第3話 逡巡

その日の放課後。

いつもの日常とちょっと違う事を体験した私は、また美術準備室の事を考えていた。

別に特別な出来事ではない。

私たちが入ったことのない部屋で知らない先輩がサボっていたところに遭遇しただけ。


校舎を出た向かいにあるグラウンドを眺める。

そこはサッカー部が走り回っていて、隣のコートではテニス部が試合をしていた。

それらを横目に校門の方に進むその道にあるのは、各部活の部室や活動拠点となっている部活棟。

今日も吹奏楽部の音が聞こえる。

半年ほど前は素人の耳にもわかるくらい不揃いだった音は、十月にもなると気付けばひとつの曲になっていた。


どこかの部のマネージャーらしき人がボトルを抱えて横を走っていく。

私も最初はサッカー部の大介に誘われてマネージャーを考えたのだが、あんな風に忙しそうな姿を見ると、入部しなかった私の選択はやっぱり正しかったと思える。

サッカー部のマネージャーがキツイというのはよく知られた話で、さっきの人がサッカー部だとしたら、普段テキパキとしていたから勧誘されたとかだろう。

私には向いてない。


と、そこに校舎回りをランニングしていたバレー部が周回してきた。

バレー部ってなんであんなに短いユニフォームなんだろうか。

でもそこからすらりと伸びる足は細いながらに筋肉が見て取れて引き締まっている。

バレー部の集団を目で追っていると後ろの方に麻里奈の姿を見つけた。

今日の部活はこれだから嫌だって言ってたな。

胸の前で小さく手を振る。

こちらに気付いた麻里奈は舌を出し、大袈裟に顔をしかめてみせる。

ランニング中に遭遇するといつもこんな感じだ。


校門を出て、真っ直ぐに伸びる傾きの急な坂道を下る。

野球部が通称“地獄の坂道ダッシュ”を行っていた。

私は野球のルールもよくわかっていないレベルでそもそも興味がないので詳しくは知らないが、うちの学校の野球部は強いらしい。

何度か全校生徒での応援練習もあったのだが、それが実際に活かされる機会はなかった。

全校生徒で応援に行くと決まっているラインにはいつも一歩届かないようだ。

あんなに暑い日の下で、知り合いもいなければルールも知らない競技を観に行くのは苦痛でしかないので私は毎回、勝たないでくれと願う。

こんな練習風景と毎日のようにすれ違い、麻里奈を含め盛り上がるみんなの中でそんなことを考える自分に嫌気がさす。



このまま坂を下れば最寄りの駅に着くのだが、家が徒歩圏内の私は途中で左折して住宅街に入っていく。

この高校を選んだのも近いからに他ならない。

中学の仲間たちは九割が公立高校への進学を希望する中、交通費も浮くからいいかと許しを得て学費の高い私立に通っている。

住宅街とは言ってもこの田舎町では家が密集している訳ではないし、そのほとんどが瓦屋根のような活気の感じられないところだった。


「ただいま」

家に入ると母の

「空、今日習字でしょ」

という声が飛ぶ。

手を洗いながら「はあい」と返し、二階に上がり自分の部屋に荷物を置くと再び階段をばたばたと降り、玄関のすぐ左の和室に入る。

「あら空ちゃん、おかえり」

部屋の一番奥の机の前で正座した祖母が声をかける。

ここは小さな書道教室となっていて、たまに主婦のような人も見かけるが主に近所の子供たち十数人くらいが通っている。

そしてここを十年ほど前に開設したのが私の祖母だ。

流れで幼稚園生だった私も通うようになり、今では高等師範という、この教室では祖母につぐ二番目となる免許まで取得していた。

「そらちゃんおかえりー」

人懐っこい子供たちもよく祖母を真似て挨拶してくれる。

月謝はかなり安めで、正直生徒数も少ないし大丈夫なのかと聞いたことがあったが

「これは私の趣味みたいなものだからいいのよ」

と祖母は笑った。


この部屋には祖母と向かい合わせに二人ずつ使える長机が四台並んでいて、あとは祖母の隣が一席。計九人の生徒が座るといっぱいだ。

いつもの棚から習字セットを取り出して祖母と対角線になる一番後ろの席に着く。

幼稚園生や小学校低学年には正座はきついようで、足を投げ出している男の子に祖母が軽く注意する。

「えー外で遊びたいよう」

「これまで書いたら終わっていいから。ほら、終筆きれいになってるじゃない」

明らかに外で走り回っている方が似合いそうなその男の子は、野球チームのロゴが印刷された帽子をいじいじと触っていたが、そう言われるとまんざらでもないようで

「兄ちゃんがねー俺の上手いって言ってたんよねー」

と舌をぺろりと出し筆を握った。

お兄ちゃんの話を続けながら墨がこびりついた硯(すずり)で筆を研ぐ男の子。

そんな様子を横目に準備を進める。

ここで書道をしているのが、最近は一番落ち着くのだ。

学校で理不尽なことを言われても、友だちの言動に納得がいっていなくても、筆を握ると意識はそちらに向かう。

それに幼い子どもたちに囲まれていると、自分が少し大人になったような、穏やかな気持ちになるものだ。


今日は準備の整った机の上をぼんやりと眺めながら、気がつくとまた美術準備室の事を考えていた。

行ってみようかな、とそんな気分になった。

いや、行ったところで何になるんだ。

そうじゃない。私は鍵を取り返しに行くんだった。

本来の目的を見失いそうになる。

でもあの先輩は、本当に開けてくれるのだろうか。

あれは厄介者を追い払う咄嗟のセリフだった可能性は高い。

開けてくれるとして、どうしたら開けるつもりなのだろう。

ノックをしたら?でも私じゃなかったらどうするんだ。あの人は顔を出した瞬間サボりがばれてしまう。

いやいや、何を心配している。私には関係のないこと。むしろ見つかって怒られるべきだ。

そもそもまたそこにいる可能性はあるのか。

あの言い方だといつもいるのかもしれない。

だが毎日の全ての授業をサボっている訳ではないだろう。

だって、それならば学校自体サボればいい話だ。

もし全ての授業に出ていないとしたら?もしかして親は厳しい、とか。だからとりあえず学校には行っている、と。

それならば納得できるな、と一瞬思ったが、さすがに親に連絡がいくだろう。その説は捨てる。

となると確実にいるのは火曜日の一時間目か。

そのときに行くか、と決め筆を進める。


一文字書いたところで筆を止める。

どうして行こうとしているのか疑問に思った。

自分でも鍵を取り返しにというのは建前だと薄々気づいている。

そんな真面目なわけでもないし、もちろんあの鍵を手に入れたいのではない。

ましてや知らない人に鍵を返せと注意する事など考えられない。

それなのになぜ行くつもりなのだろうか、よくわからない。

ただ、どこか心躍るような心地ではある。

毎日が同じ日の繰り返しの私にとって、ちょっとした楽しみができた。それがきっと大きい。

本当にちょっとしたこと。

だがしかし、取り立って他に考えるべきこともない日常が私を、知り合ったばかりの人にわざわざ会いに行かせた。


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