【9-2】
二人の肩が同時に跳ねる。それから朝香は写真館の奥を見やって「おじいさん……は、今はいないんだっけ」と呟いた。
「あの、こんにちは……」
「こんにちは、どうぞ中へ」
朝香が椅子から立ち上がる。明を頼れない今、その右手に持っているのはハーネスではなく白杖だった。
写真館に足を踏み入れたのは、三十代ほどの男性。カジュアルな恰好をして、一人。纏う優しげな雰囲気が印象的だった。垂れ下がった眉がそう感じさせるのかもしれない。
彼はおずおずと頷き、電気が点いていても薄暗い館内を見回した。その終着点は、床で眠るゴールデンレトリーバー。一瞬不思議そうな顔をしたけれど、深くは追及してこなかった。
「犬、大丈夫ですか? アレルギーとか、苦手とか」
「あぁ、大丈夫ですよ。……店主さん、ですか?」
「いいえ、僕はお手伝いみたいな形ですが、お話の取り次ぎくらいは……別日にいたしますか?」
窓際の席に男性を案内する。
朝香は男性の向かいに座って、ユウはそのすぐ傍らに立った。問いに対して、男性が首を横に振る。
「いえ、元々依頼は僕じゃなくて妻が望んでいることなので、どちらにせよ今日はお伝え出来ないんです。何を頼みたいのか、僕にもはっきり教えてくれなくて」
「なるほど。では今日はどのようなご用件で?」
「噂の概要を確認しに来たんです。……『代行写真家』の」
空間が静寂に包まれる。
では男性は、「うぐいす写真館」ではなく他でもない朝香に用があって来たことになる。
代行写真家は朝香の仕事なのだから。
「代行写真家、は僕のことですね」
「え、そうなんですか?」
ぱちくりと瞬いた瞳の続きは手に取るように分かる。「目が見えないのに」、だ。
それは不思議だろうな、と思う。明や、カメラの中にいる付喪神・レンに仕事を助けられているというタネがあるのだけれど。
「普段はここのお手伝いをしているのですが、依頼があれば。……そういえば名乗っていませんでしたね。細波朝香と言います」
座ったままで一礼すると、男性はガタッと立ち上がった。
何事かと思ったが、どうやら頭を下げられて慌てて自分も礼を尽くそうと考えただけのようだった。
「ご、ご丁寧に!
ふわふわっ。男性……円城が頭を下げた拍子に、勢いで吹いた微風が机上の花を揺らした。さらには着席しようとした瞬間に膝をぶつける。いてっと呟いて、元々困り気味の眉がさらに角度を落とす。
(何だか慌ただしいけれど……憎めない人ね)
ユウは苦く笑う。前に会った鳴上真奈のことを思い出していた。彼女とはまた違ったそそっかしさがある。
ガタッ、カタカタッと様々に踊る音の中。
すると。
ふと、視線の先で動く影があった。
「……っ!」
思わず目を見開いて、朝香を見る。彼もそれに気付いたようで、ユウを見て小さく頷いた。目の前の円城には悟られない程度に。
ユウは頷き返して、ふよりと二人から離れる。背後では会話の続きが織り成された。近付く。音もなく。動いた影はまた止まる。静止画のように。しかし今までと異なる点が一つ。
彼は、目を開けていた。
「明……!!」
ゴールデンレトリーバーの傍らに屈んだ。床に膝を付いて、久方ぶりに開いた黄金色を覗き込む。
怠さ。思案。熟考。ゆったりとした時間。また怠さを伴って、それから視線がユウに返された。息が止まりそうになった……やけに生気が無いから。
「明……その、大丈夫?」
大丈夫なわけはないのに、口からはそんな言葉しか出てこない。
「あなたもう二週間近く寝てたのよ……ねぇ、何が」
「落ち着け……」
他でもない病人(病犬?)に窘められて、口を噤む。
遅れてどっと反省が押し寄せてきた。あまり多くのことを話しかけるべきではないし、語らせるべきでもない。震えた指先を拳の中に隠す。自分は思うよりずっと、焦っているのかもしれない。
明は責めるでもなく朝香へ、そしてユウへ視線を向けた。
「……依頼、か?」
「っ、えぇ」
肯定すると、明は息を吐きながら目を閉じる。
また眠ってしまうのか、と思ったが、数秒してもう一度潤んだ黄金色が漏れた。
「……オレ、抜きで行ってくれや」
「……やっぱり、起き上がれそうにない?」
「オレが、いなくても……もう平気だろ。それ、だけだ」
「本当にそれだけ?」
焦りのあまり尋ねてしまう。
けれど違う。疑問じゃない。今返すべきは疑問ではなかった。
(明がいなくてはダメよ)
今。何故か、例え大袈裟でもそう伝えなければならなかった気がして。
(いなくてもなんて、そんなこと)
もう一度口を開きかける。しかし背後から聞こえてきた「今度コウヤ産婦人科に来ていただけませんか」という言葉に瞬間押し留められてしまった。
その一瞬の遅れで、明が再び口を開く。
「朝香のこと、頼んだ」
口元は、微かに笑みの形を作っていた。
ユウが言おうとしたことは、少しも伝わらないまま。
***
電車に揺られ、それからバスで数駅。
最寄駅から随分と離れた場所に、コウヤ産婦人科はあった。閑静な住宅街にぽつんと溶け込んだ、小さく白い建物。楕円や四角をかたどった窓が等間隔に嵌められ、何だか可愛らしさも感じる。近くで見ても、硝子が嵌め込まれた小さな陶器のように感じられた。ここで生まれたばかりの命と、生まれたばかりの母親を守る、脆く強い陶器。
ユウはそれを見上げながら「今日も誰かの誕生日なのか」とふと、思った。
「円城さん、依頼をしたいのは奥様だという話をしていたでしょう?」
「えぇ」
「今、妊婦さんなんだって。だから今日はここに呼ばれたんだ」
朝香の表情は柔らかく、産婦人科を見つめている。
妊婦。それも病院に入らなければならない段階なら、出産も相当近いのだろう。動けない身だから、代行を頼む。そういうことらしい。
「あ、細波さん。ありがとうございます。来ていただいて」
後ろから声をかけてきたのは円城だった。産婦人科病院の前で待ち合わせ。定刻通りである。
「じゃあ行きましょうか。妻にも細波さんの話はしてあるので……」
二つの背中が、白い陶器の中へ消えていく。その背中を一歩遅れて追いかけながら、ユウは小さな穴を感じていた。指の腹で塞げるほどの穴。少し耳を澄まさなければそこを通る隙間風も聞こえないような、小さな小さな穴。
けれど、見て見ぬフリをすることは出来なかった。
遠のいていく、コツコツ、白状の音。
(海原病院の時みたいに、盲導犬と一緒に入る許可を取らなくても良いのね……)
空白の時間は秋風に攫われて、すぐに消えていく。
一歩建物に足を踏み入れると、微かに命の若葉の泣き声が鼓膜に囁きかけた。
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