陰差す明かり、明かり差す陰【3】

◇◇◇


「もしここから出られる機会が出来たら、明はどうする?」

 ある夜。そう問うてきた相棒に、明は溜息をついた。まだそんなことを言っているのか。

「出られねぇだろ。狛犬は神社と共にある。消える時は一緒だ。ならその時まで、ここを守っていくだけだ」

「『出られない』と分かっているから、『もしも』と言っているんじゃないか。『もしも』なんだから良いでしょ。ほら、何がしたい?」

 ひたり。ひたり。夜は、時間が歩いている。と、そう思う。静かだからこそ、尚更その足音が聞こえるのだ。真ん丸の月が照らす地上を、忍び足で歩く。忍んでいても隠し切れない足音が、生物を、何だか落ち着かない気持ちにさせる。見えない何かに見られている気がする──その感覚に付け入って、夜のフリして這いずるものが、物の気。狛犬が狩るべき異物。たった今、陰が前足の先で突いて遊んでいるソレだ。

 夜の静寂は、巨大な耳を傾けて、明の言葉を待っている。

 頭上を見上げた。昨日と変わらない夜空。星は、紺色の板に難く打ち込まれた釘に見える。そうして、明の世界から見える空を固定しているのだ。

 息を吐く。

「……考えたこともねぇから分からん」

「そっか」

 陰はうーんと体を伸ばして、物の気を端から食らい始める。

 一角を持つ狛犬は、いつだって何も考えていないようで、常に何かを考えていた。

 この神社や山を守ることしか考えていなかった明とは違って。

「そういうお前は? いつも山中を駆け回っているが、外に出たいって願望はあンのか?」

「うーん。オレはそんなにないかなぁ」

 思わず陰を見る。意外だった。彼はいつも見知らぬ土地を渇望しているように見えていた。

「こんなオレだけど、神社と一緒に消えることが宿命って理解してるからね」

「……そうだったのか?」

「すごい意外そうな顔するじゃん」

「早くここから解放されてぃ……とまではいかなくとも、お役目を終えたら自由に暮らしたい。消えるのは嫌だ。と、思っているのかと思ってたな」

「消失は怖くないよ。明だって分かってるくせに」

 物の気が平らげられていく。残された破片も、夜に溶けた地面の色と混ざって分からなくなって。陰の白い牙だけがぽつんと。

 何もかもがこうして消えていく。

「それよりもオレ、ここが忘れ去られる方がずっと怖いんだよねぇ」

「は? それは結果的に消えるのが怖ぇんじゃないのか?」

「オレが消えるのは怖くないって! たださぁ、うーん、オレは思い出の詰まったここが、記憶からも消えるのが寂しいわけよ。簡単に言えばね」

 はぁ、と明は眉を潜めた。

 誰かの言葉によれば、人は二度死ぬらしい。一度目は肉体的な死。二度目は人の記憶からの死。誰にも思い出されることもなく、完全に世界から消え去ること。これが二度目の死だと言うのだ。

 それと同じことか、と思う。

「誰かに語り継いでほしい。この思いを。知っていてほしい。例え気に掛けることがなくても。そうすれば……ここは寂れても潰れても、幾らかは生き延びる」

「それはそうだけどよ……」

「ねぇ明。もうオレたちしかいないんだよ。……本当にオレたちしかいないんだ」

 分かってる、と言おうとした。のに、出来なかった。

 顔を上げた狛犬の顔。鼻先がくっつくくらいに近付いて。真剣な黒と目が合った。夜とは質の違う漆黒が、二つ浮かび上がるようにして煌めいている。漆黒に艶。色の名の通り、たっぷり塗られた漆のようで美しい。

「……もしここから出られる機会が出来たら、君は色んなところに行ってほしいな」

「……は? オレが?」

 陰自身ではなく、明が。全くもって、真意が掴みきれなかった。

 うん、と狛犬は笑う。人間が見れば恐れる“その”見た目で笑った顔は、少し可笑しい。

「ま、もしもの話だけどね」

 くるん。尻尾を丸めて、陰は眠りの姿勢に入る。たすん。明は戸惑ったまま。ただ不満を示して、地面に尻尾を叩きつけた。

 ここから出たいと思ったことがない。出られると思っていない。外へ今更放り出されたところで……きっと、露頭を彷徨うのみとなるだろうに。

 どうしてそんな事を言うのか。

 疑問という名の、夜は明けなかった。

 それから数日して、陰も姿を消したからだった。



 彼の意識が覚醒した。

 なぜそれに気付けたのは、自分でも分からない。男はずっと目を閉じているから、起きたかどうか見た目では判別が付かないというのに。

 目を……閉じている。

(こいつ……)

 眉間に皺を寄せた。まぁ自分には関係のないことなので、ひとまず口を開く。

「……おい、大丈夫かテメェ」

「えぇ……ここは?」

 溜息を落としそうになる。あっさりとした人間だ。この状況にも、目の前の狛犬にも驚きやしない。

 彼は体を起こした。草も生えた柔らかい地面。崖から足を踏み外した男を明が背に拾い、そうしてここ──明の住む神社の地面に寝かせたのだった。本堂の屋内に寝かせてやれたら良かったが、そこは今や虫や獣が住処にしている。外に寝かせた方がマシなのだった。

 生身の人間だ。放っておくわけにもいかずに、ここで数十分見守っていた。持っていた白杖は、彼の脇に横たえてある。

「お前が落ちた崖からそう離れてねぇ」

「そうですか……助けていただいて、ありがとうございました」

 頭を下げられる。普通に言葉が交わせる度、驚きが芽生える。肝が据わっているどころの話ではなかった。元々霊感があるのだとして、明のような存在が見慣れていることはまだいい。せめて崖から落ちたことに対する危機感や焦りが、もう少しあっても良いのではないか。

 明が見つけていなければ、死んでいたかもしれないのに。

「……自分が死にかけたこと分かってンのか?」

「すみません、分かっています。精霊たちは悪戯好きと知っていたので気を付けてはいたのですが、まさかここまで危険な目に合うとは思わず」

「照れるとこじゃねぇだろうが」

 全く、不思議な人間だ。

 怒る気も失せたので、もう一度溜息。

「オレぁ明。この近くの神社の狛犬だ。アンタは?」

「僕は」

 ふわりと風が吹く。

 青年の声は、小さな波のようにさざめいた。


細波朝香さざなみあさか、と言います」


 ……いや。波ではないかもしれない。

 寧ろその小さな波にすら押し流されて消えそうな何か、だ。

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