【4-完】

   ◇◇◇


 朝香も明も、各々の仕事分を完遂した。ユウがいなくなって翌日の、お昼過ぎ。一旦うぐいす写真館へ帰って来ると、フィルムが置いてあることに明が気が付いた。乾燥剤を入れた密閉容器の中に入れて、日の当たらない場所。

 ユウに教えた、フィルムの保管方法だ。

「……良かった。一度帰ってきたんだね。入れ違ったのかな」

「かもな。にしてもまた何処行ったんだって話だが」

 明の口ぶりは素っ気ない。が、どこか安心したような声色が聞いて取れる。朝香は優しく微笑んでから、おじいさんにフィルムの状態を確認してもらう。

 きちんと撮れる枚数全部、撮って使用済みのフィルムらしい。一旦帰って来たのは良いものの、朝香たちが不在だったため、とりあえず生存報告に置いていったのだろうか。となると、ユウはまだ全部回り切れていないのか。

「花畑の写真と……海の写真が一枚あるみたいだねぇ」

「海、ですか?」

 首を傾げる。子どもたちのリクエストの中に、「海」は無かったような気がするのだが……それも、試し撮りもなく一枚。

 何か、考えるところでもあったのかもしれない。

 朝香も使用済みのフィルムをカメラから取り出し、おじいさんに手渡す。それから、新しいフィルムをカメラに取り付けた。

「すみませんが、現像をよろしくお願いします。ユウに頼んだ残りの場所は、みんな病院の近くだった気がするので、病院に顔を出すがてら、周辺を探して来ようかと」

「あ? 探すのか?」

「一応ね」

「ふふ、分かったよ。駆け回っているみたいだねぇ」

 見えない視界の向こう。スッスッ……と布が擦れるような音がする。おじいさんが何かをさすっているようだ。察してすぐに、明が鼻先を持ち上げるのが視える。

「じーさん、痛むのか?」

 どうやら、足をさすっていたらしい。確かに最近、おじいさんは足を悪くしている。年のせいだ、と本人は笑っていた。

「……あの、頼んでおいて何ですが、無理はしないでくださいね。現像作業は、立ちっぱなしでしょう」

「ん? あぁ……聡いな、朝香は」

 大丈夫、と言う。

 おじいさんは、朝香をずっと孫のように扱ってくれている存在だ。その為か、あまり弱いところは見せてくれない。そして朝香も、それが見えない。

 黙ったままでいると、閉じた瞼の向こうで光が差す。カランカランと鳴るドアベル。ドアの開く音。

「ほら、行ってらっしゃい」

「……行くか? 朝香」

「……うん」

 二人は外へと足を踏み出した。じわりとした夏の湿気が体に纏わりついた。


   ◇◇◇


 夕方から夜へと変わる時間帯は、何となく曖昧だ。ユウは空を見上げながら、そんなことを思った。もう夕方か。それとももう、夜に片足を突っ込んだ時間か……けれどまだ沈み切っていない太陽を見る限り、夕方、のようだ。

 今日一日、外を回ったことでユウに割り当てられた仕事は完了した。後は写真館に帰るだけ。

(一応、フィルムは置いてきたけれど)

 もし昨晩帰らなかったことで心配をかけたなら、謝らなければならない。それでも、帰らなかったことで得た収穫もあった。

 近く。聞こえてくる波音に、漂ってくる潮風に。ユウは目を閉じて微笑んだ。今回は、海にずっと見守られていたような気がする。夢乃もずっと海を眺め続けていたけれど、海もずっと、窓からずっと夢乃のことを見守っていた。彼女の焦がれた場所。彼女の「いつか」が詰まった場所。

「……そうだ」

 ふと。折角だから行ってみようかと思い立つ。こんなに近くにあったのに、一度も立ち寄らなかった。どうせすぐ近くなのだし、自ら足を運んでみるのも良いかもしれない。

(海なんて、今まで一度も行ったこと無いものね)

 ふわり。

 病院のすぐ裏手。

 そこまで飛んでいけば、見えてくる砂浜。一粒一粒がソーダの泡のように煌めいて、弾けているように錯覚する。橙色に染まった、砂。触れなくとも、それが孕んだ熱が見て取れる。裸足で歩いたら、きっと熱いだろう。もう人一人いない砂浜は、沈みかけの日の光のみを抱きとめて、時折吹く風に体を揺らしている。ころころ、転がる砂粒に、それから少しのゴミ。

 下から上へ。潮風が吹いて、誘われるようにユウも顔をあげた。

 砂浜。海へと続く誰かの足跡。



 そこでふと、気付いた。



(……あ、れ?)


 急激に、サーッと温度の冷えていく感覚。夏の波が、ぼんやりとした熱を冷やす。温度差で震えるのと同じように、霊体の透いた姿が、震えた。


(どうして、私)


 砂浜を行く。足は止めない。

 海岸線まで近付いていく。砂浜に足音一つ刻まないこの体。しかし逆に、自分の体に今、何かが。刻まれていく。


……?)


 ゾクリ。

「幽霊」としての自分が、今まで海に行ったことがない、という意味なら分かる。けれどこの実感は。この「海に行ったことがない」という実感は。それとは何か違った。行ったことない……行ったことが、無い。生きていた頃から、ずっと。そんな長い時間を伴った感覚だった。

 しかし、何故だろう。自分には、記憶がないのに。これが、その末端? 唐突に自分も知らぬ出生を突き付けられた感覚に混乱した。そんな。突然? 突然に、そんな。これは、何だ。

 混乱するユウなどお構いなしに、体は心を置いて、緊張感を高めていく。

 ──何かが、胸に迫る。

(何……? どうして……)

 ──心がざわつく。一歩、一歩。踏み出すたびに。

(どうしてこんなに……切なく、なるのかしら)

 ──波間に近付くたびに。

 知らないユウが顔を出す。恐らく、「ユウ」ではない、誰かだ。ちゃんと名前のあった、誰かがユウの中で声を上げている。それが悲鳴なのか、歓喜の叫びなのか……それは、判別できないけれど。

 水平線の彼方で日が沈む。花火の残り火のように、鮮烈に輝くそれに、ユウは目を細めた。目が痛い。心が痛い。何がどこの痛みなのか、ユウには分からない。波が夕日を反射する。夕焼けの橙に染まった波の橙に、小粒の光たち。ガラスの破片のような鋭利さを持って、こちらを刺していく。不安感が募る。こんなに綺麗なのに。

 ここにいるのは。

 一体、誰?

「……」

 髪が揺れた。風になど吹かれるはずのない、この体。

 体が揺れたんだろうか。渦巻いた何かに、押されて。

「……っ!!」

 それに突き動かされるがまま。

 ユウは持っていたカメラのシャッターを切った。


 パシャッ。


 瞬きをする間に、カメラは瞬きの隙間を残していく。瞬きをする度に、ユウからは涙が零れ落ちている。こんな調子で、ちゃんと撮れているのかなんて分からない。

 朝香のように軸のない、撮影。

 波に足首まで浸かって、満ち引きに足を浚われるように。ふらふらとその身は嗚咽に揺れて。足元の砂浜は、ふと吹いた潮風に数粒踊った。


 かしゃ。かしゃ。


「……」

 この気持ちはなんなのか。

 ちゃんと写真を撮れているか。

 分からないけれど、たくさん。……たくさん、気持ちが籠っていることは確かだ。

 自分がモノに触れたら、ちゃんと感触が返ってくるこの感触。シャッターのボタンが、死んでいる自分に「死に切っていない」と教えてくれた。当たり前のことに今更気が付いてしまう。

 自分は、幽霊なのだ。

 生者でなければ、完全なる死者でもない。何か、残してしまった。この世界に何か。だから今、こんなに苦しい。


 しゃっ……。


「ユウ。ここにいたんだ……」

 後ろから声がかかる。その声が止まる。朝香だった。

 さく、さく、と歩いてくる。人間一人と狛犬一匹。ユウは胸元までカメラを降ろす。泣いている顔を、特に恥じることもなく振り返った。

 振り返った拍子、舞った涙は、空中で消えた。

 朝香も明も同じ時間だけ、しばしの間押し黙っていた。やがて、口を開く。

「……何かあった?」

「……何か思い出したのか」

 明の鼻先が、こちらへ向く。二人の声が温かくて、また何か、込み上げてしまった。でもこの涙は、それまでのとは違って、理由が分かるんだから安心する。

 だからユウは、微笑んだ。「わからない」と、震える声で返す。

「何も思い出せないし、わからないの……」

 わからないのに、心だけは潮風に運ばれていく。怖くはなかった。思い出せないことが、悲しいわけでもなかった。ただ、ふと思い知った。記憶も居場所も無く、漂っていた幽霊の「ユウ」という存在。しかし同時に自分は、ユウではないこと。

 最後に、シャッターを切った。

「ここに、何か思い入れがあったみたい」

 ぽつりと呟く。

 ユウは誰よりも他人事だった。けれど朝香と明は、当人よりも重く受け止めた顔で隣に並ぶ。涙を拭いて、水平線を見据えた。

 小さな波が、夕日の光を着飾って寄せては返す。誰かの帰りを待つ母のように、溶けかけの太陽を抱き留めていた。背後からは夜が来る。朝香と明の影を伸ばす。橙に、夜の紫に、影の色に、本来の深い青色に。海が色とりどりの姿を見せたとき。様々な生の、記憶を感じた。



 自分の忘れたものを手繰り寄せるように。

 ユウは海をずっと見つめ続けた。





〈「たんぽぽと青写真」終〉

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