【9-6】

 小さな四角いローテーブルは、実体のある三人で座るには多少狭かった。

 朝香は姿勢良く正座をして、ユウがその少し斜め後ろに座る体勢を取る。

「狭くて申し訳ないね」

「今、お茶を出しますわ」

「お構いなく」

 母親は梅子うめこ、父親は杏一きょういちと名を名乗った。

 ごく平凡なアパートの一室。ローテーブルとテレビと人三人と。それだけで床がほぼ埋まるような広さではあるけれども、のんびりとくつろげる部屋の雰囲気だ。たくさんに予定が書き込まれたカレンダー。今までに撮ったのであろう家族の写真。それらが壁に掛かっているのを見ると、温かい気持ちになる。

 写真。記憶を切り取るもの。

 小さな紙に焼き付いた彼らの思い出は、どれも淡い季節の香りがした。きっと両親が写真で記録することに対してマメなのだろう。季節の節目、節目が細やかに写し取られているのが分かる。そうしてどの写真も、小田巻夫婦の真ん中にいちごが挟まる、という構図で。

 笑顔の二人に包まれた光景、なのに。

(……いちごさん)

 それは、ちぐはぐな違和感だった。

(一枚も、笑ってない)

 疑問に思うよりも先に、寂しさの感情が先行する。

 今より幼い彼女の顔は、それでも見覚えがあった。……朝香とユウに見せた、あのひどく緊張した面持ちだ。

「さて、それで……僕たちの写真でしたか」

「いちごが、そう依頼したのですか?」

 朝香が頷くと、夫婦は心底嬉しそうに表情を緩ませて、顔を見合わせた。

「嬉しいですねぇ。さ、じゃんじゃん撮ってくださいな」

「じゃんじゃん」

 おどけた調子の梅子に、小さく笑ってしまった。明るくて楽しい人だ。

 杏一の方も気が早く、もう両頬の隣でピースを作っている。朝香には当然見えていないので、「はい、じゃあまずポーズを取らない写真を撮りますね」とスルーされていた。

 ローテーブル一つ、挟んだ距離。

 朝香が座ったままで、ゆっくりカメラを構える。

「僕の持ったカメラのレンズを中心と考えて、お二人が大体中心に写るように移動して調整してくださいますか?」

「あぁ、見えないんだものね……この辺りかしら」

「君、大丈夫かい? 撮影出来るのか?」

「気を遣わせてしまってすみません……大丈夫ですよ」

 杏一は馬鹿にしているというより、朝香を心配している口ぶりだった。

 そんなこんなで撮影の場が整う。


 ふ、と。


 撮影者と被写体の間には、沈黙が鎮座した。

 人が人を写す瞬間の空気は、不思議だ。笑顔と、緊張と、ぎこちなさ。それらが同時に固まったまま、シャッターが切られるのを待っている。時間が止まっているかのような永遠を感じながら、呼吸すらも止めたい気持ちになる。詰まる。集まる。今この場の一秒を、ぎゅっと寄せ集めて固めたような時間。先程までおどけていた夫婦も、この刹那はぎこちない静止を演じている。

「……うん、分かった」

 ユウにだけ、その呟きが聞こえる。

 恐らくカメラの中にいる付喪神のレンが、彼に何かを言ったに違いなかった。ごく自然に、朝香が一歩後ろに下がる。

「行きますね。三、二、一──……」

 カシャ。

 掛け声に導かれるようなシャッターの音。思い立った時に景色を撮っていた今までとは違う。朝香の数える三秒間が、今一時「景色」を作る。

「肩の力、抜いてくださいね」

 目の見えない朝香だ。その言葉は儀礼だったと思うけれど、少しだけ場の空気が緩む。

 カウントダウンがあって。

 カシャ。

 ふわっ。

 三、二、一。

 カシャッ。

 空気は緩急を描きながら、潮の満ち引きのように撮影を繰り返す。

 傍から見ているユウにも、段々と、ローテーブル一つ分の隙間にあった詰まりが取れていく感覚を覚えた。撮影者と被写体。一つの紐で真っ直ぐ結ばれた時。


「三、二、一」

 カシャッ!


 これが撮影の成功だ、と分かる。指揮と楽器の合った音楽のようだ、と思った。

「……いちごは、元気にしていましたか?」

 撮影がふっと緩んだタイミングで、梅子が口を開く。

 問いに対して、朝香は微かにカメラを下ろす。

「あの子は実は、もう何年も家に帰ってきていないんですよ。淳くんと住むことになってから……」

「淳くんは偶に顔を見せにきてくれるのだけれどねぇ」

「え?」

 ユウは目を見開いた。

 心から娘を思っている様子の二人。しかし何年も帰っていないとは。やはり確執があるのだろうか。

 朝香は僅かに言葉を選ぶ素振りを見せてから。

「……お元気そうでしたよ。今は妊娠中でしたので、ベッドから出られないことを除けば」

「「妊娠!?!?」」

 話し終わらない内に、夫婦が揃って声を被せる。

 それから暫く、二人が呆然とする時間があった。写真撮影とはまた違う気まずさのある、沈黙。

(両親に、子どもが出来たことも伝えていない……?)

 子どもを産むことに対して反対されていたのだろうか。二人の驚愕は、そういう意味か。それにしたって、今回の依頼でこうしてバレてしまう可能性は考えられただろうに。

 何かに怯えるいちご。

 何も知らない両親。

 お腹の鎖。

(どういう関係なのかしら)

 無意識に、お腹の辺りで両手を組む。静寂を破らない両親は、やはりよく思っていないのだろうか。ぴりり。当人でないのに、痺れるような不安が体を駆け巡った。

 それからこの空白をそっと裂いたのは。


 ──すーっ……。


 梅子の流した、音もない、一筋の涙だった。

 頬を、顎を伝って。先端にしがみ付いた力が尽きて、ぽたり。彼女の手の甲に着地した時、漸く音が生まれた。妻の様子に気付いた杏一が、静かにその肩を抱き寄せる。

「あぁ」

 限りなく吐息に近い音で、落とされたため息。

 それが拒絶や否定などでは無いと、すぐに悟った。

「あぁ、あぁ……」

 尚も繰り返す。涙と吐息は、次第に唇へ笑みを灯した。

「あの子は、母親に、なるんですね……っ!」

 胸中に渦巻いた感情は、遅れて花を咲かせる。はらはら。色づいた感情の花びらが、先程の沈黙の分、沢山に溢れ出していた。杏一も下唇を噛みながら、何度も頷く。

「そうか、いちごが家族を……良かった。良かったな梅子」

「えぇ。……いちご……!」

 秋の冷え込みに、春の暖かいそよ風が舞い込んだような喜びを、彼らは分かち合っていた。

 朝香とユウは静かに視線を交わす。事情を知らなくとも、互いに微笑んでいた。

 春のそよ風が通り過ぎ去った後、「とりみだしてすみません」と梅子がはにかんだ。

「大切な娘さんなんですね」

「えぇ。かけがえのない娘です」

 迷わずに二人が肯定する。

 それから、何か思案げに視線を移した。先には、壁に掛けられた幾つもの写真がある。必ず家族三人が写った、思い出の数々を。ユウももう一度、写真を見た。見えない朝香の代わりに。

「実は私たちは……本当の家族では無いんです」

 告げられた。

 事実が、途端に飾られた写真の存在を重くする。

「親戚ですから、血は繋がっていますがね」

「えぇ。……いちごのために詳細は伏せますが、あの子は『家族』という存在を恐れています。特に、母親を」

「……だから、いちごさんは」

 思わずユウは呟く。その声の震えは、朝香にしか届かない。

 窓の外。道を行く人々は肩をすくめて歩いていた。秋の冷え込みも音も匂いも、この部屋には届かない。逆も然り。部屋の中の冷たさは、外に気付かれることがない。いちごが辿ってきた幼少期は、つまりそういうこと、だったのだろう。

 話の想像が膨らみ、胸を痛めたところでそれは虚無だ。勝手だと分かっていても、止まない痛みにふつふつと嫌な気持ちが湧き上がってくる。それさえも、勝手な気がする。

 しかしだからこそ、いちごが家族を迎えたという今が救いになる、小田巻夫婦の心情はよく分かった。

「私たちはいちごを愛しています。真剣に向き合って、大切に育ててきました。けれど、何せいちごは気付かれるのが遅かった……彼女の傷を癒しきれたか、ずっと不安でした。いいえ、癒しきれることなんてありませんね。家族でも、他人なのですから。……愛情をきちんと与えられたか、不安なのです」

「でも今日、僕たちを撮るために細波さんが来てくださって、そうして新しい家族が出来たとお話を聞けて……少し救われた気持ちになったんです」

 本当にありがとうございます、と。

 二人が同時に頭を下げた。それに対して、朝香は静かに首を横に振る。

 きっと、一つでも欠けていたらダメだったのだろう。小田巻夫婦の愛情と、淳という今のパートナーの存在。両者があってようやく、いちごは今新たに家族を迎える勇気を持てたのだと。

 第三者であるユウから見ても、感じられる。

「……そうだ細波さん。二つ、私たちからお願いしても良いですか」

 梅子は両手を組んで、言った。口元には、柔らかい笑みの形を浮かべている。壁に掛かった写真の中の彼女と、変わらない暖かさだ。

「もう一度、写真を撮っていただいても良いですか? 先程よりも、もっともっと想いを込めて写りたいんです。私たちがあの子を愛していると、あの子に届くように」

 想いを込めて、写る。

 想いを込めて写す写真家とは、逆に。

 素敵な言葉だと思った。

(『写真には想いが乗る』んだものね)

 朝香がよく口にする言葉を思い返して、ユウは微笑んだ。想いを込めた、撮影者と被写体。結びついたその一枚は、とびきり良い写真になるに違いない。

 杏一も良い考えだと頷いていた。

 そして当然、彼にも断る理由などない。代行写真家が、少しの躊躇いも見せずに微笑んで了承した。

「もちろんです。それで、もう一つは?」

「ありがとうございます! では、あと──……」

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