第8話 覚悟とセピア写真
【8-1】
夏、という季節は鮮烈だ。
色も香りもイベントも、何もかも。けれども。だからだろうか。ふと襲ってくる憂鬱に対しては淡白だ。ひどく沈む時、落ち込んだ時。無神経な太陽は、それすらをも光で照らし、また背後に影を伸ばしていく。
故意としか思えない鮮やかさは、心だけ置いていく。
蝉の音だけ、空白にシミを作っていく。
ここ数日、町にある小さな写真館──うぐいす写真館では、うだつの上がらない日々が続いていた。それは単なる暑さではなく、蝉の音に抱く苛立ちでもなく。
『ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!』
一つの、消失によるもの。
(……どうしたら良かったのかしら)
呆然は通り過ぎた。悲しみも……それなりに。過ぎ去ったそれらの次に訪れたのは、「どうすることが正解だったか」という後悔のみ。彼女だとて、自分が何でも出来ると思っているわけではないけれども、考えずにはいられなかった。
手遅れになる前に、出会っていたのに。
記憶を取り戻すことが、彼にとって良いと思っていた。それが今や、分からない。最初から失ったものに手を伸ばすこと自体が間違っていたのだろうか。
ユウは静かにため息をつく。幽霊のため息など、誰も拾ってくれやしない。
いや、正確にはこの写真館には、ユウのため息を拾うことの出来る存在がいるのだけれど。彼らも今、それどころではなかった。
まず一人。視線を下ろす。
目下、ユウの座っている椅子の下で眠るゴールデンレトリーバー。彼は
(大丈夫なのかしら)
心配になってしまう。けれど、声は掛けられなかった。
麦色の背が、上下にそっと揺れている。眠りの呼吸に合わせて……が、それにしては少々弱弱しい。伏せられた瞼も、あれから一週間で五回程しか開いた場面を見ていない。体調が悪いのか分からないが、ずっとこんな調子なのだ。
暑さで怠いわけでは、きっとない。
それくらいユウにも分かる。
(明の元気が無いと、何だかな……って気持ちになるわね)
言葉を交わす相手がいない。客のない写真館は、あまりに静かすぎた。
どうやら明は、力を使い過ぎたのだという。寂れた神社の狛犬。力が残っているわけでもないのに、ジンを……龍神、又は雷神という一つの存在を、丸ごと消し去ったのだから。もちろん明にも“自分に力が残されていない”という自覚があった。けれど、ユウたちを守るためにその選択をした、と。
そう推測していた彼──ユウのことが視えるもう一人である──は、中々奥の部屋から出てこなかった。
彼は彼で、あの時。ジンが消えることに対して覚悟を持っていたし、すぐに受け入れていたように見える。どう思っているのだろうか。それとも何も、思っていないのか。
「ユウ」
考えていると、その本人が顔を出した。
柔らかい笑みも、纏う空気もいつも通り。「目が見えない」にもかかわらず「霊的なものが視える」という青年・
首から掛けたカメラが揺れる。それを眺めながら、「朝香」と返した。
「アカリの調子はどう?」
「見ての通りよ。全然、起きる気配がない……ねぇ、大丈夫なの?」
問いかけると、困ったような笑みが返ってくる。
少しだけ、不安が募った。
「僕には……視えるだけで、状態は分からないから」
「そうよね……」
ふっと息をつく。すぐ傍でユウと朝香が会話をしていても目覚めない明。回復を祈るしかない。
それから暫くの沈黙があった後、「僕は少し出かけてくるね」と朝香が言った。
「そうなの? じゃあ私も……」
「ううん。ユウはここにいて。僕は杖で歩くし、レンもいるから大丈夫」
きらり。首から下げたカメラのレンズが、光に反射して煌めいた気がした。そう、とユウは頷く。
すると、むくり。
突然足元の大型犬が体を起こした。ユウと朝香は驚きの表情を浮かべる。
「明……」
「……オレも行く」
「アカリ。休んだ方が良いんじゃないの?」
「ちっと怠いだけだ。問題ねぇ」
音を立てて、明は顔を横に振った。彼の言う「怠さ」を、振り払うような激しい動作でもあった。体がふらついているわけではないけれど、やはり心配は拭えない。久方ぶりに開かれた黄金色も、覇気が無いのだから。
朝香の横顔を見る。彼は数秒明を見つめてから、頷いた。
「……分かった。一緒に行こう」
明だけにそう言う。あれ、と思う。
結局ユウは同行しなくとも良いのだろうか。
(別に、いつも一緒にいなければならない理由などないけれど……)
朝香が「ここにいて」と言ったのは、てっきり「明のことを見ていてほしい」という意味だと思っていたから。
しかしやはり、朝香はユウを連れていく考えがないようで、柔らかい顔でユウを振り返った。
「じゃあ、行ってくるね。留守番とかは考えずに、自由に過ごしてていいから」
「えぇ。……行ってらっしゃい」
掠れていた蝉の音が、扉を開けたその瞬間だけ大きくなる。しかし再び扉が閉まったことによって、それらは閉め出された。代わりに写真館内に残されたのは、チリンチリンとドアベルの音。
涼しげな金属音が完全に息絶えるまで、ユウは扉の方角を見守っていた。沈黙が訪れて初めて、視線を逸らす。
何をしようか、と思う。手持ち無沙汰だ。
この世の何にも触れない幽霊に、出来ることなど限られている。
(散歩にでも出て、外を見てこようかしらね)
本当に、出来ることなどそれっきり。
それでも良いかもしれない。暫くは朝香の仕事もなく、明もあんな調子だったので、外に出ていなかった。気分転換にもなるだろう。
そうこう悩んでいると、奥の部屋からおじいさんが出てきた。おじいさんは、うぐいす写真館の主人。朝香をここに住まわせている、まさに保護者のような男性だった。
ユウの傍の椅子まで来て、着席。
いててて、小さな呟き。
膝を摩る仕草。
そんな小さな仕草たちでも、何だか一方的に盗み見をしているようで気まずくなった。おじいさんは当然、ユウに気付くことがない。やっぱり外に出よう、と思ったその時。
チリンチリンとドアベルの音がした。
今度は見送りではなく、出迎えを囁く音。がらりと開いたドアの隙間から、気怠い動きで入ってくる夏の熱気。涼しい写真館の中に迷い込んだ熱気は、恐らくおじいさんの足元に辿り着く前に全て散った。彼は暑さを意に介することもなく、扉を見つめる。ユウも、今しがた向かおうとした扉に目をやって、微かに驚きの表情を浮かべた。
しっとり汗をかき、扉を閉めた後、ゆったりとした仕草で扉にもたれかかる。「中は涼しいようだな」と呟き、「外」の残り香を連れ込んだその男。被っていた紺色の帽子を取ると、その鋭い視線がこちらを向いた。口元には、いつものように強気な笑みが浮かんでいる。
来客。ではなく、訪ね人。
その人物に、おじいさんが口を開いた。
「おや、早乙女くんじゃないか」
「元気そうで何よりだ、主人」
穏やかな声に、ハキハキ答える霊能探偵……
もちろんその傍らには
(なぜ、早乙女さんたちがここに?)
早乙女は少し前に、朝香へ代行の依頼を持ちかけた。その内容である「墓」──何よりそれがジンと出会うきっかけとなったのだが──の写真は、既に納品したと朝香は言っていた。
文句、ではないけれど、まだ用事があったのかと疑問に思う。
そんなことを知る由もないおじいさんが、早乙女に尋ねた。
「今日は、どうしたんだい? 生憎朝香は今出掛けて行ってしまったが……」
「構わん。私はそこの幽霊に用がある」
くいっと顎が指す。
その先は、もちろんユウだった。
「幽霊……ユウかい?」
「あぁ。主人は視えないのだったな。借りていくぞ」
「ちょ、ちょっと」
早乙女はおじいさんの脇をすり抜け、迷わずユウの元へ歩み寄る。それから、細い手首を大きな手が掴んだ。触れられたことに驚いて目を見開く。
後ろでは灯が白い目を向けていた。
「ダイ……突然女の子の手を掴むなんて、無作法が過ぎるのではなくて?」
「今そこはどうでも良いだろう灯」
「私に触れるの?」
「触れねば私の仕事は務まらん」
半透明の手が引かれる。多少強引に。その人の手の感触が、ユウには懐かしかった……突然手を握られたことの是非は別として。
おじいさんは戸惑ったように視線で早乙女の背中を追う。存在だけ知っているユウを、心配しているようでもあった。しかし霊能探偵は、あっけなく別れを告げる。
「じゃ、また来るよ」
ぱたん。
ドアが閉まる音と共に、壁に隔たれることのない、直接的な蝉の音が鼓膜を貫いた。
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