【9-5】
***
──おかあさん。
その音は空虚だった。発音と吐息を伴うだけの空虚。意味はない、感情もない、たったの五文字。壁に話しかけた方がまだ有意義と言えた。道すがらすれ違う犬や鳥に話しかけた方が、まだ答えも帰ってくるというものだ。
──おとうさん。
その音も空虚だった。言葉の二文字を変えたところで、大した変化など訪れないと知る。黙っている方が有意義だった。投げかけた言葉に空虚が返ってくるよりも、元々空虚を置いておいた方が、寂しくはないから。
おなかすいたね。ねぇおとうさん。
それでも一度、やっぱり話しかけてみたくて投げかけた。けれど父は笑っているだけだった。好きなはずの、その頬の皺を見ているだけで何故だか目の前が滲んだ。
***
ごく一般的な集合住宅だった。
ここまで歩道の整備されていない、車道で区切られた住宅街を歩いてきた。ユウが白線の一歩外側を歩き、朝香がその内側を歩く。かっかっか。今日も杖の音。お調子者の王様が笑うようなその音は、電柱にぶつかると、しゃっくりのように一旦止まる。朝香は一歩ずれて電柱を避け、また歩みを進める。
危なかったら声を掛けようと思っていたが、暗闇に慣れた人は器用なものだ。
そしてやってきたのは、築数十年は迎えているであろう二階建てのアパートだった。
ユウは吹いた秋風と共に顔を上げる。枯れ葉が、透明な体をすり抜けた。
──色は褪せたクリーム色。今にもぽろぽろと崩れてしまいそうな時間を感じる。しかし点検整備は行われているらしい。壁の色とは裏腹、建物の脇に取り付けられた階段は比較的綺麗なアルミ色。所々に新しい監視カメラも見える。少し目を凝らすと『大規模修繕のお知らせ』の貼り紙が壁に貼ってあった。
あまりに静かで。一瞬「寂しいところだ」と感じたが、すぐにそうでは無いと分かる。一階のある一室の扉の前には、まだ補助輪の付いた子どもの自転車。換気扇の前には植木。秋という季節に、小さな緑をゆらゆら揺らしている。
古けた色に、新しいアルミ色。
古けた場所に、次世代の色。
なるほど、ここは幾つもの時間が溶け合った場所であるようだ。ミスマッチなようで、ぴったりと可笑しく融合している。
すると、たったとアパートへ駆けていく影があった。脇からぴょこぴょこと給食袋が跳ねた黒のランドセル。背中の大きさと黒の差を見るに、小学校も高学年だろうか。
ここに帰ってきたらしい少年は、一度ちらりと朝香を目で振り返ったが、そのまま玄関へ吸い込まれた。先程の、小さな自転車が置いてある部屋。彼が扉を開けた瞬間に、「おかえり!」と中から小さな少女が飛び出してくる。少年の妹、且つ自転車の持ち主だろう。
微笑ましい光景に頬が緩む。
「私たちも行きましょうか。朝香、ずっと立っていると不審者に思われるわよ」
「そうだね。……ここの二階みたいだ」
二階。広く秋空の見える建物を仰ぐ。
上へ上がる方法は、階段しかなさそうだ。エレベーターも無ければ、もちろんスロープも無い。
(明がいたら、先を行ってくれるのだけれど)
しかしここにはユウしかいないのだ。
「私の後ろを歩いて、階段って登れる?」
「多分、何とかなるよ」
「転ばないでね……朝香が転んだら、私が怒られそう」
「ふふ。宥めるから安心して」
「怒られるのは確定じゃない」
思わず吹き出した。そんな光景が帰ってくれば良いのだが。
せめて触れることが出来たら、と思った。そうしたら支えることも出来るのに。今までの仕事もそう。ほとんどユウはそこに「いる」だけだった。
幽霊としては、現実に干渉しない方が正解かもしれない。
過ぎた春には、何かへ手を伸ばす、気持ちも無かったのに。
今、手を伸ばしても触れられないもどかしさがある。
やはり自分だけではダメなのだ。
「ねぇ、お兄さん困ってる?」
ふと声がして、視線を送る。
いつの間に近付いて来たのだろう。今し方帰っていったばかりの少年だった。少し固い顔をして、朝香を見上げていた。
「見えないの? 階段上がりたいの? 手伝う?」
「あぁ……うん。ありがとう。じゃあ、手伝ってもらっても良いかな」
矢継ぎ早な少年に対して、朝香はゆったりと微笑んだ。
同年代の子どもと比べて少々高い、少年の肩に手を置く。しっかりと。それを見てユウは安堵した。
「君は、このアパートの子?」
かつん。一段、一段。
「そ。一階に住んでる。見ない顔だけど、お客さん? 誰のトコ行くの?」
「二〇三号室なんだけど」
ゆっくり、着実に、上がっていく。
アパートの階段にはそれほど段数が無いけれど、通常の倍以上の時間を掛けて。
「あ、小田巻のおばさんとおじさんの。へぇ珍しいね」
「知っているの?」
「アパートの住人は皆知り合い。小さい頃から遊んでくれたし」
少年の胸が若干誇らしげに反らされた。
近所付き合いの深い場所らしかった。建物が築数十年もあるくらいだ。いちごもここで生まれ育ったのだろうか。温かい人に囲まれて。
「今はちっさい妹も見てくれんだよなーみんな。でも同年代の子がいてくれたらもっと良い」
「いないんだ」
「多分子どもは今、俺たちだけ」
随分と受け答えが大人びているのも頷けた。
こうして朝香に声を掛ける優しさも、恐らくここで大人たちに優しく育てられたことに起因しているのだろう。
「珍しい、というのは?」
「いや、小田巻おばさんたちの家、あんまお客さん来るとこ見ないからさ……はい、あと一段」
カツン!
勢いの良い最後の一歩が鳴り響く。ワンテンポ遅れて、たんと控えめな音が響いた。
(お客さんが来ない……いちごさんも、あまり帰っていないのかしら)
親、と発言する時の他人行儀さを思い出す。
実家に帰ることがないほどに仲が悪い。事情がある。しかしならば、「写真を撮る」なんて依頼をしないような気もする。
「はい、ここね。チャイム分かる? 押す?」
「ううん、大丈夫。えっと」
「あ~~違うってもう少し上!! 右!!」
閑静な住宅街に少年の声が響いた。ユウは後ろで苦笑する。
ピンポン、と鳴るが早いか、ドアが開いた。「鳴ったね、じゃあね」と少年はとっとと踵を返してしまう。「ありがとう」と追いかける朝香の声。
玄関扉から現れたのは、五十代ほどの女性だった。ふんわりとパーマがかったボブカットが、不思議そうに揺れる。
「あら、今ヨウくんの声がしたと思ったけれど」
「突然すみません。一階に住んでいる子に、ここに来るまで手伝ってもらいまして……」
「そうでしたの。で、あなたは……」
上から、下。
見渡して、胸元に掛かったカメラに気が付いたようだ。ぱっとその顔が明るくなる。
「あぁ、写真屋さんの! 淳さんから聞いています。さぁどうぞ」
優しい印象のある女性だ。
玄関から真っ直ぐに伸びる廊下。そう遠くない距離にリビングがあって、そこには座り込んだ背中が合った。すぐに振り返ったその男性が「いらっしゃい」と笑う。
小田巻夫婦。いちごの両親だろう。
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