【9-完】
***
薄暗い檻の中で、鎖に繋がれていた。
噎せ返るようなゴミの匂いと、肩に乗った無気力の重み。今日、唯一安心できる時間──父親に線香をあげることだ──すら「線香がくさい」と言われて怒られた、奪われた。そのことが一層、自分から気力を奪っているのだろう。
こういう時だけ母は口うるさい。普段、服もご飯も提供してくれないくせに。お風呂掃除も洗濯も、自分の分だけ外で済ませて、子どもを放置するくせに。
こんな時だけ。
こんな時だけ。
けれど最早そう叫ぶのも面倒臭いのだ。恐怖心に負けたから、いつも自分の負けなのだ。同じ屋根の下。諍いは起こさないに限る。だから甘んじて、鎖の内側に入る。
檻の外へ出ても檻だった。
学校に嫌な人はいないけれど、嫌な視線はある。「嫌悪」じゃなくて寧ろ、「同情」とか「憐れみ」とかそういう類。一日、ただの風邪で休んだ日の翌日なんかはもっとひどかった。何かされたの、なんて馬鹿らしい。あの人が、子どもに何かするわけがない。何かしてくれる、わけもない。風邪を引いている間の生命活動も、自分で保った。
欠席した次の日に、雁字搦めにされるのは嫌で。だから大人しく毎日、檻で過ごすことにした。
鎖は日に日に重くなった。
掃除をすれば「勝手に部屋の物の位置を動かすな」。
料理をすれば「がたがたうるさい」。
保護者向けのプリントを渡しに行けば「…………」。
何かをすれば何か怒られる。勝手なことをしてはいけない。気が付けば「こんな時だけ」と、心の中でも言えなくなった。絶対にこれだけは欠かさないと決めていた父親への線香も、この箱一つ使い切ったら、諦めようと思う。
チリチリ。
減っていく。
ぽうとした優しい火が、上から下へと降りていく。その足跡を、これまた優しい灰色が追いかけていく。ほろり、ほろ。零れて落ちる。灰溜めの中。この灰色を、暖かそうだと思ったことがある。この柔らかさを、布団にして眠れたら良いのに。
父を思って灯した香りの残骸。落ち着いて眠れるに違いないから。
チリチリ。
削れていく。何か大切なもの。
そういえば、病人が「あの木の葉が全部落ちたら、自分の命も消える」と述べる有名な話がある。あれと似ていた。しかし非なるものだった。優しいおのことだ、自分を光に包んで連れて行ってはくれないだろう。
──だから、落胆したのだ。その光に包まれた時は、本当に父のお迎えかと期待したから。
「はじめまして、いちごちゃん」
代わりに光の中にいたのは、どこかで見たような見ていないようなの、知らない夫婦だった。
「本当ははじめましてじゃないんだけどな。生まれた時に一度会ったっきりだから覚えてないよなぁ」
「今はそんなややこしいこと良いじゃない、混乱しちゃうわ」
戸惑う少女……いちごをよそに、彼らは勝手に話し始める。そうして勝手に、手を差し伸べた。
「今日から家族よ」
訳が分からないのに、何故だか泣きたくなった。残った線香一本を握りしめながら。当たり散らしたくなった。何を勝手に、関わるなと一蹴したかったし、実際、舌の先まで出かかっていた。
けれどやはり自分は、何かを感じていたらしかった。
でなければ、ただ自室の襖を開けられたくらいで……「光が差した」と感じるわけがないのだ。父が迎えに来たと、思うくらいの光を。この部屋には日の光だって入らないのに。
「……っ」
あの日と同じ光が、たった一枚の小さな写真から差し込んでいた。
窓のようだった。自分と彼らを繋ぐ小さな窓。窓の中で、今のパートナーに出会ってからもう何年も会っていない二人が笑っている。満面の笑みだ。背景には過去の写真が飾ってある壁。春、夏、秋、冬。過ごした季節。人生の節。温もりの中にいても、ずっと上手く笑えなかった自分。その内何枚かは自分たち自身の両手に持って、こちらに掲げて見せている。
何て誇らしげに。
何て嬉しそうに。
こんな怯えてばかりの子どもの、どこが可愛かったんだろう。どこに、写す価値なんてあっただろう。
思い出の中、まだずっと信じきれなかったことを今さら後悔する。
「うぅ……っ」
隣で、背中をさすってくれるパートナーがいる。
「おとうさん……」
顔を見たかった。見るのが怖かった。
「勝手に」結婚なんてして。「勝手に」新しい家族を迎えて。
「…………っ」
“今日から家族”。
「……おかあさぁん……っ」
これから母親になる。
勇気を、やっと持てた気がする。
「……良かった」
写真を強く握りしめるいちごを、ユウと朝香は見守っていた。ユウの零した言葉に、朝香が小さく頷く。
「愛情をきちんと与えられたか不安、って言っていたけれど……きっと、伝わっているわね」
十分なほど。
写真越しでも届くような「想い」を、二人は持っていたのだから。
季節は変わる。周りで様々に移り行く環境がある。それでも、人の強い想いは変わらないのだ。
「いちごさん、淳さん」
落ち着いた頃合いを見計らって、朝香が声を掛ける。夫婦の視線が向けられた。
「僕は一つ、いちごさんのご両親から代行の依頼を受けました」
それは、梅子の述べた「お願い」の二つ目。
「『孫』の写真を、撮ってきて欲しいと」
依頼の内容に、夫婦が同時に目を見開いた。
それから、二人顔を見合わせて。
答えるために口を開いたのは、いちごだった。
「……その依頼は、却下してください」
相変わらず声は小さく弱弱しい。
それでも赤らんだ頬、瞳。ぱちぱちと瞬きをして、茶目っ気のある微笑みを唇に浮かべた。
「子どもが生まれたら、自分たちで、見せに行きます。……直接」
その笑みは、小田巻夫婦にひどくそっくりだった。
──パリィン!!
その時。
硝子が割れるような。太陽が雲を割るような。
そんな音と共に、鎖が壊れて消え去った。あの、いちごのお腹を這っていた暗く重い鎖。後にはただほわんと丸い命の膨らみがあって、一人の母親が「蹴った」と笑った。
***
病院を出て、近くの公園のベンチに二人座った。
今回の依頼も完了、後は写真館に帰るだけだ。駅まで向かうバスにまだ時間があったので、休憩することにする。
「多分、彼女がまだ心の内に抱いていた『血の繋がった母親』へのしがらみが解けたんだと思う」
朝香がふとそう言う。
ユウは「そうね」と返して、地面を見つめる。透けた自分の足の先、茶色い土と枯れ葉。それから赤黄の彩りがあって、その中へすっと伸びていく白状。
「縁」と「しがらみ」は、きっと同じものなのだろう。人を時に絡めとり、時に繋いで離さないもの。そんな表裏があるからこそ人は悩むのだし、一方で孤独ではなくなる。
あの家族は縁としがらみの中を彷徨っていた。どの関係の人々にも言えることで。
きっと写真館の面々もそう。
ユウと、朝香と、明と、レン。それからおじいさんも。
(私たちに、明を繋ぎ止める方法は無いのかしら……)
今回の仕事は、あまりにその空白を感じすぎた。朝香も同じだった……はずだ。それとも、明と出会った以前の行動と変わらないと思っていただろうか。
彼は今もなお、何かを感じる素振りもなくただ虚空を見つめ続けている。否、彼が見つめ続けているのは暗闇と、ほんの少しの非現実な存在だけ、だけれど。
「朝香は……どう感じていたの? あの鎖の正体について、早くに検討がついていたみたいだけれど……」
また、そんなことを尋ねてしまう。
朝香は少しきょとんとして。しばらく、その問いの真意を測るように、どう答えるか考えあぐねているように黙り込んだ。閉じられた双眸が、どこか遠くを見据えているように思える。
「……あの鎖と似たようなものを、僕は視たことがあった」
「え?」
「だから何となく分かったんだよ」
静かな微笑がそこにはある。
「それは……」
「人の縁も、想いも不思議だね。今回撮った一度目の写真と、二度目の写真。……僕自身にはどう違ったのか分からないから」
『僕も見えたら良かったんだけど』
そう言った時の朝香と重なる。
あれは、常連客の
何だろう。
この、掴めない浮遊感の正体は。
──ピピピピピ!!
寂しい静けさの中、突然の着信音が二人の間を裂いた。
朝香も少々驚いた様子で、携帯電話を取り出す。音声機能が、電話の主を知らせていた。
「おじいさんからだ」
「どうしたのかしら。これから帰るのに……急用?」
サァッ!! と。
悪戯に秋風が吹き、朝香の髪を揺らす。その風が涼しかったのだろう、微かに肩を縮ませた後、電話を受け取る。
「もしもし」
『もしもし? 朝香か』
「どうかしたんですか?」
『お前は何か知っているのかい?』
矢継ぎ早だった。電話の向こうの声は切羽詰まっている。
普段穏やかな物腰のおじいさんからは、想像も付かないような慌てようだ。そのことががさらに、深刻さを示している。
悪い予感が、体のどこか内側を揺らした。生きてなどいないこの体に脈が打つような、胃の中でぐるぐると気持ち悪さが巡るような、そんな感覚。
「……何があったんですか」
朝香の横顔は、やはり嫌に冷静だった。こんな時でも、彼は変わらないのだと知る。例え今から来る最悪の答えを予測していたとしても。
受話器の向こう。
『たった今、明が、目の前で消えた』
その電話口から、冷たい風が吹き抜けたような気がした。
【鎖と親子写真 終】
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