【8-完】

◇◇◇


 次に気が付いた時には、見慣れた扉の前だった。

「……えー……?」

 数秒立ち尽くした後、若干顔をしかめて、それから苦笑する。何だか、常識で片付けられないことばかりが起きた一日だった。

 驚きと放心の次にやってきたのは、安心。そう、安心だった。帰るべき場所に帰ってきたと、心がすとんと落ちる感じ。その温かい音を聞きながら、やはり、現時点で自分の帰る場所は「ここ」なのだと思う。


 少し顔を上げれば、「うぐいす写真館」の看板がある。


 さらり、と。音を立てて風が吹いた。鮮やかな青色の風。続いて、看板を見上げたことにより、一緒に視界に入ってきた夏の空に目を細める。青も、大きく白い入道雲の城も、豪華で目には眩し過ぎる。囃し立てるのは蝉の声で、駆けて行くのは子どもたちの声。

 鮮やかだ。こんなにも。

 だから「夏だね」と、人は人へ、言いたくなるのかもしれない。

「あれ、ユウ」

「……どーしたんだよお前。ドアの前で突っ立ってよ」

 振り返った。

 今のユウが。

「……夏だなーって思ってただけよ」

 夏だね、と唯一伝えられる人たちへ。

 ユウの言葉を聞いて、朝香も明も不思議そうな顔をした。彼らも今帰ってきたところらしい。明は相変わらず怠そうだけれど、無理をしている様子はない。それに静かに安堵してから。

「おかえりなさい、二人とも」

「……おう」

「うん。……ユウも出掛けてたのかな。おかえり」

「ただいま」

 三人で言葉を交わす。

 早く報告したいことがあった。が、とりあえず写真館の中に入る。チリンチリンと、ドアベルの音。この音を聴くのも、妙に懐かしい気持ちになった。

 写真館に入ると、明はいつもの椅子の下にゆっくりと腰を下ろす。それから身を伏せた。「オレは休む」と呟いて、目を閉じる。それから。ユウと朝香で顔を見合わせて。

「朝香。報告したいことがあるの」

「僕もある。報告したいこと……でも、ユウからどうぞ」

 ユウは頷いた。

 そうして、あるものを朝香の片手に触れさせる。……この時代に戻ってきてからも、変わらずその両手に持っていた、黒いカメラを。

 朝香は、自分の右手に触れた機械の感触に多少驚いた顔をした。

「これは?」

 尋ねた瞬間。ユウと朝香の間に影が飛び出した。

 するり。影は、段々と形を成す。朝香が首から下げていたカメラの中、当然、レンだ。右目を隠した黒髪に、白メッシュ。性の判別が付かない、無口な付喪神。

 レンは、朝香の片手が、そしてユウの両手が持つカメラを見つめて……じっとユウに視線を向ける。レンズのように無機質な片目が、くるり。光を反射して、心なしか光った気がした。その目も口元も、感情を表すことはないけれど。ユウはレンに、微笑んで頷く。

「レンからもお墨付きをもらえたわね。……朝香。これは、おじいさんに依頼されたカメラよ」

「おじいさんの? ……よく、見つけてこられたね」

 感心と、喜びの滲んだ声色。

 目が見えないのだ。カメラの姿を確認することは叶わないが、彼は少しも疑わない。なぜ? とも、どうやって? とも、尋ねてこなかった。信用はありがたいが、それでは何だか面白くなかったので、ユウは付け加える。

「おじいさんから直接、預かってきたわ」

「?」

 自分で言っていて、納得する。ユウはカメラを「持っていてほしい」と言われた。つまり、預かっただけ。時を超えておじいさんは、「カメラを探してほしい」と朝香に依頼した。そしてユウは、朝香の近くにいる。

 今こそが、預かったカメラを返す時なのだろう。

 重さを朝香に渡し、完全に手放す。想いは繋がった。そう、思った。

「それで、朝香の話は?」

「あぁ。……今日ね、泉水さんに会いに行ってきたんだ」

「泉水さんに?」

 頭の中に、泉の精霊の姿を思い浮かべる。以前の仕事で訪れた森にある、美しい泉で出会った女性の精霊だ。静かに森の主を支える優しいひと。仕事の時もその後も、沢山お世話になった。

 わざわざ、あの泉まで訪ねたということだろうか。答えを求めるように朝香を見る。二人の間にいたレンはふわっと浮いて、カメラには戻らず、朝香の肩に手を置いてもたれかかった。

「ほら、泉水さんが前に言っていたでしょう? 困った時は力を貸してくださる、って」

「そうね。でも、力を借りる用件があったの?」

 代行の仕事も入っていないのに……と言う。

 すると、朝香は肩掛けの小さな鞄から写真を一枚取り出した。それを、迷わずユウに差し出す。

「……私に?」

「うん」

 白い紙。恐らく、写真の裏面。

 戸惑いながら受け取る。触ることが出来る。ここに来る前、恐らく明を一度経由しておいてくれたのだろう。ゆっくりと、裏返した。


 ──青が、目に入ってきた。


「……!」

 目を見開く。

 海、だった。海の写真だった。海原病院の近くで見た海とは違う、けれど間違いなく同じ青を持つ、海。初めてその場所を目にした時のような涙は、流石に流れることはない。ただあの時に抱いた感慨が、あの時の情景と共にさざめき、押し寄せてきた。紙の向こう、虚構の青だったとしても。

 ……あぁ、これが。

 これが、また。頭の奥をぼんやりと熱くする。心にあの時の音が、心にあの時の香りが、する。音も香りも、心で感じられるものだと知った。

 写真は、すごい。

「泉水さんにお願いして、作ってもらったんだ。……海まで行っちゃうと、今日の内に帰ってこられるか分からなかったから」

 頷く。説明はいらなかった。「泉水の見たことのある景色なら、何もないフィルムにその風景を現像できる」という、あの力を使ってくれたのだろう。

 架空の写真だ。

 誰かが直接撮ったわけではない。

 それでも。

「私のために、わざわざ行ってくれたの?」

 ユウを励ます。それだけのために。

 わざわざ訪ねてくれた。わざわざ写真を“現像”してくれた。

 この写真には言葉にすることの出来ない、しかし確実にこちらに届いてくる、想いが詰まっている。それが、記憶を揺さぶる「海」という存在に絡まって。織り交ざって。途端に、何も言えなくなった。強く握りしめる。けれど慌てて、緩める。こんなに心強い存在なのに、握りしめたらすぐ皺になるような、儚いもの。

「……ありがとう……」

 言葉こそ小さかったが、朝香は微かに笑って頷いた。

 怖くない、と、思った。自分に影はない。存在する居場所もない。この世に存在していると、言うことは出来ない。けれどその不安定な浮遊感が、もう怖くなかった。写真を抱き寄せた胸元に、降り積もる重さがあるから。

 この想いがある内、自分はここにいる。

 明も言っていた。幽霊として留まる方が珍しいと。何らかの想いがあるからこそ留まっている存在。それが、自分。褒められる状態ではないとしても、それが自分の、存在理由なのだ。

(……思い出したい)

 ふと、強く思う。

(どんな過去かも分からない、それを知って、傷つくことになっても……)

 思い出したい。

 自分の内側に耳を傾ければ、その声は、簡単に聞こえてきた。

 まだ怖い。早乙女の言葉で、不安になったことは確かだ。彼の言う“覚悟”が、自分にあるかどうかだって分からない。あそこまでの覚悟は無いとさえ思う。

 でも、少なくとも「記憶を思い出すことが本当に良いことなのか?」と悩むことは、もう無いはずだ。

 良い悪い、の問題ではない。

(私が、思い出したいのだもの)

 それさえ理解していたら、きっと大丈夫。

 思い悩むユウのために、行動してくれた人がいる。一人ではないのだ。

 目を瞑って、消え去ってしまったジンのことを思って。それから、目を開けた。しっかりと前を見据える。

「私、やっぱり生きていた時のことを思い出したい」

 口にも出して告げた。朝香はどんな答えでも受け入れてくれるのだろうと考えて、案の定、肯定の頷きが返ってくる。

「うん。……多分、悪いことばかりではないと思うよ」

 朝香の肩にいるレンも、静かに頷いた。

 ユウは笑う。

「もし、望まないことで私が私じゃなくなったら……その時は」

「大丈夫だよ。……ユウは大丈夫」

 柔らかく遮られて、一瞬きょとんとした。

 間が空いて、「何の根拠で?」と吹き出してしまう。嬉しかった。

「さ、話も済んだから、写真を撮りに行こうか」

「そうね。そのカメラで、写真を撮るまでが代行だものね」

 どこへ撮りに行こう、という話になる。ユウはカメラを見つめて、思う。植物、鳥……何の変哲もない、道端。

 どこの写真でも、おじいさんは喜んでくれる気がした。このカメラで「朝香が」撮ったということに、意味はある。確証はないけれど、このカメラで出来なかったことを、朝香にやってほしいのだと思う。今は、そう感じられる。

 あぁ、でも。

「ねぇ、人探しは、カメラ探しよりは簡単かしら?」

「誰か、撮りたい人がいるの?」

 ユウは微笑んで、告げる。



「おじいさんの……ご友人!」



 うぐいす写真館の、外は明るかった。色彩も音も香りも感触も、全てが鮮やかな季節。不思議な一夏はきらきらと輝いて、刻々と過ぎ行く時間に身を委ねている。通う想いも通わない想いも、日の下にさらして。繋がり合うことを、ただ待ち続けていた。



【覚悟とセピア写真 終】

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