陰差す明かり、明かり差す陰【完】
「……!?」
息を飲む。戸惑いに喉が唸った。
そこは見慣れた風景だった。夜の光に薄ぼんやりと浮かぶ本殿。所々瓦が落ち、壁や柱は生えた植物のほしいままとなっている。緑と一体化しているというよりは、地と一体化して。それ自体、一つの自然であるかのように──壊れかけてはいるけれど──立派にそこに息づいている。狛犬が不在の石台は、御神木の影に立ち、ゆらり。影と共に今にも動き出しそうだ。そうして、地面。月光。影。斑に溶け合って、ふと、昔の日本では「影」も「光」も「影」と呼ばれていたことを思い出した。神社は、全体が淡い「かげ」に包まれていた。
不思議だった。知っている場所のはずなのに、知らない場所であるかのように錯覚してしまう。
この美しい場所は、明の知っている寂れた神社などでは無かった。ずっとずっと、絶えず想いに守られた、温かい場所だった。
かげが守っている。この場所を、ずっと。そうしてそれは。写真が見事に切り取っていた。
「
随分と久しい名を呼ぶ。頭の中では散々反芻したその名前。声に出したのはいつぶりだろう。
だからだろうか。形の輪郭を得た名前がかげの中を飛び交い、「やっと気付いてくれた」という声が聞こえた気がした。
やがて、ぼやける。脳の中に張り付いた景色が。ここが写真の中の情景であることを思い出した瞬間、ふっと意識は浮上した。自然と瞼を開く。
「……」
「……」
目を閉じていても、目を開けていても。
そこは、同じ景色だった。かげが覆う、美しい神社だった。
「……オレが気付けなかっただけ、ってことか」
低く呟く。朝香は隣で微笑んでいる。
この男は最初から見抜いていたのか、と息を吐いた。大したものだ、と思う。
「今ようやっと分かったわ。……どういうことか、まだ細かい所までハッキリしねーが、陰はここにいんだな?」
「えぇ。……これは僕の推測ですが、陰さんは『身』を挺して、『想い』だけを残してここに存在し続けているのではないでしょうか」
姿だけ。幽霊のような存在か、魂のような存在か。多分、そこに名称などないのだろう。
「陰は『想い』っつー概念……
「恐らく」
前足で地面をなぞる。明から、神社から、付かず離れずまだここにいることは理解した。が、何だってそんな方法を取ったのだろう。明にも何も言わずに。
神社を見守り続けるのに、『身』があることで不都合があったのだろうか。
ずっと、陰の考えることが分からなかった。
まさか、いなくなった後にまでこんなに悩まされるとは。
「……明さん。仰っていましたよね。神社や貴方たちの存在は、『信仰心』や『忘れ去られずにいること』が無ければ成り立たないと」
「あぁ、言った」
「『想い』って信仰心だけじゃなくても、良いと思うのですよね」
明は目を見開く。
「『思いやり』、『気遣い』、あとは……『愛情』、ですか? 少し恥ずかしいですが。陰さんが、それらの『想い』総体となってこの神社に根付いたとしたら……彼は一生、この神社を守ることが出来る。そういうことになりませんか?」
誰に忘れられても。
ここを守る存在が誰一人居なくなっても。
明は、ただ茫然とするしかなかった。
有り得ない、と言いたいが言えない。陰ならやりかねなかった。明を想い、自分以外の全てを重んじ、何を考えているか分からなくて、それでも「やさしさ」だけは確実にあった、吽形の狛犬。明に比べて、何もかもを気にかけていた。いや、違う。これは、気にかけていた数の問題ではない。時間と空間の問題だ。
明は目の前のことを見つめ続け。
陰は遥か先を見つめていた。
それだけのことだった。
陰は、先を見通していたのだ。今日を守り続けた明とは、違う。
「……そういう、ことかよ」
そりゃあ、明には言えないはずだ。視点が違い過ぎていて、自分だけで神社を守ろうとしたのだろう。どうせなら、二人で守らせて欲しかったが。
自分たちは二人で一つ。
表裏一体、阿形と吽形、光と影、だったのに。
残された自分は、何をしたら良いのか。神社は陰が守っている。もう明などいなくとも良かったのだ。今まで神社を守るという、ただそれだけの目的で生きてきたけれど。それが失われたら……自分は。
「きっと陰さんは、あなたを解放したかったのでしょう」
──風が、吹いた。
悪戯に、風に金色の毛を弄ばれて、明は目を見開いた。突然風通しが良くなったようだ。涼しい流れが、重たい心を軽々と掬い上げる。
「……は? 何て?」
「自由にしたかったんだと思いますよ、明さんを。お伺いしたところ、貴方はずっとここを離れていないようですし」
「いやいや、そんなん……役割だし。離れたいと思ったこたぁねぇんだが」
そもそも何を根拠に。そう尋ねようとした瞬間。
──もしここから出られる機会が出来たら、君は色んなところに行ってほしいな。
ある夜に落とされた言葉が、蘇った。
ずっと真意を測りかねていた、その言葉が。
『誰かに語り継いでほしい。この思いを。知っていてほしい。例え気に掛けることがなくても。そうすれば……』
「……生き延びることが、出来る」
「想い」となって神社に根付き、存在を守ることが、陰が自分に課した役割だというのなら。
陰が課した、明の役割というのは。
「語り継げっていうのか……? 外の世界に出て、色んな場所に行けって言うのかよ」
首を持ち上げる。それは、独り言でも朝香に対する言葉でも無かった。
何処にいるかも分からない、しかし確実に「ここ」にはいる相棒に向かって。答えはない。ただ、木の葉が揺れた。木の葉の影が揺れて、崩れかけた明かりの無い灯篭を、隠しては露わにした。沈黙。そよ風。涼しさ。風が止んで、温かさ。夜に差した影が神社を包み込んでいる。明のいる場所にまでは届いていなかった。
まるで、その内側にもう明は入れて貰えないような疎外感。
そうして。
影と月光の跡が溶けている。
まるで、その境界が地続きに、永遠に繋がっていることを示しているかのようだった。
◇◇◇
鳥居を潜ろうとしたところで、朝香はこちらを振り返った。
「一晩泊めていただいて、ありがとうございました」
頭を下げられて、首を横に振る。
「泊まるってレベルの場所じゃねぇよ」
「それでも、置いてくださったので」
朗らかに笑う青年の背後は、白い光に包まれていた。木々の緑。鳥の囀り。花の朝露。それぞれの生命が、それぞれの方法でもって、今日の到来に忙しない挨拶を述べている。
夜が明けた。明にとっては、あまりに長かった夜が。
朝香の背景が眩しくて、明は目を細める。それから、その眩しさに目を背けるわけではないけれど、頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとな」
「え?」
「お前がいなきゃ、陰のこと……陰の『想い』に気付けなかった」
「僕がいなくとも、いずれ貴方は気付かれていたと思いますよ。だから、顔を上げてください。狛犬様に頭を下げられていると、変な感覚がしますから……陰さんのお気持ちを、叶えてあげてくださいね」
「あぁ、そうする」
言われた通り顔を上げるものの、やはり感謝の念は耐えない。「いずれ明自身で気付いていた」……それは無い、と思うから。例え気付いたとして、長い時間を要しただろう。
この一晩考えていた。明は置いて行かれたのか、残されたのか。結局どちらだったのだろうと。
結論から言えば同じことだ。どちらにしたって希望も、寂しさも付き纏う。それは変わらない。ならば今は、より希望の見える方を取ってみようと思い至った。山の中以外のことなど知らない。「狛犬」という肩書も関係ない世界が、外には広がっているのだろう。
そこをただ彷徨うか……目的を持つか。
明は朝香を見上げた。
「朝香」
「はい」
どうせなら、目的はあった方が良い。
「外の世界に出る上で、お前と一緒にいても構わないか?」
決して開かれない双眸。けれど、青年が驚いているのは手に取るように分かった。
「もちろん朝香が良ければ、だがな。お前から受けた恩を返したい」
「僕は構いませんが……恩のことは気にしなくて大丈夫ですよ」
困惑気味に答える朝香。受身的だな、と苦笑いする。ただ、そこが心配なところだった。言葉にした通り、「恩返し」の意味もあるけれど。
(こいつはどこか……陰に似てっから)
いつかふっと消えてしまうのではないか。人間なのだからそんな事は無いと思うが、そうでなくとも、「誰か」を重んじて自身を滅ぼさないか。誰かが見張っていなければならないと、そう思った。
朝香が、朝香自身のために生きるまで。その道を照らしていく……
「『目』が必要だろ」
告げて、明は目を閉じた。
朝の景色も朝香も消えて、薄闇。柔らかな力の流れを束にして、自分の中に注ぐ感覚。頭の中に思い描いた「器」の中に、注いだ。とぷとぷ。水のように……そうして力が器を満たした、瞬間、自身の体が揺らぐ。体が作り変えられるというよりかは、服を着る感覚に似ていた。そっと、袖を通す。別の姿へ。ふわり、風が吹いて表面を撫でる。その風が姿の細部を整えた所で。
目を開いた。
自分の体を見下ろして。機械の作動チェックのように手足を動かして。一度頷く。
「こんなもんか」
明の姿は、美しい獅子の姿から……一匹のゴールデンレトリーバーへと変化していた。柔らかい黄金色の毛並みだけが健在のまま。
朝香が呆然とそれを見守っていた。
「……凄いですね」
「目の見えねぇお前の近くに、盲導犬がいたっておかしくないだろ?」
腰を持ち上げ、朝香の足元へ寄る。図体が小さくなったからか、何だか身軽だ。
新天地に向かうには、丁度いい軽さだ。
「陰がここを守ってくれてるとはいえ、オレも不死じゃねぇ。力だって残されてねぇし、いつかは消失するだろう。それまで……特別なことは出来ないが、目になることは出来る」
朝香は暫く黙り込んでいたが、やがていつもの微笑を浮かべた。
「……助かります。不安だったんです。僕の周りには、頼ることの出来る人脈が、まだほとんど無いものですから……」
「決まりだな。……お前もよろしく」
カメラに語り掛ける。すると、応えるようにレンズが一瞬きらりと光った。拒まれている気配はない。きっと近い内に姿を見せてくれるだろう。
さて、と明は朝香の一歩先へ踏み出す。神社の出口の方向へと。
「まず手始めに、山の外までお前を案内する。まだハーネスがねぇから、白杖はしっかり持ってろよ」
「はい。ありがとうございます、明さん」
「“アカリ”で良い」
目付きの悪いゴールデンレトリーバーが、青年を振り返って笑った。
神社には、朝の明かりが差している。
終
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