陰差す明かり、明かり差す陰【2】

 息をついて、空を見上げる。

 神社の外に出たいとは思ったことが無かった。山の外はおろか、鳥居の外さえ。

(……ま、出ようと思っても山からは出られねぇが)

 相棒はあんなに身軽だ。本当は「外へ出たい」と思っているのではないだろうか。それだけが不安なことに思われる。

 いつか陰も居なくなったら。

 この地に縛られるのは、明だけになるだろうか。……別にそれでも良かった。ただ、“神社”“信仰”ありきで成り立っている狛犬が、外で暮らせるのかどうかが気がかりではあるが。

 陰のことを、ここから解放してあげる術を知りたい。

 もっと様々なところに行きたいのだろう。

 もっと色んなことを知りたいのだろう。

 今日明日、いつ消えてもおかしくはない存在なのに。そんな考えが頭を過る度に、虚しい気持ちになった。


◇◇◇


 本当の本当に孤独となった今、山を見回るのは明の仕事だ。

 きょろきょろ辺りを見回す。ふと、視線を感じる。そちらへ目をやれば……木陰で怯えている小さなリスがいた。

「……お前、逸れたのか?」

 ぷるぷる、ふるり。震えながら、頷きをひとつ。

 近寄る度にその震えは大きくなった。生まれたての彼女にとって、狛犬は畏怖すべき存在である以前に、ただ「おおきくてこわいもの」だろう。構わず、目の前まで足を運ぶ。

 それから、首を垂れて。リスの前に差し出した。

「乗れ。このまま地面にいると、蛇に食われンぞ」

 数秒の間があった。が、すぐに小さな重さと体温が頭に乗る。

 その小ささに、息を吐く。孤独だが、孤独ではなかったな、なんて考えながら。

 まだこの地には、守るべき生き物がたくさんいる。



 木陰の隙間を縫って、明は子リスを巣まで送り届けた。

 住処を尋ねてもリスは震えただけだったが、かつて陰が「あそこにリスが生まれる予兆があって」なんて話していたことを思い出したおかげで、無事に送り届けられた。彼がやっていたことも、無駄ではなかったのだと知る。

(今日も静かだな)

 迷子リスの家探し、なんて一大行事も終われば、いつもと変わらぬ静かな日だった。そろそろ日没もやって来る頃合いか。日が沈んだ後は物の気なぞも活発になる時間帯だ。しかし異変があれば山の獣たちが知らせてくれる。

 本来は夜闇の見回りも狛犬がするべきなのだが、一体だけとなった明に、獣たちも気を遣ってくれていた。いくら狛犬が普通の生物ではないとはいえ、休息無しに生命活動は行えない。それを察してくれているのだろう。

 自らの黄金色の鼻先が、橙に色付いてゆく。

 それを眺めながら、本堂に戻ろうとした、その時だった。

「ん? ……ありゃあ……」

 目を細めた。

 遠く。遠く、木々の隙間。精霊たちが楽しそうに宙を漂っている。移動の軌跡に白い風。ぷわ、ぷわ、と不規則に動く姿は海月にも似ている。それ自体は全く珍しいことではないけれど。


 ──一人の人間を引き連れている。


「何やってんだあいつら」

 聖霊は、人間に近付かない。

 自然を守護するもの──又は自然そのもの。そういう存在が普通の人間に近付くことなど、有り得ないのだ。確かに精霊は好奇心旺盛で自由奔放、悪戯気質はあるけれど。あんなに執拗に絡むとは。

 人間も人間だ。何故彼らに着いて歩いているのだろう。視えないはずの彼らを、まるでハッキリ捉えているかのようだ。

 何かおかしい一行を明は見つめる。念の為、彼らに近付いた。

 精霊たちはそれに気付いている。くすくす……風に乗った微笑み。

「チッ。完全に楽しんでやがるなあいつら」

 大方、この山に入る人間が珍しくてちょっかいをかけたくなったと。そんなところだろうか。

 近付くほど、人間の姿も鮮明に映ってくる。

 まだ若い男だ。成人に達しているのかいないのか、微妙な顔立ちをしている。明るい茶の髪色。夕に染まれば金に見えなくもない。細い体躯に白い肌。恐らくシャツの上から一枚上着を羽織っているのに、それでもほっそりとしたラインは儚げな印象を与える。首から下げているのはカメラ。黒くずっしりとした機体。重くはないはずだが、彼を見ているとそれ一つも重たく見える。そして、その右手に持つのは……白い杖。

「……あの人間、目が見えない……のか?」

 首を傾げる。いまいち確信が得られなかったのは。


 閉じられた双眸。その空白の視線は、確かに精霊を捉えていたからだった。


 少し上に持ち上げた顔は、精霊を見据えて微笑みすら浮かべている。完全に分かっている。彼らの存在を。一体どういうことなのか。まぁ、自分には関係の無いことだけれど。

 男は、何の躊躇いもなく精霊の後を歩いている。

(まぁ、何も無ぇなら良いか)

 引き返そうとしたところで、ふと気付く。

(おい)

 頭に思い浮かべたのは、この山の構造のこと。

(この先って、崖じゃなかったか・・・・・・・・?)

 目を見開いた。

 精霊たちの顔を見遣る。言葉の無い彼ら。感情を体現するのはその微笑だけ……慈愛とも、無邪気な悪意とも取れる、その表情だ。

「チッ」

 舌打ちをして駆け出した。

 野草を掻き分け金色の風が行く。するひゅうっ。驚いた虫や鳥たちが飛び立つ。構わなかった。

 地が足を蹴る。

「止まれ!!」と叫んだところで、精霊はもちろん止まらないだろう。今「楽しいところ」なのだから。そして男には、自分の声が届く確証が無い。精霊だけが偶然視えていて、霊感など無い可能性もあるからだ。


 ガツッ!!

 最後に大きく地を蹴った。

 巨大な狛犬の影が、生まれたての夜と共に、目下の自然たちへ影を落とす。


 その時、男がこちらを振り返り。


 ごく自然な動作で、明を見上げた。


(やっぱりあいつ、オレも視えて……)


 きちんと確認する前に、男の体は斜め下へ傾いた。

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