いつかの代行写真家 - 後編
◇◇◇
実際、朝香は「何も出来ない」わけではない。
けれど今の彼にとって、どれほど痛い言葉だろうか。どこか「自分」を置いてきてしまったような空っぽに、おじいさんは何と声を掛けたら良いのか分からない。言葉が必要なのかさえ分からない。
ここが落ち着く場所、と彼は言ったけれど。
それはおじいさんが少年を否定しないからだ。両親や、周りの目と違って。
その代わりにおじいさんは、しっかりと彼を肯定してあげることも出来ない。ふんわり漂って迷う朝香を、縫い留めてあげることが出来ずにいる。
「……やりたいこと、無いんですよ」
活発な子どもと、その相手をする母親。二人が居なくなって、生気の濃度が薄くなった館内で、ぽつりと朝香は呟いた。さっきの質問の答えか、と耳を澄ませる。
彼に視線があるのなら、どこか遠くを見つめていただろう。
「……僕は、自分のために生きたくないんです。人の……ために生きたい。だから、自分のための選択を、することが出来ない」
遠くを見つめられない朝香は、きっと目の前の暗闇を見つめ続けている。閉じた瞼の裏ばかりを。
言葉に、おじいさんは息を詰まらせた。人のために生きたい。それだけ聞けば立派だが、重みと質が全く違う。
朝香は「人のために生きたいがために自分のための選択が出来ない」と言うが。
それこそが朝香にとっての最大の「自分のため」だ。自分のために、他人本位で生きようとしている。最大の「自分のため」で、自分勝手。元から優しい少年ではあったけれど、何がこうも極端な考えにさせてしまったのだろうか。
「朝香……」
名前を読んで。
意を決して、カメラを持ち上げた。
「ウチの手伝いをしてみないか?」
朝香が顔を上げる。珍しく少し驚いた顔をして、首を傾げた。
「……え?」
遅れて返ってきた反応に満足する。思ったより手応えのある反応だ。「ウチ」、写真館、カメラ、思考が連想ゲームのように流れて、ようやく「手伝い」の理解を理解した様子が見て取れる。
「いや、でも写真館のお手伝いなんて……目も見えないし」
「だから、ほんの少しの手伝いで良いんだ。ここに居てくれていい。興味が湧いたら、自分でも撮ってみたら良いじゃないか」
この写真館は地元の人しか利用しないとはいえ、一人できりもりしていると大変なこともある。朝香がいると助かる、という理由もあって。
朝香はそこまで分かっているんだろう。暫く思案顔になって、それからおじいさんに顔を戻した。何か言いたげに、しかし何も言わない。なので、こちらから提示してみる。
「何か一つ、選んでみるかい? カメラ」
掴むぞ、と宣言してから、白杖を持たない方の手を掴む。突然触れられると、驚いてしまうからだった。
朝香を、カメラの置いてある棚まで引いて行く。彼は大人しく着いてきた。やる気があるというよりかは、とりあえず着いてきていると歩き方で分かる。それでも良かった。
夕日に陰った、薄暗い色の棚の前に立つ。一歩歩く度、鼻に触れる埃っぽい匂い。常に手入れをしていても拭えない匂いだ。だが何となく、心が落ち着く。カメラたちは粛然とした様子で棚に佇んでいた。人間の黒目のようなレンズに、今はカバーが付されているものの、こちらを見つめ返しているような不可思議さ。不気味さ。いつでもカメラは人の営みを写し取っている。そんな気がする。
朝香を横目で見た。見えない彼の手を運んで一つずつ、触れさせてみるけれど、釈然としない顔のままだ。
(選ぶのは難しいか……)
使い勝手の良いカメラを渡してみよう、と棚を一瞥する。手を離したその時に、朝香はくるりと後ろの棚を振り返った。
「? 朝香?」
「こっちのカメラって……使えないんですか?」
目を見開く。興味が無かったのではなく、元々選ぶカメラにあてがあったんだろうか。
こっち、というのは、丁度先ほど朝香と男の子が陰で話していた棚である。男の子の服に紐が引っ掛かっていた、というカメラは上段左から五番目のものと見て取れた。紐が垂れっぱなしになっている。
「一部はもう壊れているものだが、使えるものもあるよ。初心者である内は、オススメ出来ないものばかりだが……」
おじいさんの言葉を聞きながら。細い指が、迷わず一つのカメラに伸びる。その迷いの無さに驚いてしまう。何かが見えて……いや、視えている。自分には視えなくとも、そう思う。
朝香はカメラを持ち上げた。小さな子どもの脇に手を入れて、持ち上げたようにも見えた。ぷらん。力なく揺れる紐。朝香がカメラに向かってそっと笑いかける。
それは、ついさっき子どもが落としかけたカメラ、だった。
「さっき……この子の『声』が聞こえたんです」
「あぁ……だから、紐を引っ掛けたまま落ちそうだと分かったのかい?」
ゆっくりと頷く。表情が、暖かい温度に満ちていて思わず息を飲んだ。空っぽ。ただ浮かべた微笑み。透明な浮遊感。そのどれでもない朝香の顔を、見た。
何かが変わった。
外の葉が、秋の赤黄へ、鮮やかに色付くように。
「初めまして」
見えない何かに声を掛ける。
強張った空気が緩んで、何かがそれに答える。固い本体が、柔らかい肌に馴染んでいく。その手に収まることがすっかり普通であるように、カメラがその手に身を委ねていた。
「……驚いたな。それは、扱いが難しいカメラなんだよ」
ふっと。自分からは自然と笑みが零れ落ちていた。
気付いた時には、頭に手が伸びていて。ビクッと体を震わせてから、朝香が不思議そうにこちらを見た。昔と違って、少し抜かれた身長。何だか今思うことでは無い気がするけれど、彼の成長を実感する。
知らない世界を知りながら、またその途中で目に見える世界を失いながらも、まだ朝香は知らない世界に触れようとしている。
それが自分本位の他人本位だとしても。
「そのカメラは、お前にあげるよ」
「……良いんですか?」
「あぁ」
カメラや写真は、彼の望みを叶えるかもしれない。
冬にも近付く肌寒い秋の中、期待で胸が暖かくなる。
「写真は、そこにいない人にも世界を見せてあげられるものだからね」
朝香が、何かハッとしたような反応を見せた。それから、黙り込んでカメラを見つめる。何もしてやれることが無いけれど、これで少しは、何か環境を与えられたのだろうか。これから何をするかは、朝香の自由だ。
写真は、ここにいるだけでは見えない、見ることの出来ないものを見せてくれるもの。
いつか彼自身が、自分のために景色を映してくれるよう。そう、願わずにはいられない。
終
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