第6話 会話

 私が来た、というよりはまず、人が来たんだということを知らせるため足音を立てて歩いた。時間もないのでさっさと終わらせようと、早速美術準備室の扉の前に立つ。

軽く息を吸って、無意識のうちに深呼吸をしていた。


コンコン、と二回、軽く拳をぶつけてみる。

何もない。物音ひとつしない。


「あの、私ですけど。この前の。あの、鍵を拾った。それで、なんか来たら開けるみたいな話をして、」

私ってこんなに話すの下手だったけ?言う事をしっかり決めずに来たとはいえ、ここまでたどたどしくなってしまうとは。


この扉の向こうに人がいるとは限らない。というか、いない可能性が高い。そんな所に声をかけている私が恥ずかしくなったのも、途中でやめた理由だった。


準備室の広さは教室の三分の一ほどだった。あの時は焦っていて少年以外に目を移す暇はなかったが、奥の方には道具が沢山積み上げられていたし、少年は手前にいた。そう考えるとあまり大きな声を出さずとも十分に聞こえたはずだ。私は美術室前を通りかかった誰かに聞かれたら恥ずかしいという思いと、聞こえていないと困るという思いの狭間で、結局普段の会話の声量を出していた。



そのまま少し待ってみたが扉が開く気配はなかった。少しと言っても本当に少しで、数秒だけだ。いるならそれで確認には十分な時間だった。

よし、いないっぽいな。そう判断した私は、振り返って机の下に置いていた情報の教科書を手に取った。ふと肩の力がぬける。私は何を期待していたんだろう。別に会いたかったなんていう訳ではない。ああわかった。騙された感じがして悔しいんだ。やはりあれは自分がサボっていた際に落とした鍵を取り返すための言葉だったのだ。上手くまるめ込まれたのだ。ゆっくり息を吐き出した。少し、ほんの少し、新しいことが始まる前のくすぐったい感じがしていたのは気のせいだった。だけどなんということもない。また同じ日々の繰り返しだ。


私をそんな風にぞんざいに扱った人は、もしかしたら今もそこにいるのかもしれない。騙されてここへ来た私を扉の奥で笑っているのかもしれない。一度そう思うとそれが正解な気がしてきて、悔しいと思うと同時にさっきそれに向かって話しかけていた自分が猛烈に恥ずかしくなってきた。


もう戻らないとまた遅刻してしまうような時間になっていたことを確認し、私は片足を出したが、せめてもの反抗として顔を向けると準備室の扉を睨んだ。


その時だった。

視界にあるドアノブが、微かに動いたのが見えた。

唾をのむ。

そのまま見つめていたが、それ以上は動く気配がない。

でも私は確信した。

いる。

教科書を抱えたままドアに体を向けた。

すると予想通り、するするとドアノブが回った。

更に間をおいて、ドアが内側にほんの少し動いた。

スローモーションのような動きでじれったかったが、その時にはもう次の授業のことなど忘れていた。


なんだか押し開けるわけにもいかず、私は向こうの動きをただただじっと待った。

やっと人が通れるくらいの隙間ができ、ドアののんびりした動きが止まる。

時間的にはそんなに経っていないだろうが、私には酷く長く感じられた。

これ以上の動きはない事を察し、私は中の見えないその部屋に踏み込むことに決めた。ここまでじりじり待ったのだから、躊躇する考えはなかった。


ただ向こうも用心深そうで、押し入るのも申し訳ないような気がした私は扉を軽く押した。入りますよ、という合図のつもりだ。サボっている人にこんな気を使うのはおかしな話だが、そんな理由だけではない気がしてきた。サボりならドアを開ける義理もないだろう。


「失礼しまあす」

なんと言うのが正解なのかわからず、小声で職員室に入るような挨拶をする。

顔を出して覗いてみるとそこには、やはりあの少年がいた。


ほこりをかぶったカーテンのせいで室内もまた薄暗い。美術室自体が明るくはなかったので、開いた扉から入る光りも少ない。しかも相手は私の一メートル先辺りにいて、漏れ入る微かな明かりは当たらない場所にいた。


この前と同じ雰囲気を感じた。

周りは普通に目視出来るレベルだったが、目が慣れてくると奥の方まではっきりわかった。また少年の表情まで読み取れるようになった。そうは言ってもただ見えるというだけの意味であって、何を考えているかは全くわからなかった。

今回もまた、その無機質な目に引き込まれそうになる。

さらさらした髪は心なしか少し伸びた気がする。


よくよく考えてみると、特に話すべきことはなかった。お互いの目をじっと見るという時間が出来る。こんな時もまた、肌が白いな、でも肌荒れしちゃってるな、なんて考える。

そして少年は前で手を組んだまま、話始める気配は微塵も感じられない。

押し入ったのは私だから私から何か言わないと、と変な礼儀のような発想が浮かび、「あの」と擦れた声を出した。

「覚えていますか、私のこと。っていうかこの約束」

なんとか口に出した質問は、約束なんていう重い言葉を選んでしまい失敗だと思った。

少年は少しだけ息を吸ってから、

「覚えてるよ」

と言った。


それ以上何も言いそうにないので続けて質問することにする。

「えっと、先輩ですよね?三年生?」

「そうだね」

「サボっているんですか、いつもここにいるなんて」

「んー、まあそんなところかな」

抑揚のない声で少年は端的に答えていく。


「ここの鍵ってどうやって手に入れたんですか?」

この質問には先程までよりはほんの少し声を張って

「それは言えない、ごめん」

という返しだった。

「まあそうですよね」

なんて、相槌を打ってみる。例えサボりであっても相手の秘密基地のような場所に内緒で入れてもらっているのだ。深入りしすぎると追い払われかねない。私はもっとここについて知りたかった。

「えっと、とりあえず、名前はなんていうんですか」

これには少し間をおいて

「カズ」

と答えた。

どこまでも秘密主義らしい。名前くらいフルネームで教えてくれればいいのに、和也だろうか和彦だろうか一樹だろうか、部分的にしか知らせないと。カズだけの可能性もあるが。

「じゃあ、カズ先輩でいいですか?」

これは、これからも接触するつもりでいますよという意味を含めたものだった。

「カズでいいよ」

という返しだったのでそれは承諾されたものと受け取る。

それから

「そっちはなんていうの」

と続けられた。私と同じでこの質問はこれから関わらない人にはする必要のないものだったので、私はそういうことだと再確認する。

「二宮空です、そらって呼んでください」

高校に入学したてで新しい関係を築いていくときのようなくすぐったい感じだった。

カズはちょっと目を開いて「そうなんだ、」と呟いた。

呼び方に関しては流された感じがするが、気にしないことにする。


埃っぽいその部屋は、あまり居心地の良いものとは言えなかった。かなりの量の段ボールが積み上げられ、作品棚らしきものが奥の方に見えるのだがその大部分が隠されていた。きっと歴代の美術部員の作品がたまっているのだろう。

部屋で一番扉に近い場所には二畳程のスペースがあり、あとは殆どが荷物で、奥に物を取りに行くにも人がひとり通れるくらいの通路があるくらいだ。


「ここで何してるんですか」

否定的な人だと思われるとここには歓迎されないだろう。私はどことなくわくわくしているような口調を意識して尋ねてみた。

「んー本読んだり、昼寝したり」

想像していたよりも穏やかな過ごし方で思わず少し口角が上がる。スマホゲームくらいはしているものだと思っていた。

それをそのまま伝えると「スマホは持って来てないんだよね」なんて言うから思った以上に真面目な人なのかもしれない。

「授業受けなくていいんですかー?」

こちらも別に咎めるつもりはないと伝わる軽さで聞く。

「いいのいいの」

諦めたようなニュアンスで言う。勉強は苦手なのかもしれない。授業が苦痛だからここにいるという可能性も出てきた。しかし今までの会話では特にこれといった収穫はなかった。


一通り当たり障りのない質問をした後、カズが口を開いた。

「そっちはさ、なんでここに来たの」

特にこちらに興味があって聞いているわけではなさそうだが、初めて向こうから話を振ってくれた。ただそれに対しての答えは思いつかない。せっかくきっかけを作ってくれたのに。


「なんか毎日退屈してて。面白いことないかなーって」

口をついて出たこの言葉は本音だったと思う。この人の気を引く話なんていくらでも思いつきそうだが、結局のところこれしか出てこなかった。こんな風に探り探り話を進める感覚は久々だ。彼の「ふうん」という相槌にあれこれと考えを巡らせてみる。この人は私を品定めしているような、それでいて興味のなさそうな目で見る。そのように真逆の意味でとらえてしまう私はカズのことを何も知らない。当たり前だ。しかし、何故か、知りたいと感じるのは、このよくわからない状況を楽しんでいるだけなのだろうか。


カズはそれ以降何も続けてくれない。返答は間違っていたのかもしれないが、今更訂正するのもおかしな話なので、何の感情も感じられない相槌の意味を考えるのもやめることにする。しばらく彼の目を見ていると、やっと唇がかすかに動く。しばらくとはいえほんの数秒なのだが、このように独特の間を置く彼のペースに上手く乗ることができない。


「じゃあさ、また、来たらいいんじゃない」

え。想定外の言葉に私は一瞬固まった後、抱えていた教科書に目を落とし、折れた表紙を指の腹で伸ばしながら口を動かそうとする。

「いや、ここだって特に楽しい所じゃないけど。暇つぶしくらいにはさ、なるんじゃないかなって」

彼は言い訳みたいに言葉を並べる。今の一瞬のためらいが、きっと彼には長く感じられたのだろう、さっきまでの私のように。

教科書をぎゅっと抱きかかえなおして、

「え、いいんですか。来ます、絶対に」

と、きちんと彼の厚意に喜んで答える姿勢を見せる。そしてそのあとすぐ、前のめり過ぎたような気がして、「退屈してたし、助かります」なんて可愛げのない言葉を加えておく。

カズは準備室の奥の小窓の方を眺めながら

「うん」

と小さく発した。


なんだこれ。こんな状況、初めてだ。意味もなく前髪に触れたり部屋を見まわしたりしてしまう。彼の方も、こちらに目を向けようとしない。

「あ、じゃあ、また」

そろそろ戻るタイミングだと思い、一歩後ろに足を引きながら声をかける。

「うん、また」

そう言ってカズはやっと前で組んでいた手をほどいた。


そのままドアノブを引き、出ていこうとすると、カズは少し体をこちら側に寄せて外を見やった。つられて隙間から覗いた美術室は音もなく、先程まで私たちが授業を受けていたのと同じ場所とは思えない。中にあったものを全て吐き出し、ようやく落ち着いたようなそこはいつもより広く感じた。


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