【8-7】

 ──カシャシャシャシャ。


 淡白な音が鳴り響く。内側と外側。彼は、違った。“外側”では、基本の撮影の姿勢で堂々と構えている。被写体に真っ直ぐと意識を向けて、ここから揺るがないという強い意志を感じる佇まい。植物に、鳥に、道に。ありふれたものをありふれたものとして、そのまま写真に込めるように。

 しかし“内側”が、それに無理矢理な価値を施そうと必死だった。引き攣った頬。苦悶に滲む眉。カメラを握る手の力み。ユウに見られている手前、それを必死に抑え込もうとしていることが見て取れる。けれど……折角の外側を、滲んだ内側が揺るがしている。

 何かの想いがあって写真を撮ることが悪いことなのではない。寧ろそれが、大切だけれど。おじいさんが抱く想いに全て、付き纏っているものがある。と、思う。

(……『焦り』……)

 このおじいさんとはほぼ他人であるユウでさえ、それが分かる。


 ──……あまり根を詰めるなよ。


 だとしたら、先程の友人と思われる青年の言葉は。

「……ねぇ君は、あいつの知り合い? 視察でも頼まれたの?」

「えっ?」

 あまりに予想外の問いかけに、一瞬意味を捉えられなかった。その言葉に、若干敵意にも似たものがあったから尚のこと。

 視察、の意味を図りかねていると、彼が我に返ったように「ごめん」と言った。

「……そんなわけないよな。本当、嫌だ……自分が嫌だ。ごめん、忘れて」

「……あなたは? あの人と、どういう関係なの?」

 知らない姿だった。

 ユウの知らない、「うぐいす写真館の主人」である男性とは知らない姿だった。だからこそ知りたいと思う。

 彼はバツが悪そうにカメラを下ろす。その手が、カメラを撫でる。手放し難いものを、必死に守っている。

「……友達。同志。……ライバル」

「ライバル……写真の?」

 頷きが返ってくる。

 それだけで、何となく読めてきた。彼らは、同じ写真大会に作品を提出しようとしているのだ。おじいさんの焦りはそういうことで。

 そうして未来から来たユウは、何の作品が賞を獲ったのか知っている。

「……あの人は、私が視えていなかった人よ。何も関係ないわ」

「うん、分かってる。あり得ないって理解してたのに」

 ごめん、ともう一度謝罪が零れ落ちた。俯いた頭を見て、何も言えなくなる。

 友達であり、ライバル。焦りが、彼の中の感情を粘着質なものへ変えているに、違いない。それと闘っている。

(彼はおじいさんを心配していた……なんて伝えるのはお節介よね……)

 友人の方も、薄々おじいさんから自分へ向けられる暗い感情に気付いているのではないか。人間は、そう鈍くない。

 しかし、でも。友人がおじいさんの写真を撮った、あの一度。ユウが見たあの一度は。……あんなに想いがこもっていた。

 俯いた先がカメラを見つめている。握る両手が、壊れるくらいにそれを握りしめた。

 いっそ、壊したかったのかもしれない。

「初対面の君に、こういう話をするのは……あれだけど」

「……えぇ」

「もう嫌なんだ。写真を撮ることが好きなのに、写真を撮っている自分は嫌いだ……大会で賞を獲りたいのか、写真で誰かを負かしたいのか、どうして写真を撮りたかったか、もう分からない……覚えてない、と言ってもいい」

 震える声を聞いていた。何より手放したくないもの。手放したくない、という想いだけで、彼は今カメラを握りしめている。それ以上のことが分からないまま。分からないことには見ないフリをして。

 取り繕ったシャッター音を重ねていた。


 一人、写真を撮ること、自分の内側と闘い続けているおじいさん。

 一人、それを心配しているけれど気付かれない、伝えられない友人。


 行き場のない想いである内は、誰も独りだ。

(難しい)

 空を見上げた。

 難しい。それらを抱えること、伝えることも全部。

「……私は、実はこの時代の幽霊じゃないのだけれど」

「え?」

「未来から来た幽霊」

「未来から来た幽霊」

 復唱して、おじいさんは力なく笑う。

「何か可笑しい」

「私もそう思う。……過去のことを、何も覚えてないのよね。私がどうしてこの世に留まりたかったのか」

 無意識下に、「ここにいたい」という気持ちだけで。

「それを、探りに来たの? この時代に?」

「いいえ、それとは別件というか、完全に偶然なのだけれど……」

 ユウは笑う。

「私たち、似ているのかもしれないわね。……きちんと『最初』に向き合う覚悟が無いの」

 おじいさんは目を見開いた。

 少しだけ、カメラを持つ両手の力が緩む。

「……って、ごめんなさい。同じにして」

「いいや、良い。……覚悟が無い。分かるよ。僕の最近の写真は、後付けされた理由ばかりで、いつも独りよがりだ」

 表情が、柔らかく解けていく。

 認めてしまえば、ひどくスッキリとしたのだろう。自分の現在地点が明瞭になったかのような感覚。それが例え情けないものでも。

 その様子を見て、ユウも目を細めた。

 すると、ふとおじいさんがユウにカメラを差し出してくる。わざわざ、首に掛けていた紐を取ってまで。

「……? どうしたの?」

「これ、君が君の時代に持っていってくれ」

「!? そんなこと出来ないわ、これはあなたのものでしょう。それに大会は」

「もう良いんだ。今回の大会はスルーする。というか、一旦写真から離れる」

 目を見開いた。

 こちらを真っすぐ見つめる目。その目は「諦め」よりも寧ろ、「覚悟」だった。

「もう一度、『写真を撮りたいな』っていう、純粋な思いを持ち始めるところから始めるよ。カメラを手放して、距離を取って……それでもう、今後一切、『カメラを持ちたい』と思わなければ、それまでだったってことだ。……お願いだよ。君に持っていてほしい」

「……分かった」

 触れるだろうか。緊張しながら、手を伸ばす。

 半透明の手が、黒い機体に触れた。ずっしりとした重みが、これまでにないほど伝わってくる。

 ユウは微笑んで、心の中で付け加える。

(……大丈夫よ、おじいさん)

 未来の彼は、一番写真に近しい仕事をしている。きっとこの先のどこかで、彼自身が見つけた信念を伴って。そしてそれは、朝香を助けている。

 全てがユウの中で繋がった瞬間に、心が温かくなった。




 それにしても、おじいさんが「約五十年前に誰かに渡した」と言っていた相手が自分だったとは。

(全然考えもしなかったわ)

 人一人の思いを一つ分、その両手に抱えながら思う。

 後はこれを持ったまま、どう現在に帰るか、という問題だけれど。

 考えながら、適当に道を行く。見知った町の、もっと若い頃。様々な人とすれ違う。装いも文化も、微妙に違っているのを見ているのは面白い。

(こっちに来た時みたいに、勝手にずるっと戻れないかしら)

 戻り方が分からない点について、まだそれほど不安感は無かった。

(このまま数日とか経ってしまったら、流石に……)

 その時。


 ユウはバッと後ろを振り返った。


 その勢いで、長い茶髪がふわりと揺れる。振り返って、今、自分とすれ違った女性の背中を見つめた。おんぶ紐に抱き留められた、赤子がいる。

「……え?」

 今、あの女性とすれ違った時。隣に並んだ、本当にその一瞬。

 なぜだろう。

 なぜ、と言った疑問が頭を巡る。今日は本当に、勘ばかりだ。勘、だけれど。肉体を持たないこの体に、直接響いてくるような予感が、するのだ。

 なぜ、そう思ったのかは分からない。


……?」


 すれ違った女性に……または、赤子に? 彼の気配を感じたのだ。

 ここは五十年前。あの赤子が朝香であるはずもない、のに。ならば親戚だろうか。偶然、彼の親戚と通りすがったのだろうか。

 赤子を背負った背中を見つめて、暫く動けなかった。

 親戚にしても、やけに強い気配が、逆に恐ろしくなってくる。

(どうして……)

「あ、カスイさん! こんにちは」

「あら、こんにちは」

 心の声は、彼女らの声にかき消された。

 カスイ。あまり聞かない苗字。瞬きをして、じっと見つめる。見つめても、先程の予感の正体は掴めない。

 そして。


 ユウは突如として、白い光に包まれた。

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