【4-7】
ふわり、自分が夜に染まっていく。
詩のようだが、そう表現する以外にあるまい。夜の空をふわふわ浮いているユウの身には、本当に夜の色が透けていた。
「……結局、来てしまったわね」
目の前には、白い壁。あの、何もかも真っ新に見える白だ。暗い宵闇にぼんやりと浮かび上がるように、病院が立っている。鼓膜を揺さぶるのは、近くにある海の、潮の音。生物が寝静まっても、変わらずそこにある音。
病院に幽霊。なんてありがちな組み合わせだろう。
(誰にも声を掛けずに、ここまで来たけれど……)
朝香や明に、心配をかけてはいないだろうか。それでも頼まれた代行の仕事が終わって、自然とここへ足が向いてしまったのだから、今さら引き返せまい。それに、代行の仕事をあと一日二日程度で遂行しなければならないのなら、「次の日」を待つ時間も惜しいと感じた。
草花が揺れる。揺れた方向で、自分に追い風が吹いているのだと分かった。
一度深呼吸をして。
するっと病院の壁をすり抜けた。夢乃の病室は二階だったはず。なので、凡そ二階だろうという高さから壁に入った。照明がちらほらとついた寂しい廊下。光の届かない壁の隅。白から闇へと染まった内壁。すっと壁に手を付けば、そのまま何かに引きずり込まれそうだ。薄ぼんやりとした夜の病院は、ユウでも少々ぞくぞくとしたものを感じる。
幽霊が出そう、もなにも、自分が幽霊なんだけれど。
「外」の夜より「中」の夜の方が恐ろしく感じるのは何故なのだろう、とふと思った。
コツ、コツ──……。
響く誰かの足音。ビクッと肩を震わせてから、ユウは病院の廊下を漂った。
「えっと……ここね」
眠っていても構わない。ユウは意を決して、夢乃の病室へと入っていく。「失礼します」、と心の中で断りを入れた。
真っ暗だった視界に。
光が差して、ユウは目を細める。
「……!!」
眩しい、と感じたのは月の光だ。窓から差す夜の光。真っ暗な場所から光を得ると、こんなにも眩しいものかと驚く。廊下よりもほわりと明るい、それなのに涼やかな、部屋。小粒のLEDからなるイルミネーションのように感じられたのは、窓から見える波だった。海の波が、月星を映して、自らもその一部となって光っている。
さらに驚いたのは、夢乃が体を起こして起きている、ということだった。
誰に見られていなくとも、しゃんとした輪郭。昼よりは、背筋を月光が淡くぼかしてしているけれど、それでも。強い、という印象が、安直に胸の中へ転がり落ちた。
彼女は、ただじっと窓の外を見ている。ここじゃない場所を見ている。
夢乃の真正面には回らず、ユウは一歩、横にずれて、少しだけ彼女の表情を伺った。ベッドからユウの立つ位置は、一メートルほど。
少女は、動かない。体も、表情も、微動だにせず。その顔は、無表情だった。切なさも悲しさも、何もなかった。ここでない場所を見ているのなら、切望があるのではと思ったのだが。
その時。少しも動かなかった輪郭が微かに揺れた。
何だ、と思った瞬間に、夢乃の顔がこちらを振り向く。ぱっちり。目が合う。
「誰? 誰かいるの?」
「!」
しかし当然、「目が合った」と感じるのはユウだけだ。夢乃は虚空に、声を投げ掛けた。
(気配を察知したのかしら……敏感なのね)
ユウは肯定の返事をしようとする。が、当然伝わるはずもない。自分の気配が分かっているのなら好都合だ。ユウは、彼女と話がしたい。
何か無いか、と辺りを見回す。自分の声が届けられるもの。自分の存在を示せるもの……ちょっとした力でも使えたら良かったのだが、ユウにはそんな霊力もないので、ラップ音一つ起こせない。
一方夢乃は、鋭い視線を緩めない。何かいるらしい、ということに確信はあるらしく、それに怯えもしなかった。
「! これだわ」
あるものを見つけ、手に取る。
手に取ったのは……一本の、鉛筆だった。
──『こうして架け橋になれるみたいなんだよね』
あの時。一度夢乃の病室に訪れた時。
明が咥えて拾った、落ちた鉛筆。
よって、ユウが触れるもの。
「……鉛筆が浮いた」
訝しげな視線が、こちらを見る。ユウ、ではなく鉛筆を見ているが、こちらのことを認識した。そしてやはり、驚いた様子はない。
それにほっとしながら、ユウは近くにあったメモ帳に文字を書き始めた。メモ帳は触れないので、筆先が震える。それでも何とか書き上げた。
「こんにちは。唐突に訪ねてしまってごめんなさい。私は、ユウ」
「ユウ……?」
「幽霊よ」
普通に会話を交わすように。
ユウは字を書き殴っていく。
夢乃は信じているのかいないのか、「ふーん……」と呟いた。ベッド脇の小さな棚。置かれたメモ帳。覗き込む横顔。反応こそ薄いが……心なしか、その口元にやるせなさが混じった気がした。
「死んでるの?」
「えぇ」
「そう。何の用? 私の前、あなたがここに入院してた?」
会話が成り立つ。メモ帳が黒く埋まっていく。文字が書けなくなると、夢乃が一枚紙をめくってくれた。
「それは分からない。生きていた時の記憶は無いの」
「気楽ね」
「そうかしら?」
「死ぬまでの苦しみも葛藤も忘れてるんでしょ。気楽で良いじゃない」
淡々とした口調だった。
一度、手が止まってしまう。記憶が無い、というのは、夢乃にとってそういうことだろうか。
首を横に振る。話が逸れた。そのために来たのではない。
「もう一度、あなたと話をしに来たの」
鉛が擦れる音。
メモ帳をめくる音。
波がさざめく音。
「私は、今日ここに来た写真家の朝香と、今は一緒にいるんだけれど」
重苦しい沈黙が、一瞬。鉛筆がメモ帳に踊る隙間に。
「あれほどに、拒むのはなぜ? 私はそれを知りたくて来た」
身勝手な理由でごめんなさい、と付け足す。
そう。身勝手な理由で話を聞きに来た。けれど、そうしなければ気が済まなかった。
夢乃は、そう言ったユウの身勝手さを分かっているのだろう。段々と瞳を冷たくして、そっとメモ帳から視線を外す。何も変わらない表情の代わり、ぎゅっと布団を強く掴む手。
「それを聞いて、自分が満足したいの?」
……「そうかもしれない」。
「私のことを、外にも出られない可哀想な子だと思ってる?」
……「それは違う」。
「だったらあなたとも、話すことはない」
書くのが追い付かない。し、夢乃はこちらを見ない。言葉すら、届かない。
ユウは唇を引き結んだ。ただ迷った筆跡が宙を舞い、静かな夜に線を引く音。見てくれなくても書き連ねようとした文字は、感情が有り余って。
パキリ。
芯が折れた。
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