陰差す明かり、明かり差す陰【4】

 青年……朝香に年齢を尋ねると、今年で二十歳になるという。ここに来たのは写真を撮りに来るため……と。なるほど、首から下げたカメラに意味が与えられた。

 それでも分からない。若い男が、なぜ一人、こんな辺鄙な場所に。

「お前みてぇな年が通うのは……大学っつったか? その関係か?」

「いいえ。大学には行っていません。ここには僕の……仕事で」

 仕事、という言葉を。彼自身、まだ舌で転がし慣れていないようだった。どこか恥ずかしげで、どこかぎこちない。

(……ま、この年で仕事っつーのも珍しくはねぇが)

 目が見えないのに、カメラ。

 その繋がりを見定めかねて目を凝らす。と、カメラの輪郭がふよりとブレた。中に何かがいる、と直感する。

 朝香は暫く辺りを見回して、木々の隙間の有没を見つめた。今日の日から失われていく光は分かるのだろうか。空の色は分からなくとも。

「日が暮れんな……こんな所で良けりゃここにいろ。最も、他を探したくともこの山の中に宿はねぇけどな」

「良いのですか?」

「夜になりゃ危険も増す。ここにいればオレがいる。身の安全くらいは保証してやるよ」

「……ありがとうございます。明さん」

 彼は微笑んだ。

 その空気感に、ふと既視感を覚える。目で見る既視感ではなく、肌で感じるもの。やがて思い当たった結論に、金色の目が細められた。

(こいつ、陰に似てんだな)

 そう感じた途端、この男のことが心配になってきた。上手く理由を説明することは出来ないけれど。

 二人で暫く沈黙する。特に、気まずさの含まれた静寂では無かった。明は会話の無いことを気にはしないし、朝香も同様らしい。加えて彼は、別のこと──周りを観察すること──に夢中になっているらしかった。何も見えないだろうに、と思ってしまうが、何か感じるところがあるのだろうか。

「明さん」

「あ?」

「貴方に、『これ』は感じ取れているのですか?」

「感じ取る? ……何のことだよ」

 薄暗い夜の影に意識を集中させる。……悪いモノどころか、他の獣の気配でさえ、今は何も感じない。

「そうですか」

 あっさりと朝香は頷く。眉を顰めた。

 揶揄われたのだろうか。だとしたらいい度胸だ。しかしそれにしては、横顔にどこか寂しげな色が浮かんでいる。

 もう一度、意識を凝らす。目を凝らすのと同じように。

 何かが地上を丸呑みしたかのような夜。

 不気味な雰囲気と、ホウと鳥が鳴く音。

 地面に転がる小石。凹凸の斑。

 そのどれもが、「普通の夜」を逸脱することはない。確かに、何も無い。

(何を感じ取ったんだ?)

 朝香の顔は静かで、何かを捉えることは難しかった。

 その時。夜に「意識を凝らした」まま朝香の方を見たからだろうか。


 明は、朝香に宿る何かを見た。


「っ、お前」

「何か?」

 しかし、その気付きは一瞬で消え失せる。深入りすることでもない。「何でもねぇ」と呟いた。

 首を横に振る。

「……明さん。つかぬ事をお伺いするのですが、ここにはもう一匹の狛犬がいらっしゃいますよね?」

「あ? あぁ……正しくは『いた』だけどな」

 先程から辺りを観察していたのは、明の対を探していたかららしい。

 けれど陰は、もういない。過去の存在だ。

 朝香は、明の言い草に何かを察したような顔をする。何か言いたげに唇を開いた後、また閉じた。

 明は、夜空を見上げる。相棒の色をした空を。

 彼には無関係なことだが、夜話には丁度いいだろう。

「神社、それと運命共同体である狛犬。オレらは、信仰心がなきゃ存在していられねぇ」

「この神社を信仰する人は、もういないということですか?」

「見りゃあ分かるだろ」

 苦笑を落とす。

 人間である彼を責め立てるつもりも、何かに恨みをぶつけるつもりもない、自嘲的な笑みだった。狛犬の顔では、歪んでいるかもしれないけれど。

「もう、主も一体の狛犬も消えちまった。オレも近い内に消えるだろう。力もそんなに残ってねぇしな」

 そう。今の明に出来るのは、多少の結界を操ることと、浄化。変化も、昔は色々と出来たものだが、今は人間と犬くらいが精一杯だ。狛犬だから「犬」。何と皮肉な話だろう。本来の自分の性質は、獅子に近いというのに。

 人間は、人間の扱う霊術式を扱う時に都合が良かった。あの力の流し方は、人間の体を介するように出来ているから。

 朝香はまだ、どこか虚空を見つめていた。座り込んだ、その地面に。そっと両手を置く。数回撫でて、小さく頷いた。

(何してやがんだ?)

 明の視線を受けて、それから。

 何事も無かったように、朝香が立ち上がって笑った。

「ここの写真を撮ってもいいですか?」

 あ? と気の抜けた声が喉まで出かかる。あまりに唐突だった。

 写真なんて撮ってどうするのだろう。カメラを持ち歩くくらいだ。この山の写真を撮りに来たことは想像が着くけれど、こんな寂れた神社を収める価値が見つからない。

「実は僕、代行写真家をしていまして」

「代行?」

 目が見えないのに、とまた言いかける。

「まだ始めたばかりなんですけどね」

「……何で」

 他人のための写真なんかを撮る?

 この神社の写真なんかを撮る?

 二重の意味で問う。

 朝香は変わらぬ柔らかさで、しかし何処か底冷えするような芯の強さで、告げた。

「僕は、世界を見ることが出来ない誰かのために、世界を見せてあげたいんです」

 ……意味は理解出来た。だが、そこまでだった。言葉の意味を理解出来ても、この人間自身のことまでは。

 とりあえず、ゆるりと頷いた明に、彼も頷く。それからカメラを軽く撫でると、それを持ち上げた。

 夜の神社の、何が写るのだろう。真っ暗なレンズに。黒光りする機械に。目の見えない彼は全てを委ねている。質量の思いこの夜を、ひどく影掛かった虚無の空間を、知らないだろうに。目を凝らしてもレンズを絞っても、ここに写るものなど何もありはしないのだ。

 何故なら、何も無いから。

 鳥居。本堂。狛犬の石台。夜空を覆う木々の枝。枯れ葉。石段。しかし、それだけだ。それ以上に何かが写りこむことも、見た誰かに与えるような感慨など、何も。

 そう思った時に、何故だか久々に、自分の内側、遠く左の部分が傷んだ気がした。

(……そうか)

 寂しかったのだな、と思う。

 参拝者がいなくなり、この神社に思いを馳せる人もいなくなり、主人もいなくなり、陰もいなくなり。考えてみれば「寂しい」なんて当たり前のことだったのに、今の今まで気が付かなかった。ただ、虚しいのだと思っていた。

 この場所に思いを寄せる者はもう、明しかいないのだ。ならば、この場所を守っていくことに何の意味があるだろう。今まで考えもしなかったことが過って、首を横に振る。

 意味など無くても。ここを守ることが狛犬の務めだ。

「ひどく、寂しいですね」

 ふと、朝香がカメラから顔を上げる。

「今気付いたのか?」

 自分からは、呆れ交じりの笑みが零れていた。人のことは言えない。

 閉じられた双眸が、斜め上を見つめ続けていた。そこに何かがあるように。又は何かを見出すように。空気を見ている、と思った。神社を覆う空気。空白の想い、のようなもの。

「いいえ」

 横に振られた首。眉を顰める。

 ──かしゃ。

 ……その音を、明は初めて聞いた。

 ──かしゃ。

 カメラ。存在は知っていたけれど、実際には見たことがなかったもの。間近で音を聞くのも初めてだ。物珍しいものを見たような気持になって、思わず目を閉じ、その音に耳を傾ける。

 ──かしゃ。

 単調な音。だからこそ、鋭利な輪郭を持った音に思えた。刃物に似ている。曖昧なもの、柔らかいもの。それら全てを断ち切っていく刃物。しかし冷たい印象も、痛みも無かった。寧ろ曖昧なものを形として切り取る心強さ。輪郭の分からないものに、形を与える力強さ。

 何が見えるのだろう、と思った。

 何も無いこの場所の写真を撮ることで、何が。

「僕が寂しいと言ったのは、この場所が、ということではありませんよ」

 声で、はっと我に返る。

 金色の瞳を開くと、朝香がこちらを見据えていた。

「じゃあ何が……」

「ここに根付いた『想い』が、ことです」

「想い?」

 そんなもの無い、と口に出しかける。

 少なくとも、明以外の執念は、もうここにはない。皆いなくなってしまったのだから。

 明の考えていることを察しているのか、朝香は困ったような笑みを浮かべた。カメラを撫でて、口を開く。

「『誰かの想いが特定の場所に残り続ける』って、僕は本当にあると思うんですよね」

「随分と空想的だな」

「そういう貴方は随分と現実的ですね」

 狛犬なのに、と笑う。「狛犬」と「現実的」に何の因果関係があるのかは、いまいち分からなかった。

 レン、と小さく呼び掛ける声。目に見えた応答は無かったけれど、「何か」が呼応したと分かった。朝香は明に近付く。金色の、獅子にも似た巨体に怖気付くこともなく。それから、ふ、と。額にカメラを。……思わず明は目を瞑った。

 目を瞑って、正解だったかもしれない。


 ──瞼の裏、というより、脳の裏いっぱいに、景色が広がったからだった。

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