第3話

 店の前には、僕と山形さんを含めて6,7人の列が出来ていた。昼時になると錆れた街の中の腹を空かせた工員達が一斉に集まって、一つの店を繁盛させる。

 黄色の背景に黒色の隷書で「ラーメン遠藤屋」と書かれた看板が灰色の工場街では一際目立っていたが、日焼けした黄色や汚れた看板はやけに馴染んでいた。ガラス製2枚引き戸の入口の横にビール樽が縦に2個積み上げられ、その横に赤色のブリキ缶の灰皿がスタンドに窮屈に収められ立っていた。この灰皿を見ると、どうしても作業場を思い浮かべてしまう。僕だけじゃないはずだ。

 店内は臙脂色の合成皮革二人掛けソファが石目調のテーブルを挟んで、向かい合って置かれている。外見以上に広い客席は定員30人は入ると思う。タイル床は油まみれで、そこに工員達の泥だらけの安全靴がさらに汚くして、飲食店としてはふさわしくない環境を作り上げた。それでも、嫌悪感を示す者は誰一人としていなかった。かえって彼らにとっては、一種の贅沢に感じる程だった。

 「腹減ったな、いるといいなあの子。まじで可愛いんだよ」山形さんは、月曜日の午前過ぎとは思えない程元気で、着ていた紺色の作業着は、先週の汚れを残したままだった。

 「油淋鶏だな今日は」「いいっすね、油淋鶏。俺は四川風炒飯にします。四川風」山形さんと、メニューの話をしているときも、つい意識していた。店に入る前から少し声が低くなって、眉間に軽く力をいれ、すかしていた。自分でも格好つけているつもりで、少し恥ずかしくて可笑しくなった。それでも当然何も期待はしていなかった。

 食欲を満たした工員達が店から出るのと同時に、列は店に吸い込まれて短くなって行く。僕と山形さんも吸い込まれて、空いてる席を探し、窓際の席に座った。

 山形さんは壁面に貼ってあるメニューやテーブルの上に雑に置かれたラミネート加工のメニュー表を無視して、「いいですか」と身体を拗らせて、厨房に声を掛けた。その間、僕は自分と山形さんの分の水をコップに注いだ。山形さんは身体を戻してから、「おっ、さんきゅ」と言って、やっとメニュー表の存在に気付いたように「排骨飯もありだったな」と壁面のメニューを目で射しながら言った。

 僕も壁面のメニューから排骨飯を探してから、手元のラミネート加工されたメニュー表を観て、まだ食べたことのないものを探した。

 「お待たせしました」店員に気づいた僕は、テーブルに両肘をつけながら、彼女を見上げた。これが彼女との初めての出会いになった。

 角度的に上半身しか見えないけれど、力いっぱい蹴ったら一瞬で粉砕できそうな程、華奢な女の子だった。

 髪型は、『トレインスポッティング』に出てくる『ダイアン』みたいだった。真ん中で左右に分け目をつくって、片方をそのまま垂らして、もう片方を耳に掛けた髪型。『ダイアン』と違って髪の色は、ブロンドの真逆で黒曜石みたいに黒く、艷やかだった。

 山形さんの方を向くと、クリクリとした目をさらに丸めながら、「やっぱり油淋鶏一つと、キヌタお前は」と言いながら、ほくそ笑んだ。

 視線を彼女から、ラミネート加工のメニュー表に落として「炒飯で」とだけ言って、申し訳ない気持ちでもう一度彼女を見た。

 片方だけ空いた額を見てから、正しく整えられた黒い眉毛、涙袋、鼻、人中、唇、そして微かに見える笑窪を露見されないように見下ろした。考えた結果、彼女の瞳を見るのだけはやめた。正しく言うと見ることが出来なかった。

 「油淋鶏と炒飯ですね」そう言ってマニュアル通りの接客をして、じぃさんとばぁさんが居る厨房に彼女は戻って行った。

 可愛かった。山形さんの言葉に嘘偽りなく可愛かった。無茶苦茶。初めて人の顔をちゃんと見た気がした。忘れないようにと。視界から伝わるそれは、まるで絵の具が水に一気に溶け出す瞬間だった。

 少し経ってから、彼女が油淋鶏と普通の炒飯を持って来た。自分とあまり年齢は変わらない彼女が貴やかにみえ、物凄く色味溢れているように感じた。でも結局のところ、いくら僕が眩しく感じようが、彼女にとって僕はただの客で景色にしか映らなかった。

 食欲に負けて、彼女の持ってきた炒飯を掻き込む様に腹に流し込んで、ものの数分で皿を平らげると、そそくさと席を立った。もちろん、店の外にはまだ何人かの列が出来ていたので長居する訳にはいかなかった。レジスターに立つ、ばぁさんに勘定を済ませると、色の無い煙霧とは違う靄に縛られながら店を出た。

 「食ったぁ」って、いつもなら言うタイミングで「可愛かったぁ」と僕が小声で唸っていると、「そうだろ、そうだろ?本当に可愛かっただろ」と自分の手柄の様に言って、山形さんは増長した。

 「今度話しかけてみろよ」「いきなり?無理ですよ。どうせ、ただの面倒臭い客だと思われて遠藤屋に行きづらくなるだけですよ。俺が店に行くと、厨房にいるババァとジジィが『花ちゃん、あの人来たから後ろ下がってて』なんて言われ出して、ストーカー扱いされるんですよ」「そりゃヘビィだな。とりあえず次行った時、適当にラーメンの感想と、いつも美味しくて元気が漲りますって感謝でも伝えておけ。あと絶対花ちゃんじゃないだろ。葵ちゃんだな。」葵ちゃんは絶対無いだろ。正直、花ちゃんでも葵ちゃんでも、名前なんてどうでもよかった。仮に彼女が房子でも欽一って名前でも可愛さに変わりはなかった。山形さんとあーだこーだ話した結果、とりあえず明日も遠藤屋に行くことにした。

 そして、結論から言うと僕は、彼女の事を好きになった。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

煙シティ 朝比奈七々 @38_kid7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ