【7-7】

「カミの友人だったトカゲの正体は、龍だったのです! 龍はカミを助けるため現れ、雷神にぶつかり、説得したと言います。怒る雷神、咎める龍神! そしてその説得に加勢するカミ。町の人には、カミが二匹の龍を使役しているかのように見えたことでしょう……!!」

 鳴上の拳に力が入る。

 おぉ……! と、子どもたちの目が歓喜と期待に揺れた。

 クライマックスへ突入する盛り上がり。しかしそれを、一番に重く受け止めているトカゲが一匹。

「やがて災厄は去りました。カミの強さが、優しさが、この町を救ったのです! カミと龍神も、無事を抱き合って喜びました。その龍神に親しんだ姿から、カミはやがて『龍姫』と呼ばれるようになります。そして今の時代まで、町を救った姫として愛されるのでした……! めでたしめでたし……ッ!!」

「何でお前が泣いてるんだよ」

「だってぇ……!」

「またまなちゃんが泣いてるー」

「龍姫のはなしするといつもだよねー」

 二条が鳴上に向かってハンカチを差し出す。鳴上は遠慮もなく、涙(ついでに鼻水)を拭いて、小さな子たちに笑われていた。

 龍姫伝説。不遇な半生を送った姫が、町を救って後世まで愛される物語。鳴上と二条が、惹かれてやまない伝承。そして。

「ジンさん」

 朝香が小声で呼び掛ける。人々の注意が真奈へ向いている内に、こっそりと。

 トカゲは、涙を流している。ふるるっと明は頭を振るいたい衝動に駆られているようだったが、堪えていた。ぺろっ。ぺろっ。舌で何度舐めても溢れる涙。これまでの、『感動しました!!』というテンションではない。

 これが意味することは、つまり。

「……記憶が戻ったのかよ」

 ゴールデンレトリーバーが喉を唸らせる。そこにはどこか、固い緊張感を伴っていた。

 やがて落とされる、はい、という肯定。

『思い出しました……カミは、カミは、ワシの友人でした……! それで、一緒に雷神を倒したのです!』


 ぴしり、と。


 空気にヒビが入った。気がした。

 ユウは体を強張らせる。それは明と、それから朝香が放った緊張感だった。一体どうしたのだろう。記憶が戻ったなら、それで良いとユウは思うのだが。些細な違和感というか、ズレ。決して優しい納得など無い、二人の空気に首を傾げた。

 しかしジンはそれに気付いていないようだったので、ユウは声を掛ける。

「なら、良かったわね。偶然とはいえ、記憶の話を聞くことが出来たんですもの」

『えぇまさに! 朝香さんたちに出会えたおかげですぞ』

 ジンが感謝の目を朝香に向ける。

 朝香はそれを視覚的に受け取ることは出来ないけれど、そっと髪を揺らして笑った。そこには、先程の違和感は少しも無かった。

「えぇ、良かったです。カミさんも、貴方が思い出したことで喜んでいらっしゃると思いますよ」

『そうですな!! あぁカミ、忘れていて申し訳なかった。こんなところに墓があったとは……』

 トカゲは見つめる。空に手を掲げる、凛々しい女性の姿を。

(途中、捨てられてしまうなんて悲しい人生だったけれど……この人は、とっても幸せね)

 ユウも像を見つめた。

 お伽噺を聞き終えた子どもたちが、龍姫の元に集まっている。子どもから、大人に至るまで。こんな、地元の人が憩う公園に、わざわざお墓が作られるくらいに。彼女は愛されている。人々を愛した優しい女性の行く末が、こういう結末であること。それは十分に胸を温めた。

「でも……どうしてジンさんは記憶を失くしていたのでしょうね?」

『うーむ。長く生き過ぎてボケたんでしょうな』

「お前みたいなのだったら、あり得るな」

『ヒドイですよ明さん!! ……でも良いのです。その空白の期間も、いつかは思い出すこととなりましょう。もうワシは、カミを思い出すことが出来たのですから』

 夏の風が吹き抜ける。

 そこに爽やかさは無く、じっとりとした湿りけ。重く纏わりつく気怠さが、生者の肩に乗る季節。子どもたちの顎先を、汗が伝った。陽炎が震える。彼らの影を、夏の隙間に潜む何かを隠すように。

「ふあぁ、すみません細波さん。つい感情的に」

 鳴上だった。ぼさぼさの短いポニーテールが、一緒にしゃくり上げている。隣には、肩をすくめている二条。

「ほんとすみません。こいつ龍姫伝説大好きで」

「はい。それがよく伝わってきて、僕も楽しかったですよ」

「お優しい……うっ、うっ」

「真奈は落ち着け。……細波さんが真奈と出会ったあのお墓は、カミを一度は捨てた貴族の一族の墓だと言われているんです」

「なるほど」

 朝香は頷く。ユウも納得がいった。だからあれほど、豪勢で綺麗なお墓だったのだ。

(……でも、なら尚更なぜ、早乙女さんはあのお墓の写真を撮ってこいなんて……)

 あのお墓には、もっと他に逸話があるのだろうか。それとも、龍姫伝説に何か。……そこまで考えて、首を横に振る。

「すげーっすよね。架空の要素はあると思いますけど、現実にお墓があるとリアリティあるっていうか」

「このカミさんという女性も、歴史上実際にいらっしゃるということですよね?」

「あー……そっすね」

 二条はふと苦笑して、隣を見た。鳴上が、涙目で彼を睨みつけている。

「何見てんのよ」

「お前が睨んできてんだろ」

「仁はどーせまた私の説が間違ってるって言うんでしょ!!」

「言ってねぇよ! 人が語り伝えてきた、真奈の説も普通に良い話だと思ってるって」

「『も』って言った!?」

 唐突に始まった喧嘩。

 置いて行かれる二人と二匹。二条が先に気が付いて苦笑いする。

「この話するといっつも喧嘩になるんです」

「説……と言っていましたね」

 二条は頷く。

「今、真奈が語ったような伝承と、「優しく強く勇敢」っていうカミの人間像……こっちが有名っていうか普通なんですけど、『それは本当に正しかったのか』っていうのを歴史的に考証していて。俺が大学でやってる専攻テーマなんです」

「こいつ、こんな素敵な話を否定するんですよ!? ひどくないですか!」

「否定じゃねぇって!!」

 彼はため息をつき、視線を上へ向けた。

 そこには、皆に愛される女性の像がある。その双眸は真剣で、どこか悲しそうでもあった。

「ただ俺は……彼女がそんなに強い女性だったとは思えないんだ。寧ろ優しいからこそ繊細で、傷付きやすいような、そんな……」

「あーはいはい。仁の初恋は龍姫だもんね。私とは正反対でしょうね!」

「なっ……そ、そんなことはどうでも良いだろ!!」

『ほっほっほ。仲が良いですなぁ』

 記憶を取り戻したジンは暢気なものだ。

 確かに、伝承や歴史の記憶は、どこかで歪曲するもの。源氏物語や平家物語は写本という性質上、移し間違えによる誤差が生じるし、後者に至っては諸本によって話の質に違いがある。グリム童話などのお伽話も同様。そして歴史は、残る文献の少なさ故に尚のこと様々な説が生じるだろう。

 それこそ、真実のみを物語る「写真」など存在しないのだから。

 歴史の記憶は、歪曲する。人の感情に、思惑に左右され。

 それは良い意味でも、悪い意味でも。

「カミは町の人の希望だ。だから『強く優しい女性』という姿を求められている・・・・・・・。……でも、俺はありのままのカミの姿を見つけてやりたい」

 龍姫伝説が好きだからこそ。

 二条の目は、そう語っていた。鳴上の方は、ずっと胡散臭いものを見る目だけれど。

 それを聞いていた朝香は、二条に告げる。

「もし宜しければそのお話、聞かせてもらえませんか?」

「えーっ!?」

 一番に驚いていたのは鳴上だ。「細波さんまで興味を持つなんて……」とがっくり肩を落としている。

 ユウも不思議だった。朝香も、カミについての真実に興味があるのだろうか。

 二条は微かに驚いた表情を見せたが、すぐに人の好さそうな笑みを浮かべた。大人ではなく、大学生の方により近い、若々しい笑みだった。

「もちろんです! 俺の家に資料があるんですけど……良ければ明日にでもいらっしゃいますか?」

「お願いします」


 ──パタリ。


 雨だ、雨だ。子どもの声。

 降ってきた雫に誘われるように顔を上げる。空には気付けば、薄い灰色の雨雲が横たわっていた。ぱたり、気まぐれに地上へ落としていく、透明な生温さ。

 幽霊のユウに雨は関係ないが、他の人間は手で傘を作り始める。朝香は、自らの上着の内にカメラを隠すように抱いていた。

「うそー! 雨!?」

「とりあえず、役所に帰ろう」

 青いスモックも一列に並び、幼稚園へと帰っていく。公園に残ったのはユウたちだけだ。

 自分たちも一旦役所に帰ろう。そう足を踏み出した時、『待ってください』と制止する声がある。

『朝香さん。明さん。ユウさん。ありがとうございまず。ワシは、ここに残ります』

「え?」

 ぴょんっ。黄金色の頭から軽い調子で飛び降りて。黒く湿り始めた龍姫像を見上げた。

『ワシはここにいます。記憶が戻ったのですから、もうあちらにいる必要はないでしょう。ここでゆっくり過ごしながら、残りの記憶も思い出すことにしますよ』

 つぶらな瞳は、嬉しそうな色に揺れていた。

 明はふるるっと体を振るう。雨粒と、ジンが頭上で流した涙を散り落した。

「……まぁ、そうなるよな」

「そう……じゃあお別れね」

 ユウはそっと膝を折る。この像をまた訪れることがあれば、会えるかもしれないけれど。その時ジンが近くにいるとは限らない。

 ジンの黒い瞳がこちらを見上げる。心なしか、記憶を取り戻してからいきいきとしているようだ。喜ばしくもあり、寂しくもある。羨ましいわけではないけれど、彼はこんなにも早く、記憶を取り戻した。

(……いいえ、きっとすぐではないわね)

 彼は相当長寿なはずだ。「出会ってすぐ」記憶を取り戻しただけなのであって、彼が、過去に足付かず浮遊した「現在」は途方もなく長かったのだろう。

 それが、これからユウの辿る道でもある。きっと。

「あなたのおかげで、少し背中を押された気がしたわ」

 それでも、過去を取り戻したことでこんな喜びがあるのなら。

 探し続ける価値はある、と思えた。

 トカゲはぱちぱち瞬き。頷いたようにも見える。

『えぇ。ユウさんの記憶も、早く取り戻せることを願っておりますよ』

 三人はジンに別れを告げた。

 公園を出たところでもう一度振り返ったけれど、既に薄靄に包まれ、その姿を見ることは出来なかった。

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