間章 Memoria film

陰差す明かり、明かり差す陰【1】

 ──もしここから出られる機会が出来たら、君は色んなところに行ってほしいな。



 そう言って微笑んだ彼の意図が、言葉の意味が、いつまでも理解出来ないでいる。



◇◇◇



 微睡の隙間から光が差した。自らが冠する名は、毎日訪れる朝に相応しい。ひたひたと白色に染められていく瞼の向こう。段々と意識の浮上していく感覚は、不思議と虚脱感に満ちていた。今日目を覚ましたということは、“まだ”消えていない。自明のことだ。けれどそのことに、安心感もない。

 どうして今、自分がまだこの世界に留まっていられるのか。

 この世界に存在する意味とは何か。

 考えても仕方のないこと、しかし脳味噌にしがみ付く呪縛のような思考が離れないからだった。

 目を開ける。

 朝の明るさ。陽だまり。蔭り。木の葉を透かして、斑模様。

 身を起こす。それから、自分が眠っていた石の土台の上から軽く飛び降りた。それによって、土台石の上に、本来あるべきもの──狛犬像が空虚になる。今し方飛び降りた自分こそが狛犬だからだ。

 彼は、空になった自らの土台を振り返り、見上げる。もう片方の土台も……しかしもう片方の土台にも、鎮座しているのは空虚だけだった。


『ねぇ明。この神社が本当に使い物にならなくなったら、オレたちってどうなるんだろうね』


 かつてそう尋ねてきた相棒の答えが、目の前にある。

 狛犬──アカリは目を逸らした。

 静寂。小鳥の囀り。木々が枝を揺らす音。仄かな土の匂い。どれだけここが寂しい場所であろうと、今日も明は、ここを守らねばならない。この身がこの世にある内は。


◇◇◇


 明の神社が生まれたのは、もう数百年も前にはなろうか。廃仏毀釈の風潮が高まり、泣く泣く逃げ込んでくる人々を見た記憶はあるから、それくらいの時代には少なくとも“物心”がついていた。

 神社を守る存在、狛犬。かつてはここに神と、阿吽の狛犬一対が存在していた。しかし今の神社には、阿形の狛犬しか残されていない。


 ──神は。神社は。人の記憶から忘れ去られたら存在出来ない。


 元々参拝者に「足腰の運動になるなぁ」と笑われていた、山奥という場所。且つ、何かを信仰しなくなった時代の空気もあるだろう。この神社に足を運ぶ人は年々減っていき、遂には絶えた。時折気まぐれに迷い込む人間がいるが、それも「迷い込む」だ。自らの行くべき道が判明すれば、参拝もせずに帰っていく。鳥居を見上げて「何だ神社か」と呟き、ただ休憩目的で石段に腰かけていくだけの人を、もう何人見ただろう。それが別に、悪いってわけではないけれど。

 神は、神社は、存在出来ない。

 人の信仰心が無ければ。

 物事は廃れていくものだと主は笑った。そんな主こそが、最初に消えた。もしかしたら、居場所を求め天上に帰られたのかもしれない。どっちみち、二体の狛犬が地上に残されたことに変わりはなかった。

「明! 明! 裏手に住む鳩たちに卵が生まれたって!」

「そーかい」

「冷めてるなぁ」

 狛犬に、住む神社以外の居場所はない。

 二体だけの生活が始まったわけだが、相棒は大層賑やかなものだった。

 一角の黒い獣がこちらをじっと見つめている。巻き毛を震わせ、一回欠伸。土台石の上にでろーんと身を横たえて……ごろごろし過ぎである。

「そう言うけどなカゲリ。この山に何匹獣がいると思ってるんだ。毎日どっかで生まれる獣を、毎日逐一知らされるオレの身にもなってみろ」

「楽しそう」

「疲れンだよ」

 溜息をつく。退屈しないと言えば、そうだけれど。

 きょとんとした陰が首を傾げた。

 吽形の狛犬である彼は、役割の責任感はあるものの、どうも天然である。毎日山中を見回っているのは結構なことだ。神社含め、山全体を神聖に保つことが狛犬の仕事だから。時々現れるヘンナモノが本堂を脅かす前に、噛みつくことが狛犬の仕事だから。

 しかしここに憩う生命ひとつひとつに、目をかけるなんて広範囲なことは狛犬の仕事ではない。

「明は真面目。ほんと~に大真面目。主様も、明のそういうところが好きだったよね」

「……おい」

「大丈夫、気にしてないよ! 主様はオレの抜けてるところが好きって仰ってたから」

「そういうことじゃねぇ」

 さわさわ。葉が鳴る。

 ここには、ふたりの声と、それ以外の音しかしない。「それ以外」の方が大きくて、飲まれてしまいそうだ。

 陰は数回瞬きをして、目を逸らす。

「失った存在のことを考えると、悲しい?」

「悲しくはねぇ。ただ、無いものを見つめ続けるなとは思ってる」

 そうかぁ、とのんびりな声。

「でも忘れて行っちゃうよ。話していないと」

「忘れねぇ。ちゃんと持ってるから」

「やけに自信があるね。そういうとこ好きだな」

 言葉のトーンも行動も軽い。

 一角がついと持ち上がったと思うと、彼は土台から飛び降りた。狛犬の巻き毛は綿毛のように、ぷわり浮かぶ。名の通りに影色のような、セピア色のような、その中間色であるような毛。温かい陽だまりの中では浮いてしまうように思われるけれど、その色は不思議と神社に馴染んでいた。

 きっと、陽だまりのすぐ傍で安らぐ影の色に似ているからかもしれない。光影は、表裏一体なのだから。

「また山を見て回ってくるね」

「あぁ」

「たまには明も、神社の外へ出たら良いのに」

「空ける訳にはいかねーだろ」

「オレが交代するよ」

「良いから、行ってこい」

「はーい」

 あっという間に、焦点が解ける遠さまで狛犬は行ってしまった。

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