第5章 贖罪

 武本誠たけもとまことから連絡が来たのは一週間後だった。張品睿チャン・ビンルイに連絡し、家に来てもらって構わないとのことだった。空港まで迎えに行きたいところだが、足を痛めてしまっているらしい。今日中に伺う旨の伝言をお願いした。別件の対応を済ませてから成田空港へ向かう。直属の警部補に電話を入れると、応援を待てと言われたが先に入って現地を偵察すると突っ返した。自分のような部下は悩みの種だろう。しかし、この件に関してはたとえ危険だとしても一人で彼女リン・シュウフェンに会って真相を明かさないと子供の頃の自分が悲しむ気がして、どうにも止められないのだ。仕事以外で男の人と二人で会うのは未だに気が引けるがそれどころではない。

 

 台北松山タイペイソンシャン空港に着いたのは十三時前だった。タクシーを拾い、三十分ほど北東へ走ったところにある基隆市内の張品睿の自宅に到着した。公寓ゴンギュウの二階が住まいだと聞いている。公寓とは台湾で一般的な住居のことで、日本のアパートに近い造りをしている。

 インターホンを押し、暫くしてから松葉杖をついた男性がドアを開けた。

 「はじめまして。你好リーホゥ。こんにちは。武本さんから話が入っていると思いますが、日本の刑事の椎名マリといいます。この度はご協力いただきありがとうございます。」

 小学生の時の記憶を思い出しながら拙い台湾語で何とか挨拶を済ませた。

 「お土産と言ってはなんですが、これは千羽鶴といいます。千羽も折れていませんが、日本の文化のひとつで、怪我が早く治るようにという意味があります。」

 「多謝ドーシャー。ありがとう。大事にしますね。家の中、散らかっていますが、どうぞ、お入りください。」

 リビングに通され、ソファに腰かけた。家の中は意外にも写真がほとんど飾られておらず、林淑芬リン・シュウフェン張品睿チャン・ビンルイのツーショット写真がテレビ台に置かれているだけだ。

 「遠いところ足を運ばせてしまい、すいません。春先に仕事中に転んでしまいまして、この通りです。」

 張品睿は自分の右足に巻かれた包帯を撫でた。

 「いえ、急なお願いにお答えいただきありがとうございます。」

 「武本さんから、日本で淑芬シュウフェンが事件の容疑者として疑われていると聞いた時、僕は心がとても痛みました。彼女は、そんな、人を殺してしまうことなんて出来るはずがないと思いました。実家の格式が高かったのもあるかもしれませんが、教養があって穏やかで、なによりも人に優しいのが取り柄の人です。今でも無実を信じています。」

 表情が無くなりつつあり、アデールの両親と重なった。

 「お気持ち、わかります。実は、私は小学生時代に台湾インターナショナルスクールでリン先生のいち生徒として同じ時間を過ごさせていただいたことがあります。幼いころに母と離れ離れになったこともあり、心の中で勝手ながら母親像として見ていました。」

 「武本さんからも伺っています。ですので、今回、協力したいと思えました。彼女のことを何も知らないメディアやインターポールには本音で話したくありませんでした。」

 拳を握る強さから、悔しさが伝わってきた。

 「私も、今回の事件の真相を明かし、リン先生を本当の意味で救いたいと考えています。

 早速とはなりますが、こちらの【家族】についてもお話をお聞きできますか?」

 「はい。その本は僕の写真家人生のひとつの区切りとして製作しました。今でこそ、台湾は民主主義国家としての体を保てていますが、僕が生まれた一九七二年頃は権威主義の国でした。自分たちが中国人なのか台湾人なのか分からないという人が沢山いました。この世代の人たちは、どこかアイデンティティを確立できていない感覚のまま大人になっているのではないでしょうか。幸いといいますか、僕は両親が昔から使っていたカメラを譲り受けたことで、写真の中に物事の色んな側面を見出だし、アイデンティティに悩むよりも写真を撮ることに興味を向け続けられました。家族に救われました。それで、データも揃ったので二〇一七年中に発刊しようと武本さんと話していたのですが、前年に台湾インターナショナルスクールで酷い事件があり、淑芬シュウフェンから離婚を切り出されました。一旦は落ち着いたように見えたのですが、見かけ上に過ぎなかったのかもしれません。暫く経ったら表情が無くなりつつあることに気付き、解決案を幾つか出したのですが、最終的には受け入れるしかありませんでした。それからもう五年になります。」

 外で野鳥のジャワハッカが長閑のどかに囀った。

 「去年の冬、インターポールから連絡があり、淑芬シュウフェンが戻ったら連絡するよう言われました。どこかの国で彼女に何か起きたのか、聞いても教えてもらえず、ただただ彼女の安否が気になりました。今年の初め頃、基隆市の郊外で仕事をする機会がありました。あれは神様がくれたギフトのように思います。彼女が七堵しちと駅で電車に乗っているのを見かけました。電車が動き出したので、思わず追いかけながらシャッターを切ったのですが、足元に気が回っておらず、ホームから落ちてしまいました。さっき、転んだと話したのはこのことです。もう少し早く見つけて話しかけていれば、今頃どうなっていたか。それ以降の足取りは分かっていません。」

 「そうでしたか。この本は、色んな思いが詰め込まれた作品なのですね。不思議と、この本を持っていると、心が温かくなって自分の家族のことを許せるような気がしてきます。情報のご提供もありがとうございます。」

 林淑芬リン・シュウフェンが台湾国内にいる可能性が高まった。ただ、一人で見つけるのは難しい。国際逮捕手配書がなくてもインターポールは協力してくれるだろうか。

 「あの、妻、いや彼女はたとえ罪人だとしても、悪人なのでしょうか?"正義的"悪を選択したのではないでしょうか?本物の悪を野放しにしているとどんどん事態が悪化します。それを止めたとしても、彼女は捕まるしかないのでしょうか?」

 砂漠の地で枯れ果てようとしていた植物に雨が降り注がれたように、目に熱を持って張品睿チャン・ビンルイが問うてくる。私は、上手く返す言葉が浮かばなかった。

 「現在、確かに林淑芬リン・シュウフェンさんは『奥多摩山中"遺体無き"殺人事件』の容疑者として浮上しています。だけど、私も彼女が無罪であることを心の底では願っています。」


 帰り際、

 「絶対とは言えませんが、苗字の輪番制で主催を担当する鶏籠キールン中元祭というものが明日から開催されます。今年は『林』姓の一族が予定されています。もしかしたら、彼女はそこに来るかもしれません。

 あの、もし彼女に会えたら、いつでも思ってると、伝えてくれますか?」

 「はい。分かりました。きっと、必ず、伝えます。多謝ドーシャー。ありがとう。」


 結局、インターポールへの協力申請はせず、しらみつぶしに林という苗字の人を中心に聞き取りを行うことにしたが、手がかりはつかめないまま時間だけが過ぎていった。

 途中、本部から一件の連絡が入った。捜査の一環とはいえ上司の指示を無視する形で一週間が過ぎてているため、帰署命令かと思ったが、奥多摩の例の男が林淑芬リン・シュウフェンとは無関係の要因で死亡して発見されたとの内容だった。ふーーと肺の中に溜まっていた空気を吐き出し、新しい空気をいっぱいに吸い込んだ。

 有給休暇がたまっていたので申請を出してスマートフォンの電源を切った。


 鶏籠中元祭の最終日、あの世へ送り返す儀式を行い、もうすぐで門が閉めるタイミング ―黄色を基調として青色や白色で豪華絢爛にライトアップされた主普壇という祭場がひと際、輝くとき―マリの視線がリンと重なった。十五年の月日が彼女たちの関係性を大きく変えたが、その瞬間だけは彼女たちにとって懐かしさで心が温まるような感覚があった。


 二人は自然と歩み合い、手を握り合って見つめ続けた。

 林が先に口を開いた。

 「マリちゃん」

 堪えきれず、マリの頬を鮮やかな線が走った。

 「先生…」

 林は当時よりも瘦せ細っており、憔悴した顔つきではあるが瞳の輝きから、優しい彼女がまだ生きていることを感じられた。

 「どうしてここに?」

 「話すと長くなるのですが、林先生に会いたくて、もしかしたら会えるんじゃないかと思って、来たのです。」

 林の口元に笑みが浮かび、マリは少女が抱くような瑞々しい喜びが涌いた。

 「マリちゃんが日本に帰った後、暫く文通したことを覚えているわ。急に返せなくなってごめんね。悲しいことがあって、それもだけど、その時に感じた考えをどうしても受け入れられなくて、色んなことから逃げてしまったの。時々、自分が何者なのか分からなくなる時があって、気を紛らわして生きてきたのだけど、その時はどうすることもできなかった。いっとき、奥多摩に居たこともあるの。でも、そこでも悲しいことが起こった。それで、その時、マリちゃんのように考えることが出来なかった。あったのは絶望だけかな。台湾に戻った。また逃げたのね。毎日、日本のニュースを見てた。でも、一向に報道はされなかった。それでも、万が一のことがあったらと思って、知り合いやスクールに近づくことができなかった。もし、私のせいで、人が亡くなるようなことがあったら、多くの人を苦しませてしまう。それなら、忘れてもらうしかなかった。今日は、悩んだのだけど、アデールちゃんを弔いに来たの。」


 私は林の手を一層、強く握った。

 「そうだったんですね。先生、私…。

 まずは、安心してください。先ほど、署から連絡があり、先生が気にされている男はその後、暫く廃屋に潜伏していて、持病の悪化で亡くなっているのを発見されたようです。」

 林はマリがなにを言っているのか分からなかった。

 「え、署って、どういうこと?」

 「私も台湾インターナショナルの卒業後のお話をしなきゃですね。中学、高校と卒業して、大学で大切なパートナーと出会いました。名前は高橋美沙といいます。彼女と国連について研究するゼミに入り、結果的に刑事を志しました。そして、幸か不幸か先生に関する事故の調査を担当することになったのです。もし先生が犯罪を犯してしまっていたらと思うと胸が痛みました。」

 リンの表情はすっかり、昔のように穏やかさそのものに戻っていた。

 「マリちゃんはずっと優しいのね。」

 「先生のお陰です。今でこそ言えますが、先生のことをずっとお母さんとして見ていました。」

 「そうだったのね。嬉しい。わたしはマリちゃんだけのことを、本当の子供のように見てたわ。ここだけの内緒ね。」

 二人は永く永く、抱きしめ合い、長きに渡る苦しみや葛藤を感じ合った。


 「先生はこの後、どうするのでしょうか。」

 「そうね、わたしは自分とか自分の考え方を責め続けることをやめられたらいいな。そして、元気になったら、その時はまた、教壇に立ちたいと思います。」


 

 冥界へと続く門が閉ざされた後も彼女たちは向かい合い、立ち続けた。

 どこか遠くの方から、カメラのシャッター音が聞こえた、気がした。

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