【4-8】

 その音に、少しだけこちらへ視線が向く。

「私は、死んでる」

 夢乃のようにはしっかりとしない。

 震えた文字が、想いが連なる。

 どうしたって自分勝手にしかならないし、どう柔らかく包んだって夢乃がそれを望まないのなら。

 何の洗練もされていない、思うがままを零すしかない、と、思った。

「だから、あなたが周りを隔てているのなら、悔しいと思った。私は死んでる。あなたは生きてるのに」

「……!」

 生きてる、の字面で。

 夢乃が目を見張ったのが分かった。

「群れろ、と言っているのではないわ。けどあなたは、一人で強くて、いいの?」

 弱くいられるのは、弱いから人に頼ることが出来るのは。生身の内だけだ。

 自分を棚に上げるわけでは無いが、ユウは弱くたって。朝香たちに出会うまでは、自分の言葉が一つも届かない場所に存在していた。

 自分が周りに対して理解できないこと。周りが理解してくれない自分のこと。生きていれば色々あるだろう。けれど今自分から隔てなくとも、「透明な壁」は死によって突然訪れる。嫌でも隔てられる自分と世界の隙間を。

 夢乃は想像したことがあるだろうか。

「……っ、……よ」

 ぽつり。

 布団を握った力強いこぶしと対照的な。

 何かが剥がれた弱弱しい声。

「あ、あなたには、分からないよ。死ぬことを意識させられる生がどれだけ怖いか。だって、だって記憶が無いんだから!!」

 くわわんと病室の壁が揺れた。ギリギリ隣の部屋には漏れないだろうか、という程度を飛んだ、小さな叫び。

「みんなもそう。みんなには、私のこと、『もうすぐ死ぬ可哀相な子』にしか見えてないんだよ」

「病院の人は、あなたがここから去ることを望んでるでしょう?」

「じゃあ!! 何で!! 何よ、『見たい場所を写真で撮ってくれる』って。病院から出られないことを前提にしてるの? 病院を出て、自分の足で見たい場所を見て……そうすること以外の景色には、何の意味も無い!!」

 輪郭が揺れた。激しくボケた。

 ピントの合わない、写真のようだった。

 柔らかい部分に、ようやく触れる。ゆっくりと目を細めた。彼女は、だから朝香を否定した。朝香にとっての「世界を見ることが出来ない誰かのために、色々な世界を見せてあげたい」という想いは。

 世界を見ることが出来ない、という「可哀相」に、押し込まれているだけなのだ。夢乃にとって。

(……あぁ……)

 見てきたものの全てが反転して、色を変えたようだ。

 自分は、どうだったろう。もし夢乃と同じような状況だったとして、朝香の仕事のことを受け入れられるか。……分からない。夢乃の言うとおりだ。ユウには、記憶が無い。

 死ぬ前と、死んだ後の今で途切れている、自分。けれど。それでも、写真が「いつか」の希望になることは信じていたかった。過去も未来をも指す「いつか」の希望。その様子を、今まで見てきたから。

 動かなくなった鉛筆を、夢乃は見つめる。微かに滲みもした目を細めて、体を横にした。もう、眠ってしまうのだろうか。

「……ただこれだけは、知っておいて欲しいんだけど」

 コツリ。言葉を生み出してみる。

 驚いたような顔をした、夢乃がこちらを向いた。

「……もう諦めて、いなくなったと思った」

「朝香は、可哀相だからという理由で写真を撮っているわけではないわ」

 決して。

「むしろ逆。生きる希望にして欲しいんだと思うの」

 ユウにはもう、写真を見て懐かしむことが出来ず、ただ感動することしか叶わないけれど。

「写真を見て、景色を想って、『いつか行ってみたい』『自分で見たい』と痛いくらいに望むことは、必死に生きている貴方にしか出来ない。生きることに限りがあると嫌という程感じている貴方にしか、きっと」

 ただ黙ってメモ帳を見つめている夢乃。紙は捲られず、独りよがりの言葉は幾重にも重なった。重なって、黒くなる。鉛筆の芯も丸くなってきて、文字が潰れる。それでも夢乃は、目を逸らさなかった。読み解こうとしてくれているように見つめていた。

 かつてここにいたという朝香が、なぜ、いつ、何をどのように感じたのかは分からない。けれど今の仕事を選んだことには、意味があるはずだ。

 今回の仕事で、それを痛感した。

「……」

 段々、夢乃の表情がまた変わった。

 悔しそうな顔をして、泣きそうに歪んでいく。

「……みじめになる」

「……」

「みじめに、なるの。写真を見る。本を見る。みんな、全部楽しそうで、私もいつかって、思う。ここから出たら、自分勝手にいろんな場所に行きたいって思う。でも次の瞬間、何も見えない真っ暗闇が、それを全部塗り潰すんだ」

 さっきよりも強まった語気は、さっきよりも弱い心を見せた。

「『でも出られなかったら?』って。考えたくもないこと考えて! みじめになるの! みんなが『大丈夫』って、『きっと』って言ってくれるのに、私は『どうせ』って思う時があるのっ……」

 呼吸が涙につっかえる。

 呼吸をしているからこそ感じる、息苦しさに彼女は。嗚咽を漏らしていた。

 鼻の奥が熱くなる。ユウもその呼吸のし辛さを、受け取ったように。


「私を一番可哀相がってるのは、私なの……」


 助からないと決めつけてるのは、私だ。

 念を押すように、言葉を夜に突き刺す。それからはもう、意味のある言葉は無かった。わぁっと、声を上げて泣く。それをかき消しもしない外の波音は、むしろ泣き声を後押しする。流して、流して。流し切ってしまったほうが、良い。そう思った。

 全部吐き出してくれた夢乃に、掛ける言葉一つ、見つからないんだから。

(この子は……生きたいのね)

 迫る暗闇への絶望に目を背け、同時に生きる希望からも目を背けた。

 生にも死にも、関係のない場所にいたかった。

 震えた空気が涙を落とす。ただ「ここにいる」ことを伝えるために、小さくトントン、鉛筆の先をゆっくり叩き続けた。

 彼女が泣くところを、見ないように目を閉じる。その瞬間に、また何かが頬を伝った。

 写真は、希望に成り得るだろうか。不安に負けない倍の光に、成り得るだろうか。

 暫く二人きりの夜を続けた後、ユウは、カメラを手に取った。今まで、白い上着の下に隠していたのだが、突然虚空からカメラが出てきたことに夢乃が目を丸くする。赤い目を擦って、何度か瞬き。

「カメラ……」

「夢乃ちゃん、今何か撮ってみない?」

 涙で視界がぼやけるのか、彼女は何度か目を擦って、ユウの文字を読んだ。また上半身を起こして、カメラを受け取る。小動物に触れるように、繊細な手付きで怯えているようにも見えた。気持ちはよく分かる。

(私も、何か下手に触ると壊しそうで怖かったもの)

 苦く笑って、シャッターの位置を簡易的な絵で示す。

 夢乃はしげしげとカメラを眺めてから、ユウのいるであろう方向を見つめた。すっかり引っ込んだ涙。今は、目新しいものに若干目を輝かせている。

 見えないと分かっているけれど、ユウは柔らかく頷いた。

 夢乃も、頷く。

 カメラを大事に抱えた両手。

 おずおずと。

 ──視線をやったのは海だった。

 窓の外。夢乃の見る、唯一の外。飽きるほどに見つめ続けていた景色。そして、手が届きそうで届かない景色でもあっただろう。

 流れるように、運ばれるようにカメラを持ち上げた。そのごく自然な動作に、カメラを使ったことがあるのだろうかと錯覚する。けれどピタリ。カメラを目線の高さまで上げた途端。彼女自身が写真に切り取られたように、動きを止めた。指先が、震えている。

 窓の外から、光が差す。夢乃のカメラを、横顔を照らす。

 ファインダーを覗き込む、その瞳に光を宿した。

 瞳が宿したのは物理的な光。だけれど。彼女がシャッターも切らずにほぅと息を付いた瞬間に。……別な光も、差した気がした。

 傍から見ているユウも、息を飲む。

 これを、たぶん「希望」と呼ぶのだ。形のある希望を、今初めて見たかのような温かさが、じわりとした震えが心を揺さぶる。

 写真を撮る、シャッターのボタン一つ、押すだけ。押すだけなのだ。それだけなのに、こんなに指先が、体が震えるのは。何か写真を撮ることに、特別なものを感じているからだ。


 かしっ。


 どれだけ震えていても、シャッター音は同じように響く。

 静かな世界を夢乃は切り取った。何を見ただろう。何を想っただろう。今だけは真っ暗闇が邪魔しない、「いつかきっと」の場所を見ることが出来ただろうか。

「……ありがとう、ユウさん」

 夢乃は一枚写真を撮ったきり、写真を撮らないで笑った。自然と零れた笑みだった。

「色々言って……ごめんなさい」

 カメラが返される。決して触れない指先が重なった。

「私は、生きてるね、今」

 下がった眉、困ったように夢乃が笑う。ユウも微笑み返した。当たり前のことを、ようやく不安も無く受け止められた今。やはり夢乃は、強い少女だと思う。

 彼女は代行してもらうことなく、自分で写真を撮った。

「後日、現像して一緒に持って来るから」

 その言葉を最後に、ユウは鉛筆を置いた。

 重苦しいことが全て、波に流されたように軽くなる。心なしかふわり漂う調子も軽く、波の音を背に病室を出た。

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