【7-8】
──龍と少女が出会ったのは、まだ少女が幼い頃のことだった。
ぴちょり。ぴちょり。暗がりに落ちる水滴。「彼」は息を潜めて、それを聞いている。それ以外に音はしない。自らの呼吸の音すら、意識の向こうに置き去りだった。頭は絶えず働いているのだけれど、自分が今呼吸をしているのかどうかだけは、曖昧で。とてもじゃないが、判別がつかなかった。自分の姿すら掴めぬ暗がりは、“自分”という存在すら有耶無耶にする。もしかしたら、自分はこのまま世界に溶け込み、一体化するのかもしれない──輪郭をその闇に溶かして、どろりどろりと。
「彼」は、別にそれでも良いような気がした。
世界に溶け込むことは、死より何だか、恐ろしくないことに覚える。まぁ、死ぬことを恐れたこともないのだけれど。
ぴちょり、ぴちょり。水滴の音は迫る足音のように。
けれど実際、誰かがここに来ることはない。
孤独を選んだ。寂しくない。もう外は疲れたのだ。
「……だ、だれか、いるんですか……?」
目を見開いた。
なぜ、と、明確な疑問が頭に浮かぶ。しかしそれは、声に出ることがなかった。声帯など長く使っていない。
長らく誰も訪れなかった洞窟に響いたのは、少女の声だった。
「龍……?」
幼い少女は、恐れない。
暗いからこの身が見えていないのだろうか。いや、彼女は「龍」と口にした。自分の正体が分かっている。ではなぜ、恐れない?
数百年前に町で暴れ、その罰として、この洞窟に封じられた龍を。
子ども特有の好奇心か。そう思ったが、龍はすぐにそうでないと知る。
「とても苦しそう……大丈夫、ですか?」
その少女に滲む空気が、「憐れみ」や「慈愛」の類であると、震えた体が教えてくれたからだった。
***
闇に突如舞い込んだ少女。名をカミと言うらしい。
しっぱり、しぱり。重く瞬きをする。どうせ目を開けたって何も見えやしないのだ。長らく動かなかった瞼が重い。全身、何もかも、重い。特に動かす必要のない耳すら重い。重い、重い、重い──並べ立ててみれば、“自分”という体が大層重いものであると感じられた。輪郭が世界に溶け込むなど、とんでもない話だ。久方ぶりに自分の存在を捉えたと、そんな気がする。
少女に向いた意識。水滴の音がもう聞こえない。
「大丈夫ですか? 話せない、のですか?」
ひたすらに問うてくる。
煩わしい、と感じる程に。大丈夫だから出て行ってくれ……そんな可愛くないことを言おうとしたが、すぐに喉が開かない。
「ケガは、ありませんか? ……よく見えないなぁ……」
違う。
「こんなところに、ずっとお一人で? ここはさむいでしょう……」
自分は、遮りたくなかっただけだ。
「大丈夫です。カミがそばにいます」
この、優しい声を遮りたくなかっただけだ。
少女の小さな体が、自分に凭れ掛かってきた。否、寄り添ってくれた。その位置は、少女には暗くて分からなかったろうが、龍の左目のすぐ脇だった。
そばにいる。これが、体温。
触れた個所から、じんわりと流れてくる温かさに驚く。自分の体温が低かったのだと初めて知った。また、自分を知った。
少女はごそごそ時折動いたが、それ以降何も話さなくなった。「そばにいる」ことを体現してくれている。が、その声がぱたりと止み。また静寂が訪れたことを少し寂しく思う。
『……大丈夫だ』
何て、遅い返答。発してから恥ずかしくなる。
ガバットすぐそばで音がした。きっと、少女が声に反応したのだろう。何を返されるか……龍は緊張して言葉を待った。高鳴っている“命”の位置を知った。
「……よ、よかったぁ~~!!」
やがて、少女がそう息を吐く。龍も息を吐いた。
龍が反応を示したので、カミは自分のことを話し始めた。
カミ自身のこと、自己紹介。
カミが住んでいる村のこと。
今日は、外に出掛けていたら突然嵐がやってきたこと。
慌てて逃げ込んだ先が、この洞窟であったこと。
軽く相槌を打つだけでも、カミは喜んでくれた。話を聞いてくれる存在がいただけで、安心だったのだろう。カミはきっと、突然の嵐に心細い気持ちだったに違いない。こんなに明るく振る舞ってはいるけれど。
ひとりとひとり。
寄り添いあって言葉を交わすだけで、温かかった。
(……知らなかった)
こんな気持ちは、知らなかった。
***
「ねぇ、嵐がすぎたら、ジンも一緒にここを出ましょうよ」
カミは最初、龍を龍さま、と呼んだ。しかし何だか、それでは寂しかったので「龍神」から取り「ジン」と呼ばせた。
申し出は有難いと感じるが、龍……ジンは首を横に振る。
少女の知らないことだが、自分はこの洞窟に封印されている身なのだ。なぜカミがここに入ることが出来たのかは定かではないが、きっと封印の力が弱まったからだろう。今ならジンも出られるかもしれない。それくらいの時が経っている。
そうだとしても、ジンはあまり外に出る気にはなれなかった。もう疲れたのだ。時の流れが、外への執着も薄れさせた。また邪険にされるくらいならば、もう外に出ずとも良い。
それに……この大きな姿を見られて、カミが恐れないかどうかが不安だった。今は暗いから、怖がらないだけだ。
『そうはいかない』
「なぜ」
『もう、ワシは外に出たくない』
「誰かとケンカでもしたの?」
思わず静かに吹き出した。その吐息が、自らの髯を柔らかく揺らす。
『ケンカ……ある意味ではそうかもしれないな』
人間たちとのケンカ。最も、そのケンカ相手はとうの昔に寿命で死んでいるだろうが。
そうと知らない少女は、屈託なく言う。きっと笑っているのだろうな、そう想像出来る声色だった。
「大丈夫よ。カミがまもってあげます」
『……君が?』
「はい! “楽しさ”で、まもってあげる。楽しければ、何も怖くなんてないでしょう? 絶対に、外は悪いだけのものではないもの。それにカミ、あなたの姿が見てみたい」
それは、と言いかけて口籠る。
小さな手が、ゆっくりと鼻先を撫でていた。撫でながら、その形を想像しているような仕草だった。
その手探りに、甘えたくなる。カミなら受け入れてくれるのではないかと期待してしまう。……だけれど同じくらいに、怖い。きちんと、恐怖が隣に居座っている。つんつんと、指先でこちらをつついていた。
龍は息を吸って。
『やっぱり、ダメだ』
「ダメなの?」
『ワシは、ヒトではないのだぞ』
ぶるり。希望を飲み込んでただ吐き出した鼻息は、そこら辺のそよ風よりも強かった。
カミはそれに吹かれながら。きょとん、とする。その顔は、ジンには見えていない。
「知っています」
『知っているのと、見るのとでは……』
「カミはジンの姿が見たい。あなたは、カミがどんなお顔をしているか見たくないの?」
続けざまに投げかけられた言葉に、息を飲んだ。
カミの顔が、見たくないかどうか。
外がどうのではなく、外で何がしたいか、でもなく。
ただ一人の少女の顔を見るために。それだけのために。
龍は笑みを漏らした。カミには見えていない。そうして、ジン自身も気が付かぬ内に。
『そう……だな。ワシも、カミの顔が見てみたい』
洞窟の奥には、雨風の音も雷の轟も届かなかった。こうも静かに会話していると、どうにも自分が小さな存在に思えてきて、おかしい。
あらあらまぁまぁ。
第一声。外に出るなり、カミは素っ頓狂な声をあげた。ジンもしぱしぱと瞬きをする。
「これが、あなたの姿?」
『いや、違うが……どうしてこうなったのだろう』
ジンは長らく自分の姿を見ていない。だから多少記憶違いはあってもおかしくないのだが、「これ」は明らかに違うだろうと分かる。
──なぜって、龍である自分が、まさかトカゲであるはずがない。
重苦しい体躯が、洞窟を出た瞬間一気に軽くなった。頭が軽い。手足が軽い。というか、少ない。数が減った。顔を揺らせば一緒にそよいだはずの髭も無い。尾っぽもやけに軽くて、すっと動かすことが出来る。
「ジンにも分からないんだ」
『あぁ……でも恐らく、封印されていた場所から出ようとした弊害だろうか』
洞窟の入り口を振り返る。
ぽっかりとしたただの空虚が、冷たくこちらを見つめ返す。が、その視線に敵意は無かった。ただただ「他人行儀」の冷たさで、ジンにはそれが「もうどこにでも行っちまえ」と言っているように聞こえた。
封印の効力がまだ強く残っていた時代なら、ジンは死んでいただろうか。時の流れが、「龍を弱体化させる」のみに留めたか──今となっては、確かめる術もない。
まぁおかげでカミを怖がらせることもないし、龍であるアイデンティティにも拘りはない。
「え~~龍の姿をしたおっきいジン、見たかったのになぁ」
……惜しんでいるカミには申し訳ないけれど。
ジンは洞窟から目を離し、頭上を見上げた。
青。空の青。葉の青。澄み渡った青。焼き付くくらいに眩しい、青。
ここが外の世界。思ったよりも静かで、冷たくない場所だ……そう考えていると、視線の先を遮る少女の顔があった。逆光に翳る、一人の少女の顔。
ジンが見てみたいと、一夜の嵐の内に思った、彼女は。
一つに結わえた髪を揺らして。はじめましてと、微笑んだ。
***
(あの時カミは、どんな顔をしていたかのう)
トカゲは一匹、龍姫像を見上げる。
出来事は思い出せたけれど、まだ細かい箇所の記憶は曖昧なようだった。事実、成人女性に成長したカミの姿──いわゆる龍姫像──を見ても、顔がよく思い出せない。
まぁ直に思い出すだろうと目を閉じる。
目を閉じる。暗闇が訪れる。当たり前のことだ。暗闇に包まれたらば、蘇る……この身に触れた、温かい手の感触を。何を思い出し、何を思い出さなかろうと、この温もりと想いが残っているのなら、それで十分に思えた。今のジンには。
(そうだ)
あの墓に報告しに行こう、と考える。
大きく立派な墓。ジンが朝香たちと出会ったその場所だ。今までずっとそこにいたので、深い思い入れがある。ジンを近くで見守ってくれていた、まるで恩人のようだから……あそこに挨拶しに行くのも良い。
自分は記憶を取り戻した。今までありがとう、と。
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