【7-完】

 ぼたぼたぼたっ。

 雨粒は大きさを増して。黒い傘に降りかかる。透けたユウの体を通り抜けていく。透けた頬と雨が重なって、まるで涙の跡のようだ。

「……そんな」

 ただ、そう零すことしか出来ない。

 この重苦しい真実を、隠して別れるしかない。ジンはいつか、このことを思い出す時が来るのだろうか。その時が、来ませんように。なんて、願ってしまう。

 この墓を覆う木陰が、ずっと記憶を隠し続けてくれたなら。


 しかし、そう。


 物事は、思いがけない所から、唐突にやってくるのである。



『……そう、だ……』



 バッ、と。三人で一斉に振り返る。

 息を飲む。濡れた敷石の上に。雨に濡れた道の上に。沈むような灰色の空気の中に。一匹の小さなトカゲが佇んでいる。

「ジン、さん……どうしてここに」

 ユウは思わず名前を呼び掛ける。が、その表情は茫然自失として、動かない。ユウに対する返事も、返ってこない。

 ただただ、独り言が震えていく。

『そうだ、そうだ……ワシは……』

 ぐるるっ、と明が喉を鳴らす。

 尻尾がぴんと立ち、湿気が纏わりついたはずの毛が逆立った。

『恩情じゃない、誇りでもない……憎しみのため、ここに……』

 低く、低く、知らないジンの声が地に響く。

『もうあの男の一族が下手なことをしでかさないように……贖罪のために…………後悔の、ためにッ…………!!』

「お前ら下がれ!!!!」

 明が叫ぶ。

 上半身を低くした。その黄金の体に、光が集まっていく。朝香は言われた通りに、明の一歩後ろに下がった。ユウも言われた通りにする。

 するけれど。

(ジンさんは、どうなってしまうの!?)

 ぶわり。小さいトカゲから、影が膨らんでいく。まさに爬虫類の脱皮のように。それは彼の身を突き破り、膨れ上がろうとしていた。重たい雨雲が、更に質量を帯びる。そう見えたのは、抱えきれない影が辺りを包み込んだからだろうか。全ての光を食らい尽くすように。

 見覚えがある。

 早乙女の仕事に、付き合った時に見た。

『カミ……カミ、あぁ……ワシが、君を都に、一人になんてしなければ…………!!』

「おいテメェ、落ち着け! その女はな、最期は一人で死ぬこたぁなかったんだよ!!」

『死ぬ、死、あぁ……かのじょは、しんでしまった』

 雨が呼吸を止める。

 息を潜めて、その影が膨らみだす音だけが響く。

(……っ、息が)

 苦しい。けれど、それ以上に苦しいのは、ジンのことだ。


 ──ウゥゥゥゥゥ──……。


 影から咆哮のようなものが聞こえてくる。

 それは、悲鳴にも似ていた。

 明が歯を食いしばって、尚も言葉を紡いでいる。

「その人間は、寂しくねぇように代わりの墓まで作られてな。今でも愛されてンだよ!! それで良いじゃねぇか! そのまま歴史の陰にひっそり隠れて忘れられるよりは、よっぽど!!」

「明」

 一言、朝香が名前を呼んだ。

 明も、そしてユウも。彼へ視線を向ける。朝香は、閉じられた双眸をジンへ送っていた。ただ伏せた瞼、その睫毛に、悲しみを乗せている。

 そしてゆっくりと、首を横に振った。

 なおも影の咆哮は響いたまま。

「カミさんの像の写真を、その墓に込められた気持ちを、ジンさんへ届けるようレンに頼んでみた。……けど受け取ってくれないって」

 カメラが揺れる。

 レンズに雨粒が滴り落ちた。涙のようだった。

「もう間に合わない」

 朝香の言葉を引き金とした。


 明の舌打ちと、雷の音が重なった。


 黒い影は龍の形を為していく。

『ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!』

 理性も正気も、その声で焼け落ちた。

 嫌でも、そう分かってしまった。

「ジンさん……!! ゲホッ、ゲホッ」

「ユウ、息を吸ったら駄目。なるべく息を止めてて」

「で、も」

 視界がぼやけていく。影にあてられ、意識が朦朧としているのかと思ったが、違った。滲み出した涙が、景色に小波を立てている。

 吸う度に重い空気は。胸に痺れを与えるこの陰は。悪いものなんかではなくて、ジンの痛みではないのか。苦しみも、憎しみも、後悔の念も、どれも一人で持つには重すぎたもの。重すぎたから、抱えきれなくて、外に溢れたのではないのか。

 朝香の腕を、掴めないけれど掴んで、何かを言おうと口を開く。

(誰か……ジンさんを助けてあげることは出来ないの……!?)

 もしこの世に霊的なものがいるのなら。カミがこの世のどこかにいたら良かった。悲しい龍神に一言でも、何か伝えてくれたら。それだけで変わったかもしれないのに。

 けれど、いるはずもない……幽霊など、基本的に、この世にいないのだから。

 何も言えなくなって、項垂れる。朝香の腕を掴んだまま力が抜けて、結果的に縋り付くような体勢になった。

 朝香はユウを見下ろして。背中に手を伸ばす。が、触れられない。

 その代わり、立っている位置を一歩左に、ずれた。

 それは、ユウとジンの間。ユウの視界を遮るように。


 ──ゴロロォン──……。


「……明」

 朝香たちとジンの間。足元で臨戦態勢を止めない明が、朝香に視線を寄越す。

 良いのか、という躊躇いを見せながら、明だとて「もうそれしかない」と分かっているのだろう。だから、そんな顔をしている。

 朝香はゆっくり頷いた。

「このままにはしておけない」

 影が墓場全体を覆い始めている。強風が吹き荒れ、このままでは墓場も全部破壊しつくされてしまうだろう。風に耐えるように、墓石がかたかたと音を鳴らす。

 遠くでは雷が鳴る。

 全てを焼き尽くさんばかりの、激情の火ならぬ、激情の閃光。

 それを見えない目で見回してから、明に視線を戻す。

「大丈夫。……ユウには見せない」

「……分かった」

 ユウは、朝香の体越しに目にした。

 鳥が羽を広げるが如く、黄金の光が迸ったこと。

 それに対抗するように、影は放射状に伸びた。龍の尾に、龍の髭に見えるそれは、空を鞭打ち小さな稲妻をあちこちで起こした。その内の一つが、ユウに伸びてくる。思わず目を瞑ろうとした……その寸前、前を横切ったのは。


 金色の髪を持つ男性だった。


「くっそ……寂れた神社の狛犬の力なんざ、自分の身の回りに少し結界張る程度しか残ってねぇんだぞ」

 白い装束に紅色の袴。灰色の世界に、ただ一人鮮やかな色彩を背負って立っている。

 身体の所々に結んでいるのは、紅白の注連縄。……狛犬の像が身に巻いているそれだ。

 彼は鋭い目を吊り上げて、両手を前に突き出す。

 バジバジバジッ!! と、何かが衝突する音が交差する。受け止めている明の眉間が、苦しげに歪み。顎先に汗が伝った。

 もうユウたちを認識していないであろう、ジンの攻撃が、こちらへ絶えず牙をむく。

『──ゴロロロロォォ……』

 バチッ。バチッ。

 猛々しい雷鳴の白金と、柔らかい黄金。

 明が横流しにした影が視界の脇を駆ける。地面が深く抉れた。

「ジ、ンさん……!」

 分かる。この影は、早乙女の仕事で見たモノよりももっと強大で凶悪だ。「自我を失っている」の次元が、博物館のモノとジンとでは全く違う。龍の根本には、深く根付いた怒りと憎しみがあった。伸びた影が、鈍器のようにこちらを殴り付けようとする。あるいは刃物のように刺そうとする。それを全部受け止めているのは明だ。

 ユウが激しく、肩で呼吸をし始めた。

 その後の光景は、よく見えなかった。

 朝香が。また視界を遮るように一歩動いたから。

『────…………!』

「クッソ……!!」

 黄金の光が、伸びた影ごと、丸ごと、全て飲み込む。

 ──ピッシャァァァンゴゴゴロ……。

 彼自身の叫びであるかのような雷鳴が轟く。鼓膜を突き刺す痛みが襲う。それでも耳を塞ぐことは出来なかった。何も見えない。何が起こっているのか。ちゃんと目にしなかればと思うのに、体が震えた。

 ただ分かったのは。


 影が段々と粒になって消えたこと。

 雷はもちろん、雨すらぴたりと止んだこと。

 嘘のように夏の青空が広がったこと。

 他人行儀の蝉たちが、一斉に鳴き出したこと。



 蝉の声は五月蠅いのに、なぜだか「静かだ」と感じた。

 誰も何も言わずにそこに立ち尽くしている。蝉の声よりも、頭の中で、ジンの叫び声がぐわわんと反響していた。

 眩しい青が目に染みて、涙が零れた。



◇◇◇



 娘は道中に捨て置かれ、路頭を彷徨いました。──助けて、お腹すいた、眠い、私はただ、帰りたいだけなのに──……。


『カミは……カミは、どこだ』

 その時。丁度。都へやってくる「彼」がありました。

 この頃元気のない娘を、彼は心配していました。

『カミ……?』

 屋敷中を探します。屋敷中を探します。探します。中々見つからずに、仕方なしに、旦那のお貴族様を探しました。探しました。すぐに見つかりました。お貴族様は屋敷の中にいたのですから。

『あの男、カミの近くにいずに何をやっているのだ』

 少しだけ苛立ちが渦巻きます。

 ぱちり、電気が虚空で一度拍手をしました。

 そうして彼は、その話を聞きました。

「あの女は……」

「大丈夫です。こちらの屋敷に帰ってくる様子はありません」

『カミ……?』

「なら良い」

「それどころか、この都にすら既に姿がありません。大方、一人で歩いて故郷へ帰ろうとしているのでは」

『……』

「何と愚かなやつ。この都からどれ程距離があると思っておるのだ」

『……』

「そんなことすら分からぬのでしょう。ははは」

『…………』

「どこかで野垂れ死にでもするのではないですか」

『……………』

「野垂れ死にとは惜しいな。見た目は美しい女だったのに」

「それを旦那様が仰いますか」

「ははは」「ははは」「ははは」…………。


『……カミ』


 彼は、怒り狂いました。

 彼は、都を壊し、民を殺し、全てを無に帰してしまったのです。



 おしまい。



《後悔と幻灯写真 終》

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