記念の日には、林檎のパイを

羽鳥(眞城白歌)

三年目の記念日に


 誕生日でも、結婚記念日でもない。

 私と彼が出会った大切な日は、林檎のお菓子で祝うと決めている。



 魔法の腕は一人前と言われるようになったけれど、料理の腕はまだまだだ。

 年季が入った我が家のオーブンは気難しく、調整を失敗すると大惨事になってしまう。特に、じっくり丁寧に焼きあげるべきケーキやパイは難易度が高い。


 一年目は、林檎のコンポート。お酒が未経験だったせいかワインの香りでふらっとしたけれど、お鍋でコトコトと煮込む作業は魔法薬の調合と似ていたので、出来上がりは上々だったと思う。

 彼は不思議なものでも見るように目をみはり、「林檎って甘いんだね」などと感想をこぼしていた。


 二年目は、焼き林檎。オーブンとの相性が克服できず、料理長のおじさまとメイド長のお姉さまが焼きあがりまで付き添ってくれた。お陰で真っ黒焦げは回避できたけど、胸を張って一人で作ったとは言えない。

 彼は匂いをかごうとしたのかシナモンにせてから、ほわっとした涙目笑顔で「どうやって食べたら一番美味しいかな?」などと聞いてきた。丸かじりを提案したら本気で実行しようとしたので、慌てて止めたけど。


 三年目にしてオーブンを物にした私は、ついに憧れの林檎パイに挑戦した。

 中に入れるコンポートは完璧な甘さ、パイ生地はバターを折り込み伸ばして休ませ……と食感重視のこね方を目指し、火加減も絶対安全領域だ。炎の精霊が気まぐれな悪戯をしない限り、間違いなく美味しい林檎パイが出来上がるはず。

 そろそろかな、とはやる心を抑えながら火を止め、重いオーブンの扉をこじ開ける。途端に甘酸っぱさと香ばしさの混じった匂いがあふれて、お腹の虫がきゅうと鳴いた。

 焼き目は綺麗なきつね色、ツヤツヤしていて、形も崩れたりしていない。これは私の人生における最高傑作かもしれない。


 うっかりひっくり返して台無しにしないよう、慎重に慎重を重ねてテーブルに乗せる。このまま冷ましておいて、先にお茶の準備を……と考えたその時、背中に気配を感じた。

 え、――と思ったけれど振り返ることができない。不意に空気が重くなり、私の動きを制限したようだった。

 悪意や殺意ならば慣れたものだけど、これはそういうものではない。


「……だれ?」


 すくんだ心臓をなだめながらゆっくり息を吐いて声を出せば、後ろの誰かがひそやかに笑った、気がした。

 ゆっくり視線を落とし、室内灯が作った自分の影を確認する。私の肩からひょこりと生えた私のものではない影は、しなやかな猫の輪郭りんかくをしていた。


「さすがに、驚かないか。はじめまして。人間の、魔法使いのお嬢さん」

「はじめまして。あなたはあたしを知っているのね。……ってことは、もしかしてあなた、センのお友達なの?」


 猫の影は軽やかに笑い、とろりと姿を変化させた。背後から伸びた手が私の手首をつかみ、くるりと振り向かせる。見あげれば、つややかな黒髪とつった薄青ライトブルー双眸そうぼう、黒い正装姿の若い男性が、三日月みたいな笑みを浮かべて見おろしていた。

 猫、と思えば猫っぽいかもしれない。

 よく見れば彼の背後には、ゆうらり揺らめく長い滑らかな尻尾がある。


「いかにも。私は闇の妖精猫。セレーンとはともに創世を目にした仲間であり、彼を愛する友でもある。人間のお嬢さん、今日は折り入って頼みがあり、訪ねてきたのさ」

「頼みごと? センじゃなくって、あたしに?」


 創世の時代から『世界を支える柱』と呼ばれる存在が七つあるというのは、魔法使いを志す者たちにとって馴染み深い話だ。魔法の知識を持たない一般人には魔物と呼ばれる彼らだけど、魔法使いの間では『精霊のつかさ』と呼ぶ。

 妖精猫と名乗った彼は、闇精霊のつかさだろうか。

 よりによって、大切な記念日である今日を選んでわざわざ来るなんて。悪い予感がした。


「ああ、そうさ。君は、鎖だから」

「……どういうこと?」

「セレーンの心を縛りつけ、叶わぬ夢へとつないでしまった。ねぇ、お嬢さん。夢は夜にみるものだよ? セレーンを返してくれないかな」


 すっと細めたつり目は獲物を見つめる猫のよう。

 甘くやわらかな声にざらつく棘を潜ませ、彼は言葉で私の心を削り取ろうとしていた。すぐには答えられず、息をつめて見返す。

 私の大事なセン――セレーンは、氷精霊のつかさだった。幼少の頃に氷狼かれの領域である氷原に捨てられた私は、センに拾われ一命を取り留め、彼に……恋をした。

 もう一度会うため魔法を学び腕を磨き、さいはての島に押しかけて、恥ずかしいほどまっすぐな告白でセンを戸惑わせたのが、三年前。結果的に彼は私の想いを受け入れ、今このお屋敷で一緒に暮らしている。


 世界を支える柱であったセンは、人間と違う存在だ。いうなれば『氷雪』という現象の具現化であり、ぬくもりを持たない。そこに在るだけで冷気を招き降雪をもたらす彼が人間と暮らすなど、本来なら不可能だった。

 思いやりが深く優しいセンは、人間の世界へ災害を招かないためさいはての島を選び、地下に洞窟をつくり眠りつづけることで、冷気による影響を最小限にとどめていたという。

 私は、大丈夫だから。――そう言って突き放そうとするセンの笑顔を見たとき、このままではいけないと思った。

 ぬくもりを知らないセンが、自身の抱える寂しさに気づいていないとわかってしまったから。愛されてほしいと、愛したいという願いは私が先にいだいたものだけれど、センも同じ想いだったはずだ。


「いやよ。あなたやほかのつかさたちはこうやって、人の世界へ出てきたり人と交わったりするんでしょう? センだけが、それを許されないなんて可哀想だわ」

「君の同情は人の尺度によるものだろう? セレーンは私や、他のつかさたちという友もいるし、ずっと眠っていて俗世への興味などなかったんだ。君が我儘わがままを言って、強引に、連れ出さなければ!」

「確かに、我儘を言って強引に連れ出したのは認めるわ。でも、同情じゃない。あんな真っ白で何もない、誰もいない場所で、眠り続けるほうが良かったなんて言わせない!」


 ぐ、と妖精猫が言葉に詰まったのを見る。苛立たしげに尻尾をぐるぐると動かし、彼は苦味を含んだ声でぽつんと呟いた。


「今が楽しければそれだけ……一人きりに戻ったときのつらさが増すんだよ。つかの間の時間しか生きない人間には、わからないだろうけどね!」

「それ、は」


 七柱のつかさたちを束ねる存在が、竜族。世界を創った伝説の上位種族だ。センを人間の世界に連れ出すにさいし、私はその伝説上の存在に力を貸してもらった。

 グランパと呼ばれる彼がセンに許してくれた時間は、私の一生分。人間の身体になって一緒に時間を過ごし、歳を重ね、やがて私がついの眠りについたとき、センは以前の姿である『氷狼』に戻り、再びさいはての島にて眠りにつくという約束だった。

 どうあっても、私がセンを置いて先立つ未来は変えられない。人間である私には、どうにもできないことだ。

 大好きな林檎だって種は食べられない。私とセンにとって今の時間が楽しいものだとしても、一粒の不安はずっと心に巣食っていた。それに水を注いで成長をうながす妖精猫の言葉に、私は顔を上げていられず、うつむいて言葉を飲み込む。


「ね、今なら傷は浅くて済む。セレーンが、君の死を見送って傷つく心配もない。我々にとっての三年など瞬きの時間だけどさ、人間にとって三年は大きいのだろう? もう十分に楽しんだよね」

「センを傷つけたいわけじゃないわ。でも、あんな寂しい場所に彼を帰らせるのは、絶対にいやなの!」

「絆を深めくさびを打ち込み、セレーンの心に鎖を絡めていくの? 想い出が多いほど、失ったときの絶望はなおつらいものなのに」

「呪いみたいにいわないで」


 彼の手を振り払って逃げ出したいのに、男性の姿なだけあって力が強い。腰の後ろにはテーブルがあるのでもう下がれないし、無理に暴れればテーブルを倒して会心の林檎パイを駄目にしてしまう。

 こうなったらもう、全力で反撃するしかない。妖精猫に物理攻撃が効くかはともかく、囚われたまま嫌な説教を素直に聴きつづけるようなお淑やかな女じゃないと示さねば。狙いは線の細そうなお顔、滑らかに喋りつづける下顎だ。

 カタリと響いた静かな音に、調理場の扉が開いたと気づいた。渾身こんしんの頭突きをお見舞いするつもりだった私も、思わず首をひねって扉を振り向く。癖のない銀髪を首の後ろで一括ひとくくりにした長身痩躯そうく――つまり私の大好きなセンが立っていて、微笑んでいた。


「僕の大切なひとをいじめないでくれるかな、デュエリオ」

「セン! 来ちゃだめよ、連れ戻されちゃう」


 今の彼は氷精霊のつかさたる氷狼ではなく、人間なのだ。魔法はわずかしか扱えず、剣技はまだまだ練習中。妖精猫への対抗手段を持っているとは思えない。

 けれど私の懸念けねんを笑顔でかわし、センはまっすぐ近づいてきて隣に立った。すっと双眸そうぼうを細める妖精猫――デュエリオから奪い返すように、私の肩へ腕を掛ける。


「言いたいことは彼女ではなく、グランパに奏上するといいんじゃないかな。僕は、今の日々をいとおしく大切に思っているから、誰にも奪い取られたくないよ」

「セレーン、……それがいつか崩れ去る夢幻だとしても?」

「時間が通り過ぎても、記憶は消えない。世界のり方が変わろうと、過去は幻にはならない。僕の真白い記憶こころに彼女がのこす今までとこれからの想い出は、いずれ僕の魂の一部となるだろうよ」


 とても哲学的で詩的な台詞を、幸せにとろけそうな表情かおでセンが言うから。

 妖精猫のデュエリオは何も言えなくなり、不貞腐れたようにため息をつくと私を手放してくれたのだった。





 食べていく? と尋ねたセンに適当な言い訳を返し、妖精猫は帰っていった。去る直前、唐突に女性の姿に変わって、テーブルの林檎パイを一握りほど奪っていった。腰まで届きそうな波うつ黒髪と琥珀こはく色の大きな目、大人の魅力たっぷりの身体を豪奢ごうしゃな黒ドレスに包み、つややかな黒猫の尻尾をくねらせて。

 きっと、いや確実に、私への当てつけだと思う。

 センはそんな黒猫姫を慈愛に満ちた目で見送り、欠けた林檎パイを食い入るように見つめてから、私を見て首を傾げる。


「これは、なんていうお菓子だろう」

「林檎パイ……麦粉とバターとミルクをこねて作った生地に、林檎のコンポートを包んで、シナモンを振って焼きあげるの。すごく美味しくって、あたしのお気に入りなの……」


 あれ、私、おかしい。今日の林檎パイは完璧のはずなのに。絶対の自信を持って「美味しいわ」と言えるはずなのに。

 視界に膜が掛かってゆく。ぐにゃぐにゃと歪んでゆくのは、涙のせいだ。咄嗟とっさにエプロンの端をつかみ、顔に押し当てる。年に一度の大事な日、楽しい想い出にするはずの日なのに、泣けてきちゃうなんてどういうことなの。


「うぅ……うっく、……ごめん、セン、ごめんね……、楽しい日にしよう、って、……あたしが、言ったのにっ」

「意地悪いことを言って困らせたのは、デュエリオで、シルフィアは悪くないよ」

「で、でもっ……」


 わかってる。胸を圧するこの苦しさは、悔しさと罪悪感だ。妖精猫の言葉は間違いなく正論だった。私は、いつか一人きり残されて孤独に帰るセンのつらさを、本当の意味でわかってはいないと突きつけられたから。

 偽善的な自分を暴かれた。センのためだなんて言って、本当は自分のためなのに。私自身が拒絶されたくなかっただけで、センは私の我儘に付き合ってくれたんだって、わかっていたくせに。

 今も子供みたいに泣きじゃくって、優しいセンを傷つけ、困らせている。弱くて我儘な自分が情けない。

 センはしばらくの間、私の頭を優しく撫でていた。それでも私がなかなか泣きやまないからだろう――撫でる手を止め、ふいに囁いた。


「シルフィア。林檎パイは、どうやって食べるの?」

「ん……っく、丸いケーキと、っく、一緒、……っん、欠け、ちゃた……けどっ」

「まだたくさん残ってるよ。君が三年をついやして焼いてくれた林檎パイ、どんな味がするか楽しみだね」


 ――えっ、と。

 思わずエプロンから顔を離して、私はセンを見つめる。泣きすぎてぐずぐずになっているだろう私の顔を見ても、センは笑ったりしなかった。懐かしいものでも見るように、欠けた林檎パイを眺めている。

 いつからばれてたの、私の、三年計画。


「あの、あたし……林檎が大好きなの。あのとき、あたしに食べさせようとセンがどこかから探してきた林檎、すごく美味しかったの。あの林檎が、大好きなひとから一番最初にもらったプレゼントだったの。あたしが寂しがって泣いてたとき、養母ママがあたしの林檎好きを知って、林檎パイを焼いてくれたの。だから……あたしの想い出の味、センにも食べて欲しくって」

「シルフィアにとっての『優しい記憶』だね。うん、これを食べれば、悪い猫だって改心するに違いないよ。だから僕たちも、お茶会をはじめようか」

「……うん」


 優しい言葉に背中を押され、私は、ぽろりと落ちた涙を袖でぬぐって顔をあげた。思わぬ邪魔が入ったけれど、今日が大切な記念日だってことは揺るがない。いつかは終わってしまうとしても、この時間が幻にはならないと、センは言ってくれたのだから。

 お湯を沸かしながらティーポットに茶葉を入れる。林檎パイを切り分けていたセンが、ふいにふふっと笑い出した。


「どうしたの?」

「うん、だって、料理は人間の楽しみだもの。煮たり焼いたり、混ぜたりこねたり、僕たちにはまったく思いつかないなって思って」

「……そっか。あのときもセンは、林檎の皮をむくとか切り分けるなんて考えてなさそうだったもんね」

「うん。林檎って、赤くて綺麗だなってしか考えてなかった」


 つい、つられて笑いをこぼせば、センも楽しそうに笑う。

 彼は、優しい。出会ったときも再会したときも、人間になってからも。優しくたしなめることはあっても、私の願いを否定したり叱りつけたりしたことは一度だってなかった。

 自分がどれだけ彼に甘えてきたかを唐突に自覚し、胸が苦しくなる。止まったはずの涙が、再びあふれてこぼれ落ちる。


「……ごめん、ね、セン。……楽しい日にする、つもりだったのに」


 さっきみたいな激しい嗚咽おえつはなかったけど、顔も声もひどくって情けなかった。エプロンで涙を拭っていると、手を止めたセンが側にやってくる。


「笑顔ばかりが想い出ではないよ。悲しみの涙も、怒りも、君の心の形なら、僕はぜんぶ愛おしいと思う」

「でも、あたし……センに我儘を押し付けてるんじゃないかな……?」


 肩に触れたセンの手が、私を強く抱き寄せた。泣きすぎて鈍くなった鼻でもわかる、生身の匂い。

 小さかった私を包んでくれた大きな翼はもうないけれど、代わりに今はやわらかな体温が伝わってくる。


「自分を言い表わすことばは『私』じゃなく『僕』を使ってみたいな、とか。リボンの手触りが気に入ったから髪を伸ばしてみようかな、とか。シナモンは匂いがきついけど林檎が美味しくなる不思議調味料だとか。一つ一つの経験を、発見を、僕は毎日楽しんでるよ」

「シナモン、苦手だった?」


 思わず聞き返せば、センは身を震わせて笑った。


「ううん、苦手じゃない。組み合わせる楽しみ方もあるんだって、知れたことが僕は嬉しくて。君の言葉が、君の心が、僕の世界にいろをともしてくれる。さいはての島では知ることのなかった幸せを、僕は毎日君から受け取ってるよ。ありがとう、シルフィア」

「センは、あたしが死んじゃっても、……ちゃんと幸せに生きていける?」


 ずっと怖くて避けつづけていた問いを、息に乗せてそっと尋ねる。センが人間の世界に来て三年。私だってもう子供ではないのだ。ただ一緒に時間を過ごす以上の絆を、彼に願っていいのだろうか――と、思うのだ。

 私の髪に頬を寄せ、センが囁く。


「わからない。そのときは悲しくて、沈み込むかもしれないけど……きっと大丈夫だよ」

「わからなくても、一緒にいていいの?」

「うん。僕は、君と一緒に生きたいと思ってる」

「あのね、セン、あのね」

 

 思い切って「キスしてほしい」とねだったら、センが嬉しそうに「もちろん」と言ったので、私はセンの胸元に手を置いて顔を上向ける。跳ね回りすぎて喉から飛びだしてきそうな心臓を押さえつけ、目を閉じて待つ。ふっと顔に影が掛かり、息遣いが近づいて――、


「ふぐっ……!?」


 なぜか、鼻と鼻が触れ合った。思わず変な声が出て目を開ければ、嬉しそうな笑顔が至近距離にある。

 人間の世界に来てもう三年になるのに、センってば肝心なところは狼のままだ。


「えぇっと、セン。鼻コッツンは人間の世界だとキスに入らないの」

「そうなの?」

「もうっ。仕方ないからあたしが、教えてあげるわ」


 センの想いがこもっているなら、鼻コッツンのキスでも構わないけれど。少しずつ、一つずつ、人間の愛情表現をも覚えていってほしい。

 そうしていつかは彼から――そう願いを込めて、私は伸ばした腕を彼の首に回し爪先立ちになると、触れるだけの口づけを贈ったのだった。



 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

記念の日には、林檎のパイを 羽鳥(眞城白歌) @Hatori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ