第4章 私刑

 日本に来て奥多摩の地に移住し、三年が過ぎようとしていた。

 七月の日本は台湾と変わらないくらい蒸し暑く感じられる。この時期、品睿ビンルイと過ごした基隆キールン市では「鶏籠中元祭キールンちゅうげんさい」が催される。あの世の門である「鬼門」が開くとされ、死者を悼み平和を祈るための祭典のひとつだ。約一ヶ月間、豪華絢爛な雰囲気で昼夜を通して開催されるため、期間中は何度も参加したものだ。ある時、品睿ビンルイはわたしに「死についてどう思うか」と聞いてきたことがあった。当時はただ恐れる対象であり、死んだことがないから考えたこともないわ、と返した。品睿ビンルイはわたしの目を見て、「誰かの死の意味は、生きている者が見出す。僕はいつか、写真を通して生死観を訴えかけていけるような人になりたい。」と、言って照れくさそうに歩いて行った。わたしは、そんな彼を傍で支えたいと思った。

 しかし、そんな淡い夢は儚く砕け散ってしまった。

 あの現場を目撃して以来、というより、アデールの両親を見かけて以来、日に日に精神が不安定になるわたしは、これ以上、夫に心配をかけさせたくないという思いから、意を決して品睿ビンルイに離婚を切り出した。両親から実家に戻ってくるよう言われたが、自分のことを知らない場所に身を置いて、自分と向き合いたいと願った。行く当てを考えあぐねていた時に、テレビの特集番組で日本の奥多摩町での生活を知った。異国の長閑≪のどか≫な地に身を委ねれば何か変わるのではないかという期待を胸に抱いた。両親も渋々、理解してくれた。日本での生活が落ち着いたら遊びに来てもらおうと思った。


 わたしのことを知らない環境は想像よりも遥かに大きな安心感を与えてくれた。文化の違いが心と身体をリフレッシュさせてくれる。日本の調理方法や慣習に慣れてきたあたりで、町立の小学校から台湾語の特別授業の依頼が来た。そろそろ仕事を探さないといけないと考えていたタイミングだったので良い機会だと思った。子供たちに囲われ、台湾インターナショナルスクールでの楽しかった部分の思い出が蘇ってきて懐かしさを感じた。やっぱりわたしは子供たちと一緒にいるのが好きだ。


 十月のある夕方。久しぶりに台湾おにぎりを作って夕食を摂ろうと考えていた。台湾に居た頃には食べたことのなかった日本のお米が気に入り、ストックが切れていたので近くの無人販売所に向かうことにした。この時期の奥多摩の夜は冬の気配さえ感じられるときがある。ニット帽をかぶり、手袋をした。

 販売所に着いて二キロのお米を購入してお店を出た時、隣接する小屋から人の気配があった。直後、過去の現場がフラッシュバックしかけたが、なにか問題が起こっているのか確かめずにいられなかった。裏手に回り込み、中を覗くと黒い革ジャンを着た細身の男が少女を暴行していた。そこからの記憶は少し混乱している。入り口から入って男の後頭部をめがけて米袋で叩きつけたような気がする。男は倒れて動かなくなったが呻いていたと思う。とにかく急いで少女を背負い、駐在所へ向かった。

 とりあえずの事態が落ち着くと同時に、自分の中にある『問題を起こす側はどんな手を使ってでも処罰されるべき』という思考はどこにいても一生、変わらないということを突き付けられた。残りの人生を思った時、どこにいても同じならやはり母国で、ただし、出来るだけ人と接しないという戒めを持って過ごそうと誓った。

 翌日のうちには家を引き払い、基隆キールン市の郊外に戻った。

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