飛ばない喫茶店
浅瀬
飛ばない喫茶店
自転車を走らせてちょうど十分の位置に、その店はある。
飛ばない喫茶店。
それが店名だ。眼鏡をかけた初老のマスターは、飛ぶ教室という本から店名をもじったのだと教えてくれた。
ななみが宿題を持って、飛ばない喫茶店の扉をひらくと、少しきしんだドアの音と中から香ばしいコーヒーの匂いがした。
「いらっしゃい」
カウンターから顔をあげて、マスターはにこりともせず口にする。
ななみは軽く会釈して、カウンターの前を通り過ぎて本棚の並んだ前へ、いくつか置かれた小さなソファに腰かけた。
ソファの横にある小さなテーブルに、マスターが水を置いてくれる。
ななみは水を一口ふくんで、口の中を湿らせてから「コーヒーフロート」をたのんだ。
宿題を鞄から出す前に、ふと本棚のとなりの棚に飾られたドールハウスが目に入る。
「…かわいい」
呟いて、よく見るために席を立った。
ドールハウスには看板がついていて、レトロな店を模している。
「…ぎりぎり堂…」
ななみが声に出すと、ドールハウスの中にぽっと灯りがともった。
そして、小さく扉をきしませて、中から出てきたのは。
きりぎりすだ。どうしてか黒のスーツをきっちり着込んで、タイまでしている。
ななみと目が合うと、きりぎりすは「おや」と声をあげた。
「なにか見ていく?」
「え?…」
「お客じゃないの、きみ?」
どう答えていいか分からず口籠ったななみに、きりぎりすがウインクした。
「見ていったら? 見ていくだけはタダなんだからさ。まあおすすめは色々あるんだよ。見ていってくれれば、きみにも良さが伝わるかもね」
きりぎりすが示した店内にはずらり、豆本が小さな本棚に飾られていた。
「本屋なの?」
「そうだよ」
ななみは指先で、豆本をつついた。
「どんなお話が載っているの?」
「僕はね、流しでギターをやっていたの。まあ色々な町へ行ったよね。色々な奴に会って人生の色々を聞いてきた。そういうのをまとめて本にしたんだ。ここは彼らの人生が詰まった本屋でもある」
僕の話もあるよ、ときりぎりすが一冊の豆本を渡した。
ななみは指先でぺらぺらめくる。
夏の間遊んでいたきりぎりすが冬になって蓄えがなくて困る話だ。
「…僕にはギター一本あれば、夏まではまあ有意義に暮らせるんだよ。ただ冬になっちゃね。聞いてくれる奴もいなくなるだろう?…どうしようか考えて、今まで出会った奴らから聞いた話を売り物にして、商売することにしたんだ。まあまあ繁盛しているよ。僕、センスだけはいいって褒められるから」
ななみは豆本をキリギリスに返した。
「今日は宿題しなきゃいけないから、また次に読ませて」
「……宿題か。きみも大変だね」
「うん」
「子供のうちはたっぷり勉強、大人になったらたっぷり仕事をするんだろう?……きみらは僕より人生に時間があるぶん、大変な時間も多いんだね」
「うん」
ななみはひらひら手を振って席に戻った。
クリームたっぷりのコーヒーフロートをトレイにのせて、マスターが歩いてくる。
「ぎりぎり堂の会計はぎりぎり堂ですませてね」
ぼそりと愛想なく言われて、ななみはマスターの顔を見た。
「……一冊300円だったかな。読んでいらなかったら、半額くらいで私に売ってくれてもいいから」
「マスターは自分で買わないんですか?」
ちらりときまりわるげにマスターが目を逸らす。ふたたびななみの方を見たとき、照れくさそうな色が瞳に見えた。
「……こんな強面のおじさんがドールハウスをのぞくのはちょっとどうかと思うでしょう」
ななみはくすりと笑った。
いいえ、と首を振る。でもたまに、ぎりぎり堂で本を買って、ここで読んだら、帰りにマスターに渡してもいいかもしれないと思う。
コーヒーフロートをすすって、ななみは宿題にとりかかることにした。
おわり
飛ばない喫茶店 浅瀬 @umiwominiiku
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