【9-3】

 産婦人科医院の中は、普通の病院とは似て非なる空気感を覚える。海原病院にいた時に感じた命の儚さ。くにゃりとすぐに折れ曲がってしまいそうな、白を基調とした内装。それは同じなのだけれど、「儚さ」の意味が違った。輪郭が風化して崩れそうな「死」とは対照的に、輪郭がまだしっかりしていない「生の最初」。人が柔らかい中身を伴った箱だとしたら、死はその箱がボロボロになることであり、赤子は箱が形成される前の中身そのもの。中身が剥き出しだからこそ危険だ。

 剥き出しの感情も本能も、涙という形にして警鐘を打ち鳴らす。産婦人科の中には、常に可視化されたナースコールが鳴り続けている。

 そうしてそれは、微かに廊下にも響いていた。

「ユウ。……大丈夫?」

 ふと朝香が囁いてくる。ユウの様子に気付いたのだろう、円城には聞こえないように尋ねてきた。

「っ、えぇ大丈夫。気持ち悪いのではないのだけれど……何かその、ソワソワしてしまって」

 ユウは笑いかける。

 そう。なぜか体がそわそわして仕方がなかった。人が赤子の泣き声を聞いて落ち着かなくなる、そのレベルを極限まで引き上げた状態とでも言おうか。幽霊と赤子。「剥き出し」同士、直接的に感情を浴びているからなのかもしれない。

「悪霊化したモノと対峙すると、器が無いから直にあてられる」という話があった。決して嫌な感じでは無いが、感覚としてはあれと似ている。

 立った鳥肌を撫でつけながら、ユウは円城の背中を見つめた。

 コンコン。

 控えめなノックの音。彼自身の人格が、音に表れている。

 はい、という返事。

 その声色も、中にいるであろう妊婦の人格を表しているだろう。だとしたら。

(……怯えている……?)

 直感的に思う。理由は分からない。ドア越しとはいえ、小さく掠れた声だった。出産が近いのならば、体調が万全でない可能性もあるけれど。

 横開きのドアが静かに開かれる。

 部屋の中を見て。


「……!?」


 息を飲んだ。

(「アレ」は、何?)

 縋るように朝香へ視線を向ける。「アレ」は、朝香の目にも映るはずだ。そういう類だと分かる。それも、無視できないほどに異質であると。

 しかしあくまで彼は平静を装っていた。円城夫婦の前なのだから当たり前だ。ただ、「具合が悪くなるようなら下がっていて」とだけ素早く言われたので頷いた。頷いて、もう一度。視線を戻す。深呼吸をする。どうやら息が詰まる感覚はないようだ。

「こんにちは。円城……淳さんからお話を伺ってきました。いちごさん、でお間違いないですか?」

 朝香がにこやかに問う。誰の警戒心も解いてしまうような、柔らかい声だ。

「は……い。わざわざご足労いただいて、どうもすみません」

 しかし、彼女……いちごの声は固かった。

 ぎこちなく頷いた拍子に、胸に垂れる亜麻色の髪。毛先はぴょんぴょんと跳ねて随分と動的だ。手入れをしていないのではなく、天然でパーマが掛かっていて収集がつかないのだと察する。ゆったりと身を包んだ淡い緑の服は、お腹へ向かうにつれてふっかり山を描いている。それに被さる白シーツ。いちごの右手。左手。色々なものに守られて、命がそこに眠っているのだと分かる。外からは分からないけれど、中で何かが蠢いている、熱を感じた。

 対してただ一点。不思議なほどに静的なのは、母親の顔。いちごは子どものようにあどけない顔立ちをしていたが、一方で年を重ねた女性のようにも見えた。頬に薄い皺があり目元は疲れ切っているのに、肌質は若い。両者の共存がどうにもミスマッチなのだろう。

 妊娠中で体調が悪いから。

 それだけでは、ない気がした。

 先ほど声に現れた「怯え」。

 何か、関係があるのだろうか。

 挨拶の言葉は室内に響くこともなく、すんと煙のように立ち消える。去り際の良さが、居心地の悪い静寂を残していった。妻は話を切り出す勇気を待っているようで、夫はそんな妻を急かさずに待っている様子だ。

 朝香がちらっと微かに顔を動かしてユウを伺う。空気を測りかねているようだった。

「奥さんが話し出そうとしている……けれど、何か抵抗があるみたいね。聞き出すよりも、待った方が良いのかもしれないわ」

 連れ添っている夫がそうしているのだ。こちらも従うに越したことはないだろう。聞き出すならば、彼がタイミングを分かっているはずだ。

 ユウの返答に朝香は頷く。

 それからまた、暫く沈黙があった。閉じた窓の外からは、何も聞こえない。夏のように蝉の根がするでもなく、ただ静かに色づいた葉がこちらを覗いている。ふと車のエンジン音が過ぎていく。枝が揺れる。はらはら、落ちていく。そちらに八割の意識を向け、残りはいちごへ。彼女は、何か葛藤している。握った両の手が不自然に白くなっていた。

「だめだよ、そんなに力を入れたら。赤ちゃんが苦しくなっちゃう」

「っ、あ、うん」

 白い手に、淳の手が重なった。どうやら拳を握り過ぎただけでなく、そのままぎゅっとお腹を締め付けていたらしい。ふんわりと。いちごの両手が作っていた布団の溝が、柔らかい山なりを取り戻す。

 淳は小さく笑ってから、ゆっくりと口を開いた。

「言えそう?」

「……」

「文字に書いてみる、とか。携帯に打ち込む、とかでも良いよ」

「……ごめん……ごめんなさい、すみません」

 声が震える。零れる。溢れる。いちごの内側にあるものが。

 段々と背中を丸めた一人の女性は、そのまま堰を切ったように泣き出してしまった。理由。感情。脈絡。何一つ伝わってこないこちらとしては戸惑いもあったが、それ以上に心配が湧き上がってくる。これほど情緒に波風が立つような依頼なのだろうか、それとも。

(「あれ」のせい、ではないのかしら……)

 ただ一つ分かることは、たった今、彼女の内側にあった「怯え」が外側に現れてしまったのだという、それだけだった。恐らくは感情も赤子と同じなのだ。人間の中にある、柔い中身。外に出るには危うさを伴うもの。

「謝る必要は無いから。ね」

 しっかりとパートナーの手を握る、彼は既に頼もしい顔だった。写真館で抱いた印象とは違う。

 呼吸の音がした。頷いた拍子に布ずれの音がした。いつもより深い呼吸が一拍あって、もう一度「すみません」。今度はパニックになった調子は無く、静かな響きを伴って朝香へ向けられていた。

 朝香はそれを感じ取ったのか、ゆっくりと髪を揺らした。

「写真のご要望は伺いますが、それ以上に深入りはしません。……ですので落ち着いたら、安心して、お話ししてください」

「…………はい」

 白い顔はまだ緊張していた。しかし幾らか落ち着いたらしい。

 静かに夫婦の握った手が強まる。あそこに通っている、と感じる。体温と、勇気に似たもの。もうすぐ一緒に「親」になる男性から力をもらいながら、いちごは重たい口を開いた。

「おや、を」

「おや」、の意味を、ユウは瞬時に理解できなかった。

 それは。


「親を、撮ってきて……もらいたくて」


 その存在に対する言葉にしては、あまりに他人行儀な声色だったからだろうか。

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