上したらと思うと怖いじゃないですか。この義弟、正に逆上しそうじゃないですか。
「プエ……姉様はまだ本調子ではない。帰らせろ」
「左様でございますが、お嬢様のお顔を一目見たいと強くおっしゃっていらっしゃいます」
「知らん! プエラは僕と話をしているんだ! 邪魔立てするな!」
勢いよく立ち上がり喚く義弟フラン。蹴り飛ばされた我が部屋の華美な調度品の椅子。
どうでも良いのですが、こんなに近くで大声を出さないでいただきたい。シーツに唾が飛ぶわ耳は痛いわとにかく怖いわで、一刻も早くこの義弟から離れたくて仕方がなくなります。
先程までの殊勝で姉思いな感じの態度とまるで違う弟は、この数十秒の間に私と同じく記憶をどこかに落としたのでしょうか。それなら早く捜しに行って欲しいです。今すぐに。
そんな救援を求めた心の声を聞き取ってくれたのか、勤勉な従者ケリーさんは涼しげな顔で応えます。
「恐れながら、私はお嬢様の
「なんだと!」
「私を動かせるのも虐げられるのも、この世でお嬢様ただ一人だけでございます」
蹴り飛ばされた椅子を拾いベッド脇へと戻すと、ケリーさんはフランが掴んでいるのとは逆の私の手を取り、屈んで指先に口付けてきました。
あれ? ケリーさん何しているんですか?
「変態も大概にしろ! これ以上プエラを汚すな!」
「僭越ながら、お嬢様の耳を現在害しているのはフラン様でございます」
「黙れ! この僕に逆らうつもりか!」
一触即発とはこのことを言うのでしょうか。私を挟んだベッドの両脇で、まるで弟と従者は見えない火花を散らしているように対峙しています。バチバチの視線です。熱いです。暑苦しいです。
そのとき、部屋の扉が開きました。
「騒がしいようだけれど、何かあったのかい?」
現れたのは麗しいという言葉が似合う金の髪の美青年。
「病床で声を荒げては、プエラの体に障ってしまうよ。そうだろうプエラ?」
え? プエラ?
プエラって誰でしたっけ?
あ、私でした。
美青年は私を見つめてニッコリと微笑んでいらっしゃいます。
「あの……」
「これはこれはデュクス様。お待たせして申し訳ございません。ですが、未婚の淑女の寝所に勝手に入られるのは、例え婚約者であろうと
流暢な滑舌で一息にまくし立ててケリーさんが遠回しに退室を促すと、デュクスと呼ばれた美青年は笑みを崩すことなく頷きました。
「ああ、いいよ。行こうかフラン」
「……はい」
分かりやすく渋々と名残惜しそうに私からようやく手を離して、義弟は美青年と共に部屋を出て行きました。
自然と安堵の息が口から出ます。ついでに握られて手汗まみれの左手をシーツで念入りに拭います。ヌメヌメして気持ちが悪いのです。
「説明が遅れましたが、先程の方がお嬢様の婚約者、デュクス様でいらっしゃいます。本日は私が上手く話をしてご帰宅願いますが、恐らく明日もいらっしゃるかと予想されますので、どうかお心算を」
そう言い終えると、ケリーさんはもう一度私の右手の先にそっと唇を落としてから恭しくお辞儀をして部屋を出て行きました。
残された私は呆然としつつも、無意識にシーツの端で右手を拭いました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます