【10-4】
◇◇◇
何も見えない暗闇の中で、その音だけが世界の便りだった。
カーテンを開けるかのように軽やかに、「シャッ」。しかしいくらカーテンを開けようと、一片の光も差し込むことはない。
──カシャッ。
指先に感覚を集中させて。優しく沈ませる。大切に切り取る。同じように景色を「見る」ことでは大切に出来ない代わりに。
正直なところ、受けた依頼の場所が依頼人にとってなぜ大切なのか、どのように大切なのか。きちんと把握できたことは無い。人の大切なものは、全て想像の中で大切にする。しかしきっと視覚があろうが無かろうが、それは同じなのだろう。目が見えたところで、自分に触れない部分は想像でしか触れ合えないから。
シャッター音。
「……いや、それ以前の問題かな……」
小さく呟く。目が見えないので周りの目が大して気にならない。且つ、霊的なものが視えるためか独り言のクセがついていた。
今も独り言は独り言ではなく、たった一人にだけ拾われる。
するり。躊躇いなく姿を見せたレンは、無機質な瞳で朝香を見据えた。それから一瞬目を逸らすと、朝香の右肩まで漂って。その肩に両腕を乗せ、顎を乗せて、もたれかかった。全く重みの無い彼。しかし何か言いたげな、空気の質量を感じる。
それを分かっていて、朝香は微笑んだ。
「撮れてる?」
尋ねる。肯定の相槌。
「ありがとう。今はレンしかいないから自信が無くて……やっぱり少し、周りに頼りすぎてたよね」
レンは口を開閉した。
逡巡。気遣い。躊躇い、の、沈黙。青年のその言葉が、強がりでも振る舞いでもないことを、レンは知っていた。
本当に、本気で仕方ないと思っているし。
本当に、本気で気にしていない。
『私は、どうにかならないか、方法を探す』
そう言った幽霊の少女を思い出す。
朝香には見えない遠い空を仰ぎながら、清々しい青に思いを馳せた。どうにかならないか……彼女に託して。
自分は彼の傍を離れるわけにはいかない。レンもいなくなって本当の一人になったとしても、朝香はやはりすぐ諦めるのだろうから。
ここは、写真館からそう離れていない市立小学校だった。校舎の壁伝いに歩けば、校庭で駆ける子どもたちの足音。幼さを残した小学校低学年の教室の賑わい。リコーダー。体育館の床に擦れるゴム。色とりどりの音が朝香を取り囲んだ。「学校」という場所自体、久々に訪れるので懐かしい気持ちになる。
同じくこの周辺地域の学校に通っていたから、という理由もあるし。
大学に通っていないために、最後に学校へ行ったのが高校卒業の二年前だから、という理由もある。
「こんにちは」とふと声が掛かる。
誰かは分からないが、声の方向へ挨拶を返した。恐らく用務員の人だ、とレンが教えてくれる。
(不審者になっていないと良いけど)
小さく苦笑する。
今回の依頼──『学校の景色を撮ってほしい』──を受け、当然学校側に許可は取った。しかし全職員に通達されているわけではないだろう。
もう結構な枚数を撮影したことだし、引き揚げても構わない……のだけれど。
(『学校に行きたくなるような』……難しいな)
そう。依頼は単純に「学校」を撮るわけではなく。
「学校に行きたくなるような学校の写真」だった。
──『うちの息子、学校に行けていないんです』
写真館を訪れたのは、表現するならば、時計のような声をした女性だった。カチ、コチ。固い声。それにきびきびとした、一定の発音で話す人。良く言えば聞き取りやすく、悪く言えばきっちりし過ぎて威圧を与えるような、そんな印象。目の前に座った際も、香ってきたのは香水などではなく清潔な洗剤の香りだったので、勝手にビジネスウーマンを想像した。目の見えない世界では、光以外で人を捉える他ない。
「最近転校したばかりで、最初の数日通ったきり新しい学校に行きたがらなくて。前の場所が恋しいのだと思いますが……しかし新天地に慣れる力も、今の内から身に着けてもらわないと」
厳しさが、第三者であるこちらにも刺さるようだ。表情も窺えないから尚のこと。
「なるほど」
「だから、『新しい場所も楽しそう』と思えるような写真をお願いできますか」
「分かりました。枚数や『学校のどこを撮って欲しい』等、ご要望はありますか?」
「お任せします」
さっと終了した依頼。後でおじいさんに聞いたところによると「時計をしきりに気にしていた」と言っていたので、本当に仕事に忙しい女性だったのかもしれない。
息子の代わりに写真を頼む辺り、子どもに対する興味はあるようだが……と、深く追及するのも良くないだろうか。それよりも今考えるべきは写真だ。
というのも、まだ思い悩んでいた。要望に敵う写真かどうか、自分には分からない。写真に写った景色も、目の前すら見えない自分には。……それを言えば今までの依頼もそうだったのだが、今回は若干、違う。
写真で動かす必要があるのだ。人の心を。
その場所に興味が、想いがあって依頼する。そういう人が多い中、この仕事は違うのだ。学校に行けない本人の依頼ならばまだしも、親の依頼だ。「行きたくない」ことが前提の人間を動かす程の力が、写真にあるだろうか。
(そもそも、通った『最初の数日』で嫌がらせを受けていたり、上手く馴染めずに諦めたのだとしたら)
簡単に変えられるものではない。
簡単に、変えて良いものでもない。
成熟過程の繊細な子どもの心のケアは、朝香の出来ることの範疇を超えている。
「古い場所が恋しい」から行けないのか。
「新たな場所が怖い」から行けないのか。
この二点ではだいぶ話が変わってくる。
「とりあえず、もう少し撮ってみようか……」
『もうし』
ぴたり。
足を止めて、顔を上げた。
『もうし、そこの青年。そう、きみ』
人の声ではない。
暫く辺りを見回して、「それ」は視えた。
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