第2話 ロールバック

話は一時間以上前に遡る。

「おはよー」

学校に着くのが遅い方の私は、先に着いている仲の良い友達と数人にいつものように挨拶して席に着く。

他のクラスの友達と話していた芹田麻里奈せりたまりなは戻ってくるとバッグをゴソゴソと漁り焼きそばパンとパックのマンゴージュースを取り出した。

「おはよー」と言いながら横向きに座り、壁を背もたれにして朝食を食べる。

「朝から重くない?」

「いやこのくらい食べないとお腹鳴っちゃう」

私の机にジュースを置き、麻里奈はパンを頬張る。

「昨日お腹鳴ってたもんねー四時間目」

とニヤニヤ笑うと麻里奈は

「うっそ、やっぱ聞こえてた?」

とトレードマークの横結びを揺らして笑った。

片方にキレイに寄せられたその髪はツヤツヤしている。

「誰にも気づかれてないと思ってたけど一応予防で」

そう言いながらパンを完食した麻里奈を笑いながら私は教科書類をロッカーから取り出して来る。

「一時間目何だっけー」

これは完全に考える事を放棄している質問なのだが、いつも麻里奈の返事は早い。

「美術!」

「あー一時間目から教室移動かあ」

先に用意を終えていた麻里奈は午前中の科目を順番にあげていく。

これだから時間割表を確認したり思い出そうとしたりするよりも麻里奈に聞く方が早いのだ。


いつものようにだらだらと話していると始業を知らせるチャイムが鳴る。

麻里奈はジュースをしまって前を向いた。

チャイムとほぼ同時に入ってきた担任が今日ものんびりとホームルームを始める。

ただ今日は一時間目が移動教室だからやめて頂きたい。

毎週ギリギリで美術室に駆け込む私たちを美術の先生は優しい目では見ない。そして予想通り授業開始三分前に終わったホームルーム。

うちのクラスの生徒は急いで教室を飛び出す。

担任は毎週この光景を見ているのだから、そろそろ美術の日くらいは早くホームルームを終わらせなければという気を起こしてほしい。



「今日も安定に遅かったね」

階段を駆け上りながら言う麻里奈に同意する。

私たちの教室は二階で、美術室は四階。

今日は何とか間に合ったが、息が切れる。

朝休みの日うちに教科書を出していなかった数人が、ロッカーでタイムロスをしてチャイムと同時に入室する。


美術教師というものは定年ギリギリくらいのおばあちゃん、なイメージなのだが、実際は三十代前半の男だ。

短髪に黒髪黒い肌、それにどこかで配られたようなパーカー。この人を知らない人はきっと体育教師だと思うだろう。

体格も良いその今田祥平は、数人に冷たい目を向けた。

授業は基本のびのびと自由に行われているが、授業外のこういう事には案外厳しい。


美術の授業の席はくじ引きで決まっていた。

私は一番後ろの角の席で、ここでも前は麻里奈。

「べスポジ!」

と二人で喜んだものだ。

高校生にとって席替えは一大イベントであって、周りに話せる友達がいるかということは、高校生活を充実させるという点において重要になってくる。



作業しやすいように広い机を隣の席の人と二人で一つ。

私の隣はクラス一の美人、片山志乃かたやましの

真っ黒な髪は綺麗にポニーテールにしてあり、内側にくるんと巻いてある。

白い肌にぷっくりした唇、睫毛も長く大きな目。女の私でも見惚れてしまう。

普段は大人しい子で、私はほとんど話したことはないのだが、同じ中学の友達と話している時などは楽しそうな志乃ちゃんを見かける。

麻里奈は「志乃ちゃんって性格悪いらしいよ」とどこで聞いたかわからない話をしていたが、今のところそれが立証される出来事はない。



最近の美術の授業は“篆刻”と言って、大理石の様な模様の白い石を削り、印鑑をつくる、という作業をしている。苗字でも名前でも良いという事なので、私は一文字の“空”を選んだ。

今はガリガリと石を削り、持ち手を作る段階。

ふと隣を見ると志乃ちゃんは名前を彫り始めた所だった。

「志乃ちゃん、苗字の方にしたんだ」

下書きの段階では二択に悩んでいた志乃ちゃんは顔を上げて

「曲線が多くて難しそうだったから」

と微笑んだ。

「でも“片山”って地味-に曲線あるね」

「そうだね、でもこっちの方が少ない」

楽な方を選んだ志乃ちゃんに親近感を持つ。

「私も“二宮”にすれば良かったかなあ。“二”とか楽だよね」

「でも一文字かっこいいよ」

そう言って志乃ちゃんは私の下書きを指差し、ウ冠をなぞる。

「これも曲線があるね、ちょっと」

「志乃ちゃん、曲線嫌いだね」

曲線にこだわる志乃ちゃんが少し面白い。


「見てー、上手くない?」

振り返った麻里奈が作品を突き出す。

その篆刻の持ち手の部分は特に気になる凹凸もなく美しい球体になっていた。

麻里奈はバレー部で活動しており、アウトドアなタイプのイメージだったが、案外器用なようだ。

そういえばノートの表紙の落書きも凝っていたな。


「わあ、すごい、バランスもいいね」

目を大きく開いてそう言う志乃ちゃんに満足そうな顔を向けると今度は前の席の男子、日吉大介ひよしだいすけの肩を叩き同じセリフを放っていた。

振り返った日吉の顔はさっきの志乃ちゃんと似たようなもので、この騒がしい中では聞き取れないがきっと同じようなことを言ったのだろう。


麻里奈は仕上げの段階に入るようだ。

近くを周回していた先生を呼び止め、やすりを求めている。

少しの間頭を捻っていた先生は「あちゃー」と分かりやすく顔をしかめた。

「昨日美術部の奴らが大量に使ってたなあ。買い足すの忘れたな、すまんが来週でいいか」

大人しく「はあい」と返事する麻里奈を振り返り、日吉が大きな声で口を挟んだ。

「準備室とか、あるんじゃねーの」

すぐに麻里奈が

「開かないじゃん。やすりは次でいいよ」

と返す。

「どういうこと?」

日吉は手を動かしながら顔だけこちらに向けて聞く。

どうやら日吉は、結構有名な噂を知らないようだ。

まあ噂など興味なさそうだし、とひとり納得していたが、麻里奈は

「え、知らないの?」

と驚いていたので、思ったより有名な話なのかもしれない。

実際志乃ちゃんも知っているようだ。


「美術準備室は、もう何年間も開いてないの。急に鍵がなくなったんだって」

得意げに話す麻里奈とは対照的に日吉は顔をしかめる。

「えー誰がなくしたんだよ。スペアキーとかねーの?ないなら作ればいいし」

確かに“開かない美術準備室の扉”などと聞けば学校の七不思議のような、神秘的な雰囲気がするのだが、今の話を聞けば日吉の反応が妥当だった。

不思議な話だと思っていた私は、面白おかしく誇張された話を聞いていたのだろうか。

いや多分、そういうふうに話した麻里奈と同じテンションになっていただけだろう。


「先生、あれっていつから開かないんですか」

麻里奈は先生に向き直る。

「うーん、かれこれ一年近くかな」

え、短い。

なんだ、本当に鍵をなくしただけじゃん。

もう十年以上はたつものだとばかり思っていた私は、一瞬にしてその世界観が崩された。


他の三人も同じ様子で、特に麻里奈は先生に敬語を忘れて驚きを伝えていた。

「え、ほんと?めっちゃ最近じゃん、なんで開かないの」

「だから、鍵作ればいいじゃないですか」

冷静な日吉に先生も冷静に返す。

「作ればいいって言われてもなー。裏には開けるほどの物も置いてないからなー」

それならどんなふうに使ってたのか。まだ準備室に入る機会のなかった私たちにはわからない。


そのまま先生は麻里奈の作品を手に取り「きれいに出来てる」と褒めて去っていった。

すっかり美術準備室から興味がそれ、

「だよねー、やすり貰ったらもっと磨いちゃお」

と来週の授業に思いをはせている麻里奈を横目に日吉は、わざわざこちらの席まで寄ってきて

「鍵なくしたの今田だよ絶対。生徒指導の立場でそんなこと上に言えなくて鍵作れねーの」

と毒づくので思わず吹き出す。

横では笑みを浮かべる志乃ちゃんに

「いっつも体育館で怒鳴ってる人が言えないっしょ」

と口元を緩めた。


そうして私たちはまた元の作業に戻り、準備室の話なんてすっかり忘れた。

授業が終わるとギリギリまで作業していた麻里奈の片付けを待つ。教室にはもうほとんど生徒は残っておらず、効率悪く進めていたような人たちがバタバタしていた。先生も次の時間は授業がないようで「ちゃんと電気消せよー」と言い残して帰った。


結局最後になったので出口の電気のスイッチの下で待つ私。麻里奈が荷物を抱えて駆け寄ってきたので、パチンと電気を消して教室を出た。



「次は情報か、火曜日は移動教室多いね」

階段を駆け下りながらそう言った麻里奈の一言でハッとする。

「やばい、情報の教科書忘れた」

わざわざ教室に戻らずにそのままパソコン室に行けるよう、美術の授業の時は情報の教科書も持っていくのがいつもの流れだ。その教科書を今日は美術室に置いてきてしまったようだ。

パソコン室は美術室前の階段を降りるとすぐなので、麻里奈に美術の教材を預け、「先に行ってて」と告げ来た道を戻る。



少し重い扉をグッと押し、暗い美術室に入る。

日の入らないここは遠くで生徒の笑い声が聞こえるのみで、午前中にもかかわらず放課後のようだった。不鮮明で探し物をするには暗い気もするが、場所の見当は付いているので電気はつけないことにする。


何となくこの雰囲気に合わせるのが正解な気がして、そっと踏み込んだ。そのまま正面の私の席まで進む。

しゃがんで机の下を覗くと、思った通り情報の教科書がひっそりと存在していた。それに手を伸ばした時、私の目に小さな物が映った。


私の席の横には畳んだ段ボールが立て掛けてある。何層にもなっているその影に落ちているそれは、いたって普通の鍵だった。

誰が落としたんだろう。そっと手に取ってみる。

錆も入っているその鍵にはマスキングテープが貼ってあり、記名したような跡はあるがどうにも読めなかった。


先生に渡しておけば持ち主に返るだろう。そう判断し立ち上がった私は、さっきの話が頭に思い浮かんだ。

開かない美術準備室の扉。

ということは、これはもしかして今田先生が落とした?そうだとしたら、鍵はどうするのが正解なのだろうか。今田先生に返すよりは担任に渡した方がいい気がする。

美術室に落ちていたとなったら、もしも今田先生が鍵をなくした犯人だったとしても怒られないんじゃないかな。だって他の先生からしたら、そんな所に落ちてたのね~いつからあったんでしょうね~美術部員かしら~くらいの反応になるだろう。

そこまで考えて私は、何故か今田先生の見方をしようとしている自分に気付き面白くなった。確かに今田先生の事は嫌いではないが。


彼は厳しくて有名で、苦手に思っている生徒は多い。でも他の先生よりよっぽど言っていることの筋が通っているように思う。

いや、味方をするしない以前に、これが準備室の鍵だという証拠もなかった。目に付きにくい場所であるとはいえ、一年近くも見つからないものだろうか。しかもここに立て掛けてある段ボールは明らかに先週より減っている。つまりは美術部員あたりが使っているんだろう。


じゃあやっぱりこれは最近誰かが落とした鍵だ。家の鍵を落としたなんて、困っているに違いない。

情報の授業の後は担任の授業だ。そのときに担任に渡そう。

そう決め教科書を抱えて立ち上がる。

鍵をブレザーのポケットに滑り込ませようとした私はふと、真後ろの準備室を振り返る。

しん、としている。

中に入ったことのない私には、この奥に空間があるようには思えなかった。

興味本位で鍵穴まで鍵を持っていってみる。

まさかね、と思いながらも押し込んでみると、意外にもスッと入った。

どくん、と心臓が波打つ感じと共に、手首を捻る。

かちゃり、と音がした。

この鍵、ほんとにここのだったんだ。

なんだか冷静になってきた私は、せっかくだから中を見ておくか、くらいの気持ちで鍵を抜き、木製のドアを軽く押して体を滑り込ませた。

ここからが、冒頭部分の話である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る