【8-3】

 涼やかな音が、しばし頭の中で反響した。その次に、エアコンの音。今まで気にしなかった音が、静寂と共に入ってくる。何も言えなくなった。今の話が真実か虚構かどうかは、静寂の連れてきた糸で分かる。張り詰めた、糸。

「幸い私には『視える』目があるし、血筋が与えた力もある。だからこそ両親はあんな事になったのかもしれんがな。まぁそれは良い……ずっと犯人を捜している。微かにしか覚えていないあの記憶を、気配の感覚を頼りに求めている。


だが、その犯人はもう既に消失していたら?

私には到底届かない『上』の存在によるものだったら?

実は霊的なものでもなんでもなく、頭がキレるだけの人間だったとしたら? その結果、法に頼るしかないとしたら?

そのどれとも違う、全く私の及ばない事象で起こったのだとしたら? そもそも犯人捜しの方針さえ、とんだ見当違いで滑稽な間違いだとしたら……。


私が今、記憶を追いかけることなど無意味だ。全てはふいに終わる。積み重ねてきた思いも、煮詰めてきたものまで、全て行き場を無くすんだ。意味が分かるか? あの龍神はそういうことなのだ」

 記憶の、話をしている。

 そうして、一つの信念。

 今ユウが聞いているのは、今まで分かってこなかった早乙女の行動理念に他ならない。何も言えないまま、何も考えられないまま。

「私にはその覚悟がある。自慢ではない。確固たる事実だ。……なぁ幽霊。過去を知ることはな、それなりに覚悟がいるのだよ」

 あの日、博物館で告げたことをもう一度。

(なんだ)

 その瞬間、心に落ちるものがある。

 最初から早乙女は、ユウを不安にさせるつもりも、恐怖を与えるつもりも毛頭なかったのだ。結果的にそうなっただけ。見定めていたのは事実だけれど。

(この人は私のことを、『自分と同じ境遇のもの』として興味を持っていたのね……)

 ユウがジンに抱いた感情と似たようなものだ。「記憶がない幽霊が、この世に留まり続ける」ことへの否定ではなかったのだ。決して。

 しかし「いざとなったら祓う」、という選択肢を迷わず取ることの出来る男。それが早乙女大地。

 それが覚悟、ということ。

「貴様に覚悟はあるのか? それが自分の望まないものだとして」

 大袈裟だ、と思うのに、そう返すことは出来なかった。

 よほどのことでもない限り、ユウは普通の人間だったはずだ。激動の人生を送ってきたとは考えにくい。それでも。

 自分の過去が、現時点で「得体のしれないもの」であることもまた確か。

 ジンのことも他人事ではなくて。

(私の過去が、絶望的なものだということが、絶対ではない)

 しかし、可能性の問題として。

 それを忘れずに背負っていけるか、と。

 答えられずにいると、早乙女はスプーンを手に取った。

「さて、いただくとしよう」

「このまま食べないのかと思ったわ」

「お残しはしない主義だ」

「意外でしょう? ダイはこう見えて育ちが良いのよ」

 銀食器が、冷めたドリアに切れ込みを入れていく。思い出したかのように、ドリアのミートソースが多少の香りを漂わせてきた。

 微妙な時間が始まった。食事中の人間が一人で、手持無沙汰な者が二人。

 灯は横目に早乙女を見て。口元を袖で隠す。

「……人の食事シーンを黙って見ているのも面白くないわねぇ。ねぇユウちゃん。私と外でお話ししないかしら?」

「? ここでも良いけれど……」

「ふぉふぉではまはんぞ《ここで構わんぞ》」

「食べながら喋らない! 良いのよ。女の子二人でお話しましょ」

 ふわり。座席から灯が腰を浮かせる……「浮かせる」のレベルが、言葉通り「浮いている」のだけれど。

 その切れ長の瞳が、片方瞑られた。促された気がして、戸惑いながらも頷く。ユウもふわり漂った。

 ドリアを食べる早乙女を置き去りに、二人でファミレスの壁をすり抜ける。


◇◇◇


 何となく、身構えていた。

 外で、二人で。考え過ぎかもしれないが、ただの世間話とは思えない。灯の、毛先の方でちょんと結わえられた銀髪を追いながら。ユウはまた考えを巡らせる。

(早乙女さんの話は、模範解答ではないのでしょうけれど……)

 ユウが今まできちんと直視してこなかったことも指摘されている。

 記憶を取り戻さない方が良かったのか?

 ジンの一件に対して、一度でもそう思ったのは自分だ。

 すると、灯が道の真ん中でこちらを振り返る。通りすがりの人が、その体をすり抜けた。

「ユウちゃん」

 目が合う。

 吊り上がった目は妖艶で、それでもどこか柔らかさをたたえている。口元には微笑み。一度息を飲んで、尋ねた。

「……なぜ、私を連れ出したの?」

「ふふ、そんなに身構えなくてよくてよ。そうねぇ、女子トーク……いや、女子トークにしては重過ぎるかしら」

「重過ぎる?」

 聞き返す。その時、灯の瞳に。

 ふっと影が下りた。それは、いつも早乙女の守護者として、「狐」という存在として……冷静に物事を見据え支えている彼女からは、今まで感じ取れなかったもの。

 有体に言えば迷子のようだった。

 行き先を見つけ損ねている、弱弱しい少女の目。

「……ユウちゃんに背負わせるつもりはないの。だから『事実』として聞いてほしいのだけれど。……さっきのダイの話の、補足として」

「補足」

 繰り返すことしか出来ない。

 灯はふっと顔を上げて、改めて微笑を浮かべた。

 陽炎が、二人の迷子の輪郭を揺らす。


「ダイの両親を殺したモノねぇ、私が噛み殺してるのよ」


 とっくのとうに。

 事件当時に、直後に、既に。

 彼女は、そう言った。

 それは、早乙女は知っているのか、と愚かなことを聞こうとした。知っている、はずもないだろう。

 顔を背けて、狐がどこか遠くを見つめる。

「ずっとそれを言えないでいるわ。……ま、あぁ見えて敏い子だもの。何となく察していて。私が言い出すのを待っているのかもしれない」

「……早乙女さんは、覚悟があるって言っていたわ。それでも、言えない……?」

 震えた声で、問う。

 なるほど、補足。彼が犯人を追う長い年数は、決定的に空虚だったわけだ。その空虚を、灯が知っている。

「……何が怖いのかしらねぇ、私も」

 遠い目が、細められる。

 胸が締め付けられる思いだった。そっと、胸の前に片手を、それを覆うようにもう片方の手を。

 真相を隠すこと。その胸中は図るに容易い。最初の内は単純に「まだ幼い子どもに打ち明けられない」だったのだろう。それが段々、段々。時間が、記憶の箱にぐるぐる鎖を巻き付けた。鍵でなく、鎖。自分が解こうと思えば解ける。解く選択肢を、その当人に迫る鎖。結果気が付けば、真相は「言いにくい」に変わって。彼女は鎖を解く選択肢を選べない。

 過去を求める者と、過去を持つもの。

(灯さんは、それが分かっていてずっと、早乙女さんの側に……)

 一体、どうしたら良いのだろう。

 ユウにはもはや、分からなかった。

「ユウちゃんの選択は、ユウちゃんの選択だから。どれを選んでも、私は応援している……そう、応援。ひどく、孤独だと思わない?」

 灯は微かに苦笑した。

「どんなひとも、存在も、行き場のない想いや記憶を抱えるときは独りぼっちよね。ダイも、明さんも……朝香くんも」

 朝香のことを思い出す。


 ──世界を見ることが出来ない人のために、色々な世界を見せる仕事。


 写真は、想いも記憶もまた、届ける。ユウはもうそれを知っている。だとしたら、写真を撮る人も見る人も、互いに独りだ。

 そうなのかもしれないな、と、思った。

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