間章 Memoria film

いつかの代行写真家 - 前編

 「うぐいす写真館」。


 ここに来る者たちを、思い出で柔らかく包む場所。または、記憶を残していく場所。未来の何処かにいる自分に、過去を届ける、そのお手伝いをする場所。

 だからこそこの優しい場所は、記憶の優しさを求めているのならば。誰が来ようと、どんな目的があっても拒まない。それが例え、「目的が無かった」としても。



朝香あさか

 ドアベルと共に入ってきた少年に、おじいさんは目を細めて微笑んだ。学生服を着た少年……細波さざなみ朝香も微笑み返す。いつ見ても、儚いと、そう感じる。夏を終えて、館内には秋の日が差すようになった。夏の勢いは衰え、弱くなっていく光。そんな弱い秋の光にも、輪郭が飲み込まれて消えそうな、そんな雰囲気を纏った少年だった。

 白杖を付く「トントン」という音だけが、彼の存在を示す。

「昔」は、これ程では無かったと思うのだが。

「頻繁に来てしまって……すみません。用も無いのに」

「ん? あぁ……良いんだよ。ここが、落ち着くんだろう?」

 朝香の声に我に返る。落ち着く。その言葉に、「そうですね」と申し訳なさそうにまた笑った。そんな顔を、することはない。おじいさんにとって、ここが落ち着く場所だと感じて貰えるのは何より喜ばしいことだから。

 彼は、この地域に住む十八歳の少年だ。昔からこの写真館も家族で利用しており、その縁で友好のようなものがある。盲目で大人しい。それでいて、奥の奥に何か想いを秘めているような……そんな少年。

 次の冬には大学受験を控えている彼だが、親とはずっと上手くいっていないらしい。大学進学か、職に付くか。進路に悩む、と言えば年相応だが、朝香はそれ以上に何か、抱えているように見える。

「出来れば……独立、したいんですよね」

 窓際の席に座るよう勧めると、朝香は礼を述べて席に着いた。自分も、その向かいに座る。

「あまり両親が僕を良く思っていないの、分かるんですよ。盲目という部分の方は問題じゃないんです。確かに周りより困るかもしれませんが、今の時代、対応してくれる大学なんて沢山ある」

 聞き慣れた、静かな声。

 抑揚があまりなく、淡々として。こちらが心配になる声色。表情こそ柔らかい顔をしているものの、それも変化がなければ逆に不気味だ。

「僕の……目が見えなくなってから、色々変わった。だから両親にはもう、迷惑は掛けられないと思いまして」

「……そうか」

 色々変わった。そうだと思う。彼ら家族は普通に仲が良かった記憶があるのだが今はこんな風だし、何より。

(朝香も……変わったな)

 悪い意味ではないし、本人に言うつもりもないけれど。

 昔はもう少し明るい少年だった。その後数年、写真館に来なかった時期があった……と思いきや、「目が見えなくなった」という状態で再会した。人が変わった、と思ったのは否めない。

 まだ現像していないフィルムと同じ。確かにそこに「何か」はあるのに、その姿は鮮明に掴めない。

 しかしだからこそ、朝香が「ここに居ると落ち着く」というのなら、居させてあげたかった。

「朝香。……大学でも就職でも良いけれど、何かやりたいことは無いのかい?」

 尋ねる。困ったような笑みが返ってくる。

 やはり答えは得られないか。そう思った時に。


 カランカランとドアベルが鳴った。


「おや」

「お客さんですかね?」

 静かな館内を割って入るように飛び込んできた音。来客を告げている。閉店の看板を、そういえば出していなかった。

 朝香に目を向けると、「大丈夫ですよ」と言われたので、頷く。

 秋の涼やかな香りと入ってきたのは、母とその息子であろう男の子の二人連れだった。近所の人だ。見覚えがある。男の子の方は幼稚園の正装の制服をしっかり着て、ほんのり頬を赤らめながら歩いていた。ふすふすと鳴る鼻。恐らく、制服をビシッと着ていることで、気持ちまで高ぶっているんだろう。微笑ましい姿に思わず笑ってしまった。

「こんにちは」

「こんにちは……すみません。先客の方がいらっしゃいましたか?」

「あぁいいえ。彼は、ここに立ち寄ってくれているだけですから。私の手は今空いていますよ」

 母親の女性は、朝香を見る。開かない瞼と、傍らの白杖に若干目を見開いた。朝香が座ったまま軽く会釈をすると、ぎこちなく会釈を返す。彼が見えていない代わり、側で見ているこちらが少し悲しい。

 少年はきょろきょろと館内を見回すと、母親の手を離れて行った。パタパタ。室内を横切る影。貼ってあるスクリーンにも興味津々。まあるい目で見て回る。

「こら! あんまりうろちょろしないで!」

「大丈夫ですよ。見て回る分には……でも、なるべく触らないように気を付けてね」

「はーい!!」

 分かっているのかいないのか、男の子の元気な返事。

 母親がため息をつく横、おじいさんはそっと笑った。

「それで、今日はどのようなご用事で?」

「あ、はい。もう少しでこの子が七五三を迎えるので……」

 その写真を撮る上で、相談に来たのだと言う。あの正装は七五三だからということらしい。今日は撮る写真のイメージや配置、姿勢、枚数の相談。相談のみの段階でも、背景色を見定めるため、本番の服装で来館する客も少なくない。

 館内、もう一つの椅子に案内して、おじいさんは母親と話を進めた。その間も彼女はちらちらと、動き回る自分の息子に視線をやっている。そしておじいさんもちらちらと。窓の外を見つめ続ける朝香を気にかけていた。




「じゃあ、撮影日のご予約はこの日ということで……」

「はい。よろしくお願いします」

 ぺこり、と女性は頭を下げる。相談の諸々は済ませ、後は撮影するのみ、というところまで話し合った。

「ほら、行くわよ!!」

 自らの息子に声を掛ける女性。

 はーい! とくぐもった場所から声がする。カメラの機材等が置かれた棚の奥。どうやら棚の物陰に姿が隠れているらしい。大人の腰ほどの高さを持った棚だ。男の子の身長はすっぽり隠れる。母親の声に、ちらっと小さな顔が出てきた。

 呆れた顔をする母親の横で、おじいさんは笑っていた。

 爛々と好奇心の満たされた瞳がこちらに駆け寄ってこようとした……その時。


「待って、動かないで」


 固い声が鋭く響いた。館内の時間を一斉に止めてしまった声色。思わず足を止める少年。おじいさんも目を見開いた。

 今の声は、朝香だ。

 いつもの柔らかい声色に、針金を通したような固さが宿る。それだけで驚いてしまった。一体何があったのか。

 朝香はあまり表情を変えないまま立ち上がり、杖をついて少年に近付く。館内の間取りは把握しているはずだ。その足取りに迷いは無い。少年の方が何だか怯えた顔をして、ガチガチに固まっていた。トツ、トツ。迫る音。温度の無い音が少年を包む。

 朝香の下半身が棚に隠れた。ここからは物陰に隠れて少年が見えないが、目の前に立ったのだろう。

 それから、しゃがんで。彼の姿も見えなくなる。

「……君の服に、カメラ……それか、カメラ紐かな? どっちか引っ掛かってないかな」

「え」

 さっきまでの固さが溶けて消えて、男の子が戸惑っているのが分かる。わさわさ。恐らく布の擦れる音の後に、「あ」という短い発見の声が響いた。

 静かな館内。何故か大人二人は、固唾を飲んで見えない二人の様子を見守っている。特別なことなんて無いのだが。

「ひも、服にひっかかってたー!! ありがとうおにいさん!!」

「うん……落とす前に気付いて、良かった」

 なるほど、そのまま男の子が駆け出していたら、カメラ紐を引っ張って、カメラも一緒に落としてしまうところだったらしい。

(朝香は目が見えないはずだが……一体どうして)

 疑問に思った、その瞬間同時に思い出す。俄かに信じられない話ではあるが、目が見えない代わり、朝香の目には別の視力が備わったのだと。

 隣で母親は安心のため息を付いた。カメラを落とすところだった、と知ってヒヤヒヤしたのだろう。あの辺の棚にはもう訳あって使えないカメラばかりが並んでいるので、落としても弁償にはならないのだけれど。まぁ言う必要も無いだろう。

「おにいさん、目がみえないの?」

 ふと、男の子の興味は朝香に向いたらしい。「うん」、と静かな肯定。

「こら、ほんとに、早く行くわよ!」

 慌てて母親が会話に割り入る。失礼なこと言わないで。もう余計なことはしないで。その話題はダメ。空気が微妙になるでしょ。早く帰りたい。それらの焦りがギュッと詰まっている。

 けれど好奇心のアクセルは止まらない。

 まして子どもは自分の感性に、驚くほど素直で。



「なにもできないじゃん、かわいそう!!」



 それは、本人よりも寧ろ周りの胸を締め付けて、刺していく言葉だった。

 すぐ次に秒針が動いた時には、母親の気まずさにも似た怒声が飛ぶ。男の子はその大声にぎょっとして、何故怒られたのか混乱しているようだった。おじいさんはこの状況にただ立ち尽くすしかない。子どもを叱る……のは本人や母親の権利。かと言って「子どもの言ったことだから」と言えるのも、本人だけだ。無意識に、朝香の言葉を待つ。

 朝香は子どもの前にしゃがんだままで。

「……うん、そうだね」

 やはり微笑みを乗せた声でそう言った。

 棚の陰に隠れて、どんな表情をしているかは、よく見えなかった。

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