晴、陰りを穿つ

栞音志岐

晴、陰りを穿つ

「じゃあ文化祭実行委員は雨森と晴谷で決定な」

 一瞬、何が起きているのかがわからなかった。俺、雨森憐あめもりれんはこの二年二組の空気だ。去年の文化祭のときは日程を忘れてしまって準備を一回サボっても何も言われなかった。少し遅れて、何か担任の教師が確認をとっているようだったから顔を起こし返事をしたのが悪かったのかもしれない、と思い至った。

「雨森君、よろしくね?」

 ホームルームが終わり、一人の女子が俺に声をかけた。晴谷明音はれやあきねだ。教室の騒がしさの種類が変わった。彼女は明るい性格で常にクラスの中心におり、いわゆる「陽キャ」だとか「リア充」と呼ばれるタイプの人だ。つまりは俺の正反対に位置する人物。どうやら学年でも有名らしく、名前くらいは把握していた。だからこそきっと関わる日は来ないだろうと思っていたのだが……

「ああ、よろしく」

 そう返すと彼女は少し笑って見せて、仲の良いグループと思われる人たちの元へ歩いていった。


 その日の放課後にあった実行委員全体の集まりを終え帰路につこうとした際、再び彼女に声をかけられた。

「ねえ、良かったら一緒に帰らない? 今後の進め方とかについて少し話したいんだけど」

 こう言われてしまったら断るすべもない。軽く返事をすると隣に並んで歩き始めた。

「あまり時間に余裕は無いみたいだから初回のクラスでの話し合いのうちに出し物は決めたいよね。それでその時の進め方なんだけど……」

 少し驚いた。大体の情報を頭で処理しながら話を聞いていたのか、方針の案がすらすらと出てくる。しかもその全てがこれといった欠点のないものだ。そうして少し呆けて黙っていると、

「どうしたの?」

 と、俺の顔を見上げるようにして訊いてきた。

「ああ、ごめん。少し驚いててさ。頭がいいとは知ってたけどこの段階でこれほどの見通しを持てる人だとは思ってなくて」

「まあ、私だからね。このくらいは楽勝だよ。でもそうは言いつつ雨森君も同じくらいのことは考えてたんでしょ?」

「流石にそこまでは。確かに何も考えてなかったわけではないけど」

「じゃあ、取り敢えず今話したような感じで進める、ってことでオッケー?」

「ああ、そういう感じで」

「……それにしても、雨森君って意外と話しやすいね。いつも席で本読むか勉強してるかだからあまりコミュニケーションが得意じゃないのかと思ってた」

「別に人並みにできるってだけだよ。日常会話もまともに成立させられないんじゃ困るし。それに意外と言えばそっちこそ思ってたより自己評価高いな。謙遜されるかと思ったときにされなくて驚いた」

「あーそのこと。普段は見せないようにしてるんだけどね。雨森君は多分これを吹聴したり私を避けたくなるほど疎ましく思うタイプじゃないでしょ? 私、人を見る目にはそれなりに自信があるからさ。まあ少し楽に振る舞うくらいは良いかなって。そのほうが信頼されそうな気もしたし」

「確かに信頼って点ではそうかもな」

 そんな話をしているうちに駅に着いた。

「じゃあ雨森君、また明日」

「ああ、また明日」

 こうして俺の高校生活史上最も不自然な一日は終りを迎えた。


 今日一日を通して、晴谷明音の鋭さと気遣いの丁寧さを知った。まさか初対面とそう変わらない相手に性格とかをこうもあっさり見抜かれるとは。それにその上でそこに踏み込む際も俺を傷つけまいという気遣いが伝わってくる。クラスで人気な理由ってこういうとこなんだろうな……


 翌日、晴谷の計画性のお陰かクラスの出し物は「和風喫茶」に決まった。要望の多かった「メイド喫茶」と「タピオカ店」の折衷案が出るように誘導した手腕は見事だった。

 我が校の文化祭では生徒の豊かな発想を促す目的で、多様性を重視する方針を採っている。そのため、もし似た企画があった場合、各クラスはプレゼンを行い、それに基づいた生徒会の審査によってどの企画を通すかを決める。つまりどうなるかというと……


「企画自体は面白いんですけどこれは多分プレゼン対決になりますねー」

 翌日の放課後、俺と晴谷は生徒会の役員に企画の草案を説明していた。

「やっぱり喫茶店ってジャンルは人気も高いのでどうしても毎年プレゼンになっちゃうんですよね。今年は現時点でおたくのクラスも合わせて5クラスですね」

 ふわふわとした印象の女子生徒が続けた。

「現時点で特にここはアピールすべきとか、逆に補足が必要な部分を訊いても大丈夫ですか?」

 晴谷の質問に対し彼女は、

「ごめんなさい、あまり細かいアドバイスはしちゃいけない決まりなんです。ただ、安全面への配慮が足りていない場合はどんなに魅力的な企画でも簡単に落ちる、ということだけは伝えておきます。これを伝えておかないと最悪の場合全クラスが落ちるってこともあり得るので」

「なるほど……わかりました。ありがとうございます」

 晴谷がそう言ったのに合わせて俺も軽く会釈し、教室を出た。


 その後少し歩きながら晴谷と話していた。

「来週にはもうプレゼンだから安全面くらいは今週中に決めたいよね。今日が水曜日だから明日と明後日。雨森君は用事あったりする? もしあるなら遠慮なく言って、調整するから」

「いや、特に予定は入ってないからがっつり居残れる。それよりそっちは大丈夫? 俺よりずっと多く予定が入ってそうだけど」

「それなら大丈夫。私なら多少誘いを断っても理由さえ説明すれば特に問題は起きないから。なにせクラスの中心にいるわけだしね。そのくらいは十分許されるよ」

「それは良かった。じゃあまた明日、俺はクラスに忘れ物したっぽいから取りに行ってから帰るわ」

「わかった。じゃあね」

 こうして俺たちは別れ、俺は一人教室に向かった。


 教室に着くと、部活終わりと覚しき男子生徒が数人固まって話していた。

「なあ、あの雨森ってやつを実行委員にしちまったの、ぶっちゃけ失敗じゃね?」

「それな。実行委員決まってから晴谷との距離もやたら近いし」

「てかあいつ役に立ってなくね? 出し物決めたときもほとんど晴谷一人で進めてたし」

 などなど、内容はどうやら俺の悪口のようだった。話題が終わってから入ろうかとも一瞬悩んだが、こいつらのために帰る時間を遅らせるのも馬鹿馬鹿しいと思い、素知らぬ顔で教室に入った。すると彼らは驚いたような顔をして、俺がいる間は黙っていた。そして俺が教室を離れるとまた話し始めた声がかすかに聞こえた。


 俺はこの「役立たず」という評価に違和感を持ってはいない。事実、現状の仕事は大体晴谷に任せてしまっているのも事実だ。もとより俺はこの仕事に見合った力を持つ人間じゃない。むしろ俺が主導したらどうせ失敗するのだから、今の状態は正しいものに近いとさえ思う。とにかく、晴谷に迷惑をかけず、あわよくばサポートまでできるようになる、というのが今俺が自分自身に求めるべきものだ。そんな考えを巡らせて、その日は早めに寝た。


 それから一週間、俺たちは順調に準備を進めプレゼンに臨もうとしていた。会場となった教室には生徒会役員が発表者を囲むように座っており、なかなかのプレッシャーを感じる。

 プレゼンは俺たち二人が交互に話すという形で順調に進んでいたのだが、途中でトラブルが発生した。俺と晴谷は話す内容のほとんどを暗記し、表現の部分で他のクラスと差をつけるという作戦を採っていたのだが、どうやら晴谷は、緊張のせいで話す内容が頭から飛んでしまったらしい。

「あ、えー、えっと……」

 どんどん焦りが大きくなっているようで、晴谷のまごつきはどんどん悪化している。

「ここまでこの企画の利点について説明していましたが、いくつか問題が起こることも予想されます。特に重要になってくるのは、当日にキャストと客の双方の不利益を防ぐことです。その要因として主に考えられるものは接客における失礼と客側からの迷惑行為です。それへの対処として……」

 このままプレゼンに負けて晴谷の努力を無駄にするのは忍びない。そう思いこの場での説明を一旦代わることにした。狼狽えて涙目になりかけている晴谷にアイコンタクトを送ると、素早く冷静さを取り戻し俺の意思を汲み取ってくれた。俺が晴谷の分とその次の俺の番の説明を終えると、晴谷は今日の発表で一番落ち着いた声で話し始めた。それからの説明での手応えは強くなり、トラブルはありながらも俺たちは無事にプレゼンを切り抜けることができた。


 プレゼンを終え教室を出るとすぐに、晴谷が謝ってきた。

「ごめん! 私のミスのせいでプレゼンが止まっちゃって、しかもフォローまでしてもらって…… 本当になんとお礼すべきか…… とにかくありがとう。雨森君のお陰で取りあえずはなんとかなった」

「いやいやそんな、驚きはしたけど普通のことをしただけ。別に晴谷が気に病むことじゃないし、お礼とかはほんとに大丈夫だから。普段から助けられっぱなしだったし」

「そうは言っても…… 何もお礼しないわけには……」

「じゃあ逆に、俺がさっきの晴谷みたいになってたら何もせずにほっといたか? そんなことをしたらクラスの希望が通らなくなるんだからそんなはずがない。だからこれは晴谷のためじゃなくてクラスや自分のためにやった。オーケー? 納得できた?」

「そこまで言うなら気にしないようにはするけど…… でも私は完璧主義だから。絶対にこの借りは返すよ。じゃなきゃ沽券に関わる。雨森君が自分やクラスのために私をフォローしたなら私は私自身のために雨森君にお礼をする。これならそっちも納得できるでしょ?」

「はあ、なんでそこで急に意地を張るんだ…… わかった、いつかお礼はいただくことにするよ」

 このまま議論を交わしていても向こうが折れてくれる気配は見えなかったのでこちらが折れることにした。

「じゃあ雨森君は何か欲し……」

「特に」

「回答はやっ。流石に最後まで質問は言い切らせてよ。無欲なタイプだろうとは思ってたけど。じゃあどこか行き……」

「無い。というかそれ聞いてどうするんだよ。仮にブラジルとか言ったらそこまで連れてく気だったの?」

「あれ? 雨森君お礼は受け取るって言ってたよね? もしかして受け取るお礼をなくせば受け取らなくて済むとかそういう……?」

「いや別にそのスタンスを取ろうとしてるとかじゃなくてね。こっちが物を贈ったわけでもないのに金絡みのお返しをされることに抵抗があるってだけなんだよ。そもそも今日までの準備での働きは十分『借り』に値するとさえ思ってるくらいだし」

「なるほどね。でもそれで返したことになんて絶対しないからね。まあそっちが物とかで返されるのが嫌って言うなら仕方ないね。じゃあ、このお礼はいつか必ず、精神的に、ってことで!」

 こう言って笑う彼女の姿は、とても眩しく見えた。


 翌日の昼休み、珍しく俺に声をかけてくる人がいた。

「ねえ、昨日のあなた、一体どうしたの? まるで中学の頃に戻ったみたいだったじゃない」

 涼海冷花すずうみれいか。このクラス、この学年で唯一、俺と同じ中学出身の生徒だ。生徒会で会計を務めており、昨日のプレゼンにも立ち会っていたのだ。

「別に。必要だったから助けただけだよ。他意はない。そっちこそ急にそんなこと訊いてどうした?」

「そう。また前と同じような環境を望んでいるのかと思って驚いただけよ。最初にあなたを校内で見たときは本当に驚いたわ。まさか私と同じ志望校の人がいただなんて思ってもみなかったもの」

「そのままそっちにお返しするよ。こっちだって人に合わせてここ選んだわけじゃないし」

「まあこんな雑談はどうでもいいのだけれど。もしまた昔みたいな自分に戻るつもりなら気をつけなさいよ。私は何があったのか詳しくは知らないけど、当時のあなたが苦しかったことは今のあなたを見ていればわかる」

「安心しろ。別にまたああやって振る舞おうって考えてるわけじゃないから。忠告してくれたことには感謝するけど」

「そう、なら良かった」

 そう言って彼女は去っていった。


 その次の日の放課後、俺と晴谷は再びプレゼンを行った教室に来ていた。

「では、これから第一次プレゼンの結果発表を始めます」

 前で生徒会長の男子生徒が話し始めた。隣に座る晴谷を見ると、表情から強い不安と緊張が伺えた。

「晴谷、大丈夫か?」

 と聞くと、

「ギリギリ平静は保てる」

 ……と、どう考えても大丈夫じゃない答えが帰ってきた。流石に気の毒に思えたので、

「あの晴谷が頑張ったんだから大丈夫だって。落ち着いて結果発表を待とう」

 と声をかけると、

「……うん、そうだね。大丈夫。優秀な私が頑張ったんだから大丈夫。加えて言うなら雨森君もいたし」

 少しはリラックスしてくれたようだ。絶対に無意識だろうが皮肉を皮肉で返された感じはするけど。

 そうこうやり取りをしているうちに話は進んでいたようで、もう飲食部門の結果発表が始まろうとしていた。

「では、飲食部門で重複の多かった喫茶店のプレゼンの結果を発表します。審議の結果、喫茶店の開催は二年二組に担当してもらうことになりました。宜しくお願いします」

 なんとか上手くいったらしい。横を見ると、晴谷が小さくガッツポーズをしていた。


 その後の発表も滞りなく進み、無事に完了した。帰路につきながら俺と晴谷は話していた。

「やったね、雨森君! 私達の勝利だよ!」

「そうだな。なんだかんだ通すことができて良かった」

「さて、ひとしきり喜んだところで、この後どう動くかを決めようか。まずは次のクラスの集まりでメニューを募ろうか。次は決定したメニューを作れる人を中心に厨房担当を決めよう。それから……」

 相変わらずこういう仕事にはめっぽう強いみたいだ。必要な作業がどんどん出てくる。その様子を眺めていると、

「ん、どうかした?」

「あ、いや、改めて感心してただけ。やっぱりこういう仕事得意なんだなって」

「まあね。というか似たやり取り前にもしたことあったよね。確か実行委員決まった日」

「ああ、そういえばそうだったな。晴谷の印象はその時からあんま変わった気しないな。まだ初会話からそこまで時間経ってないけど」

「そう言う雨森君の印象は結構変わったよ。前より明るく、話しやすくなった。別に最初が話しづらかったわけではないけど」

「そうなんだ。意外と気づかないもんだね、自分の変化って」

「え、ごめん、意識的にやってたのかっと思ってた。私に少し合わせようとしてるのかなって」

「いや別に謝ることでは。それにしても俺の変化ってそう見えてたのか…… ありがとう、良い発見だった」

「どういたしまして…… あ、そうだ。意外とか発見と言えば、雨森君って冷花と知り合いだったんだ。全然接点なさそうなのに、すごい意外だった」

「ああ、そのこと。中学が同じでさ。別に普段からよく話す相手でもなかったから当然といえば当然なんだけど、お互い志望校がここだって知らなくて。今更その話をしてたんだよ」

「へえー冷花そんなこと一言も言わなかったのに」

「まあ会話広がるようなネタでもないしそんなもんでしょ。俺の話だしなおさら」

「確かにそうだね。酷なこといってごめん」

「謝るな」

 こうしているうちに駅に着き、そのままそれぞれ帰宅した。


 この後の準備も順調に進み、文化祭前日の夜、俺と晴谷は電話越しに話していた。

「いよいよ明日だね、雨森君。ここまで結構な時間がかかってるのにあっという間だったよ」

「そうだな。俺もここまで一ヶ月以上この仕事をしていたことに驚いてる」

「……無事に成功するかな」

「あれだけ晴谷が準備したんだ、成功するだろ」

「そうだね、それに……成功させるところまでが、私達の仕事だもんね。きちんとやりきらないと」

「そうだな、当日の実行委員の仕事もあるわけだし、まだ気を抜いてはいられないな」

「うん。……明日寝坊しても困るし、もうお開きにしようか」

「そうだな。じゃあ、おやすみ」

「うん、おやすみ」


 そして迎えた文化祭当日、天気はどんよりとして冴えていなかったが、学校を包む空気は普段よりもずっと輝かしく感じられた。教室に向かうと、すっかり和風喫茶に様変わりしたクラスから今となっては聞き慣れた声の挨拶が聞こえた。

「おはよう、雨森君! いよいよだね」

「おはよう。ああ、ついにこの日だな」

 そんな軽い挨拶を交わしていると、続々とクラスのメンバーが集まってきた。聞こえてくる声から、やはりみんな普段より浮足立っているのがわかる。そんな中、晴谷が音頭を取ってクラスをまとめ始めた。

 それから少しして、誰かの提案で円陣を組むことになった。

「実行委員から一言ってことなのでまずは私から。みんな、ここまで文化祭成功のために頑張ってくれてありがとう。今日はお客さんを楽しませるのはもちろんのこととして、私達自身も全力で楽しみましょう! じゃあ次は雨森君!」

 そういって彼女は俺に振ってきた。

「えーっと……今日のためのみんなの頑張りを思い切り前に出して、この文化祭を盛り上げましょう」

「はい、じゃあ声出すよ! 文化祭、絶対成功させるぞー!」

「「「「「おー!!! 」」」」」

 クラスみんなの心意気が、教室中に響き渡った。


 俺たち二人が文化祭実行委員として生徒会に割り振られた仕事は二つ。今はそのうちの片方である見回りを行っている最中だった。歩く中で見かける人、聞こえる声は賑やかで、多くの人がこの文化祭を楽しんでくれているのが伝わってきた。

「見回りをしろと言われてもこれ私達がすること殆どないよね」

「確かにな。実際無いと困る仕事なのはわかるけど」

「しかも午後はクラスのシフトもあるから私達が遊べる時間って文化祭終了直前の一時間だけだもんねー。いっそ二日間開催とかならもうちょっと遊べたのに」

「その場合、働く量も倍までは言わずとも増えるだろうけどな」

「それでもやっぱどうせならもう一日やりたいかなー」

「そもそもまだ一日も終わってないけどな」

「そうだよ。まだ今日を楽しめるじゃん私達。いっそ見回りも楽しもう!」

 こんなやり取りをしながらも、見回りは無事に終えることができた。ただ、そんな校内の明るい雰囲気とは対照的に、未だ天気は優れないままだった。


「じゃあ、ちょっと早いけど私上がらせてもらうね。」

 晴谷が今クラスの厨房で働いているスタッフ全員にそう声をかけた。そろそろ実行委員のもう片方の仕事をやらなければいけない頃合いなので俺も上がろうとしていると、ホールの方から何やら大声が聞こえてきた。

「おい! ふざけんなよ! 品切れなんて聞いてねえぞ!」

「申し訳ありませんお客様、当店はお陰様で当初の想定を超えた盛況となっておりまして……」

「そんなこと知るか! わかったぜ。なら注文したもんが来るまでは居座らせてもらうからな」

 どうやら、品切れに対して腹を立てているクレーマーがいるらしい。見たところ接客している女子生徒も事前に準備しておいたマニュアル通りに対応しているようだ。彼女がひどく怯えた様子で周囲に助けてくれと視線を送っているので、仕方なく出ていくことにした。

「失礼いたしますお客様。こちらの者に代わって接客を担当させていただきます、この時間帯の責任者です。何やらご不満がお有りのようなので、まずはそれについてお話しいただけませんか?」

「そうか、責任者が出てきたか。じゃあ改めて話してやる。俺はこのドリンクを注文したんだが、こいつはそれを品切れで出せねえっつうんだよ。で、俺はどうしてもそれが飲みたいから出てくるまでは動かねえって言ってるわけだ」

「それは大変申し訳ございませんでした、お客様。現在、こちらの商品を作るための材料が不足しており、本日はご提供を終了させていただいております」

「そんなこと散々聞いたんだよ! じゃあわかった。どうしても出せねえって言うならしょうがねえ。売上をよこせ」

 テーブルを突き飛ばし、立ち上がりながら男は言った。

「申し訳ありません。それも出来ません」

「じゃあなんだ。お客様に無駄足を踏ませたってのか!?」

 その後も俺は平謝りすることしか出来なかった。そしてこのクレーマーが飽きて帰る頃には二つ目の仕事も終わる時間になっていた。


 虚しくも自由時間になってしまったので少しぶらついていると、少し騒がしい声が聞こえてきた。

「ねえ、ステージの軽音の時間に事故起きたってマジ!?」

「マジらしいよ。なんでも人がなだれ込んじゃって大勢の人が転んだとか」

 その話を聞いた俺は逃げ出すようにその場から駆け出した。


 屋上に来ていた。空は一層暗くなっている。俺の実行委員としての二つ目の仕事は終盤のステージ演目中の人員整理だった。これは二年二組の実行委員二人が任されたものだったので、現場で働いていたのは晴谷一人だったはずだ。もし俺がいれば防げた事故かもしれない。クレーマーの対応をもっと上手く出来ていれば間に合ったかもしれない。もしかしたら晴谷まで怪我をしたかもしれない。など…… 様々な負の感情が溢れ出して、とにかく人の目から逃げたくてここまで来た。俺のせいで。俺のせいで。俺のせいで。順調だったはずの文化祭も、誰よりもこの日を楽しみにしていた晴谷の笑顔も、全てを台無しにしてしまった。

「ああやっぱ、俺なんか何の役にも立たないただの人形に過ぎなかったんだな……」

「そんなことない!!!」

 重く湿った空気を貫くように、聞き慣れた、けれど聞き慣れない大きさの声が聞こえてきた。

「全部、聞いた。クラスであったことも、雨森君が休み時間に入ってすぐに駆け出したことも、全部。確かにステージでの仕事は雨森君がいなくて大変だったし、いたら事故は起きなかったかもしれない。けどそれはクレーマーがいたからで、雨森君の過失じゃない」

「それでも俺がもっと上手く対応していれば、晴谷に任された材料の試算をもっと上手く出来ていれば、そもそも俺が責任者になんかならなければ…… 俺のせいだって部分はいくらでもある。全部、俺のせいなんだ」

「それなら全部私にだって責任のあることだし…… いや、違うね。こんなただの理屈じゃ君には響かない。雨森君、さっき自分のことを、『何の役にも立たないただの人形』って言ったよね? 君はたったこれだけのことで、自分をそんな低く評価したの?」

「違う、これだけじゃない。ずっとそうだった。俺は何をやっても上手くいくのは途中まで。必ず最後で失敗する。誰に評価されても、誰と競っても、俺は希望を持てていない。結局は『そういう人間だ』ってだけのことなんだよ。何事も悲観的に見て、考えて、最後には失敗する。それが雨森憐って人間で、いつまでも変えられない、どうしようもないことなんだよ、これは。だからもう……遠くにいてくれ。俺はすべての人にとって邪魔なんだ」

「嫌だ。私はまだ、君のもとを離れない」

 雨がポツポツと降り出した。それでも彼女は、俺の前から消えない。

「じゃあ今度は、私の話をしようか」

 そう言って彼女は俺の隣に座り込んだ。

「私だって、最初からこんな優秀で、自分を好きでいれたわけじゃなかった。私、小二の頃に父親を亡くしたの。その頃のお母さんはそれはもう辛そうで。私が強くいなきゃいけないって思ったの。でもそう思ったからといってすぐに強い人間に生まれ変われるわけじゃなかった。それで考えたんだよね、自分を好きになろうって。自分一人すら好きになれない人間じゃ、他の大切な人のために強くいれるわけ無いって思ってさ」

「そんなこと、俺には関係ないだろ。もう、良いんだよ、全部……」

「いいや、良くない。それにきっと、関係もある。雨森君は今さ、自分を少しでも好きでいれてる? 自分の存在を、本質を、許せてる? 多分、違うよね。雨森君は、雨森憐って人間の本質が、だいっきらいだ」

「……っ。晴谷は俺の何がわかっててそんなこと……!」

「わからない。人のことなんてほとんどはわからないもんだよ。でも今私には、雨森君自身が気づいてない雨森くんのことに気づいてる。雨森君には、自己肯定感が無い」

「……っ」

「でもそれはきっと雨森君自身のせいじゃなくて、周りにいた人のからの影響が大きいんだと思う。けどそれが何だよ。雨森君は、今の自分のまま頑張ってみようとした? 前を向いて正面から戦おうとした? 違うよね。きっと自分の殻に引きこもって、その殻への評価を全てだと思いこんで、自分を否定し続けて生きてきたんでしょ」

「……」

「今何も反論しないのがその証拠だよ。でも、きっと今はその殻は残ってない。そんな君を私がどう評価してたか知ってた? 『頭の回転が早くて、気遣いのできる、頼れる人』だ、って。そう思ってたよ」

「そんなわけ……」

「あるよ。私の抱いた印象は私以外の誰にも変えられない。良いんだよ、素の自分で生きても。誰に嫌われても、評価されなくても、自分を大切にして良いんだよ」

「そ、んな……」

 情けないことに俺は泣き崩れてしまった。それからしばらくして、二人で教室に戻った。


 やはり、今年の文化祭は問題があったとして職員会議でも取り上げられてしまったらしい。どうしても責任感は拭えない。そんなことを思っていると、意外にも涼海に話しかけられた。

「初めて見たわ、あなたがそこまで良い顔してるの」

「涼海か。お前がわざわざ言うために話しかけるほど普段と違うか?」

「全然違うわよ。今のを海とするなら今までの顔は泥水ね。何かあった?」

「いやまあ、ちょっとな……」

「明音に励まされたのが効いたみたいね」

「知ってんのかよ!?話したのかあいつ!?」

「仲良いのよ、あなたが思ってるより。別に詳しいことは聞いてないわ。詮索は趣味じゃないし」

 前に晴谷が言っていたことを思い出す。そういえば涼海と仲良いっぽいこと言ってたな……

「そうか……ありがとな」

「私はお礼をされるようなことはしていないけれど?」

「それでもありがとう。受け取っておいてくれ。好意を受け取れないお人好しはただの馬鹿だぞ?」

「随分な言い草ね…… まあ、なら受け取っておくわ」

 そう言って彼女は去っていった。数日前より少し浮いた足取りで。


 その日の放課後、晴谷に声をかけられた。

「ねえ、今日の放課後一緒に帰らない?」

「良いけど……そっちは良いのか?」

「良くなかったら声なんてかけないよ。さ、早く行こ?」

「お、おう……わかった」


「今日は寄り道してかない? 特に追われるものもないし」

 そう言って彼女は俺を喫茶店に連れて行った。二人共注文を済ませて、彼女から話を始めた。

「聞いた? 文化祭のこと」

「ああ、職員会議に掛けられたって。でも俺はそこまでしか知らない」

「あれ、取りあえず今年はセーフってことにしてもらえるらしいよ」

「そうか……それは良かった」

「まあ本当に言いたかったのはこれじゃないんだけど。雨森君、やっぱ表情が明るくなったよね。雰囲気も少し」

「さっき涼海にも同じようなことを言われたよ。それは本当に晴谷のお陰だ。ありがとう。それで、俺も晴谷に一つ伝えときたいことがあるんだ」

「何? 聞くよ」

「文化祭でのことがあってから気づいたんだ。俺は晴谷明音に憧れてたんだって。素直に自分を肯定できる晴谷にさ。多分、少しの妬みもあったと思う。けど、どうやって晴谷の今があるのか知って、そんな自分が恥ずかしくなった。」

唐突な独白に晴谷は黙って耳を傾けてくれた。晴谷の話を聞いたとき、今の疎ましい俺の価値観を自分自身で作ってしまっていたことに気づいた。しかし同時に、諦めるには早いことも教わった。だから、

「だから、少しは自分の良いところを探してみるよ。なんといってもあの晴谷に高評価をもらってるんだ。良いところの一つくらいないはずがない」

「その意気だよ! 楽しみにしてるね、私に自己肯定感で追いつくの」

「いや、そこまでは遠慮しとく」

「なんでよー」

 こんな会話をして笑う俺達を見下ろす空は、清々しく晴れ渡っていた。


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