第7話 日常
準備室から出た後時計を見ると、授業の開始時刻はとっくに過ぎていた。
今回は遅れていくわけにもいかず、私は仕方なく保健室に足を運ぶ。
お腹が痛いので一時間だけ休ませてくれと告げ、ベッドを借りた。
保健室の先生は「記録用紙に書いておいて」「早退する?」「先に熱だけ測ろうか」「薬は?」「先生に言ってないの?駄目じゃない、授業終わった後にきちんと言いに行くのよ」とよく喋った。
私は仮病だからいいものの、実際に体調不良の時は来たくないななんて吞気に品定めをしておく。
もちろん眠くなるはずもなく、あれこれと考えていると授業終了のチャイムが鳴る。サッと起き上がると「大分良くなりました、ありがとうございます」と少し弱った声を掛けて保健室を出た。
そのままパソコン室へ向かうと予想通りクラスのみんなと鉢合わせる。
「あれ、空じゃん。どこ行ってたの」
人だかりを抜けて駆け寄ってきたのは麻里奈だった。
コマちゃんが「そら!」と横に並び、その隣で有佳子が「二回目ってどういうことよ」とケタケタ笑う。
「行こうと思ってたんだけど急にお腹痛くなってきちゃってさ、保健室に行ってたの」
そう早口で告げた後、口をはさむ間を与えず「先生に言って来なくちゃ」と言い残してパソコン室に駆け込む。
牛島先生は案の定何か言いたそうな顔をしていたが「すみません、生理痛が酷くなって、」と言うと何も言えなくなっていた。
男性教師が女子生徒のその話題には言及しにくいだろうという所に付け込んでしまった。ごめんね、先生、パソコン室の授業が嫌いなわけではないんですよ、と心の中で謝罪し、申し訳なさそうな顔で退出する。
廊下に出ると三人は待っていてくれたようで、「もう大丈夫なの?」と確認してきた。
「うん、薬飲んだらすぐ効いたから」
そう返事すると麻里奈はすぐに他の話題に移る。
「てかね、さっき空が牛島先生と話してるとき先輩通ったの!」
「あ、麻里奈の推しの先輩?」
「そう!この時間はいつも通るからしっかり探してた」
私を待つという口実で先輩を待ってたな、と察し教室へ歩き出す。
「今日もかっこよかったねえ」とコマちゃんが言うと、有佳子が「麻里奈モノマネしてたのに先輩通った瞬間スンって顔してたからね」と指摘。その光景が簡単に想像出来て四人で笑う。
「そろそろ話しかけなよ」と有佳子が促しても「いやいや、そんなんじゃないから、目の保養!」と麻里奈は言う。
去年の体育祭でその先輩を見つけてから麻里奈はこんな調子なのだが、その感覚が有佳子には理解できないらしく、この会話はもう耳に馴染んだものだ。
高校体育祭というのは私たちにとって、格好いい人を探して楽しむ行事と化している。
“推し”という言葉は都合がいい。“好きな人”なんて呼んでしまえばこのようにあからさまにはしゃぐ事は難しいが、推しはそれとは違う。私からしてみればキャーキャー楽しみたい目的が作られているようだと感じる。かく言う私も体育祭の時は同じ様に楽しんでいたが今はその人の名前さえ思い出せない。
麻里奈の先輩の話やコマちゃんの彼氏の話を聞きながら教室に帰るとすぐにチャイムが鳴る。
そして続く三時間の授業には全く身が入らなかった。
先程の出来事を何度も反復して思い出す。
次はいつ行こうか。
今日の放課後はどうだろう。いやさすがに居ないか。
教室に居たくなくて美術準備室に行っているのだとしたら、帰宅は速そうだ。
じゃあまた来週の美術の授業まで待つ?
だめだ、また情報の授業に遅刻してしまう。遅刻しないようにするには、ほんの少しの時間で切り上げなければならない。それにそろそろ麻里奈たちに怪しまれそうだ。
あの人は一時間目から居たし、朝休みに行くのはどうだろう?
いや、多分美術室自体の鍵がかかっているだろう。今田先生が開けた後は授業の準備をするだろうし、入る隙はなさそうだ。
だとするとあの人はいつ入っているのだろうか。
まあそれは考えても仕方がない。
そのようなことをぐるぐる考えているといつの間にか昼休みだった。
私と麻里奈の席がちょうど近いので、その周りに有佳子とコマちゃんが椅子を引いてくる。
解放感に満ち音の多い教室の端で私たちはお弁当を広げる。
放送部の選んだアイドルグループの曲が流れるのを聴きながら私は黙々と箸を動かす。
今日も麻里奈が部活の愚直を言っていた。
麻里奈の話はポンポンと飛ぶ。それにのんびりしたコマちゃんがこんがらがってきて有佳子に笑われていた。
「結局日吉良くない?」
気づけばまたカズのことを考えていた私は、日吉の名前が出て話題に参加する。
「日吉が?なに?」
「付き合うとしたらよ、このクラスではそうでしょ」
「顔もそこそこにかっこいいしね」
「そこそこって」
若干失礼な評価のコマちゃんに有佳子は表情を緩めた。
「今彼女いるの?」
「なんで私に聞くのよ、知らないよ」
テキトーにあしらっていると横からコマちゃんが
「あ、空と付き合ってるんじゃないんだ」
なんて言うから「何言ってるの」と水を喉に流し込みながら返す。
「でもさ、実際日吉が付き合うなら空って感じする」
有佳子までそんなことを言い出したので、私は教室を見回して日吉がいつも通り食堂に行っていることを確認する。こんな会話は、聞かれたくない。
「そんなことよりさあ、見て、今日から水。偉いでしょ」
そう言って天然水のペットボトルを掲げて見せると、三人とも「おお」と反応してくれた。
周りには必要ないと言われたがお腹周りが急に気になりだしたのでダイエットをすると宣言したのは一週間程前の話だ。そして今日やっと飲み物を大好きなオレンジジュースから天然水に変えたのだった。
とりあえず水を飲むよう言ってくれた有佳子が満足そうに頷くとそこからは美容の話が展開し始める。
そんな中で私は味のしない水をぐびぐびと吸収しながら、また美術準備室に思いをはせた。
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